「いーつーきぃ・・・」

「・・・はぁ、ったくお前はまた」


コンクリートの熱に犯される夏の夜、十時。

客もまばらな時間帯にカランカランと小気味いい音が鳴る。

音のほうへちらりと視線をやると、見慣れた姿がそこにはあって、俺は慌ててカウンターから飛び出した。

俺の腕に倒れ込んだ恋人でもない女子大生は見事なまでに出来上がっていて。

全く。

サラリーマンだってまだ出来上がってない時間だというのに。


「酒よえぇくせになんで飲むんだよお前は」

「んんー・・・」


さほど重たくはない。

ふらふらした足つきの酒臭い結衣を引きずってカウンター席に座らせた。

短いスカート着て、高いヒール履いて、長い髪を揺らして、うーうーと唸り声まで付けて。

よく電車で帰ってこれたなってくらい完全な酔っ払いだ。


「まじぜってーいつかラチられるお前」


授業サボってるみたいにカウンターに突っ伏してる結衣。

カウンターの中に戻って水を注いだグラスを、髪で隠れた結衣のほっぺたにくっつけた。


「結衣、ほら、水。結衣」


結衣は動かない。

顔にかかってる髪をどけると、ほっぺたと目元が赤くなっていた。

溶けたアイラインが、目尻を黒く染めている。

また泣いたのか。


「結衣」

「ん・・・」

「起きろ。他の客の迷惑だ」

「ん・・・ゆ―――」


手のひらで結衣の口を塞ぐ。

条件反射だった。

自分の心臓が、一秒前より早く打ってることにはっとする。

こいつのこの、寝言を言う癖はどうにかならないものだろうか。

酔うとすぐ男の名前を呼ぶ。

寂しいなんて言ってる間に、すぐ次の男を作る。

泣かされたのは今年で何人目だ。

上半期が終わってまだ間もないというのに。

全く、いい迷惑だ。
「んっ、んー・・・え・・・」


頭が痛い。割れそうなくらい。

脳内で七人の小人さんたちがせっせと働いてるみたいに。

つまり内側から叩かれてるみたいにガンガンする。


なんとか起き上がってみるとあたしは昨日と同じ服を着ていて、そこは一槻のバーのボックス席。

カウンターでは一槻が寝ていて。


「・・・え」


薄暗い店内。

腕時計は最後の記憶からして翌日の朝を指している。

なんであたしはここに居るんだろう。


「ったぁ・・・頭痛い」


わかることはあたしが二日酔いだってことだ。

前例からして酔っぱらって電車に乗ってそのまま一槻のとこに来た、ってところだろう。


ぐらんぐらんする世界にどうにか立ち上がり、カウンターの中まで行って水を汲んだときに思い出した。


―――ガシャンッ


濡れたグラスが手から滑り落ちて、そのままシンクで大きく割れたグラス。

フラッシュバックするのはあたしの嫌いな香水とセブンスターの混じった臭い。

そうだ。

昨日の夜、こんな風にあいつがあたしに投げつけたグラスは、床で粉々になった。


「んっ、ん・・・」


あぁ、腹が立つ。たまらなく腹が立つ。

まだ涙が出てくる。

泣いてはいけない。

泣いたら一槻が起きて、またあたしを馬鹿にする。

186センチも身長があるからってあたしのことを見下して、男を見る目がないだとか、馬鹿だとか、チビだとか、貧乳だとか―――。


「まぁた泣いてんのか、お前は」


ぐずっと鼻水をすする。

少しだけ滲んだ視界の中に、寝起きでボサボサの頭と、半分も開いてない目で、あたしを見つめる一槻が映った。

起きてきやがった。

低血圧で朝弱いくせに、今日に限って。


「オトコか」


うんと低い声で、一言そう呟いた。

あたしは頷かない。

手のひらで涙を拭って、一槻が溜息をつく。


「今度は何されたんだ」

「ずっ、・・・部屋に、女がいて、泣いて、怒ったら、ガラスの、コップ、投げられた・・・」

「あはは。ついにモノ投げられたのか」


「今度は何されたんだ」

「ずっ、・・・部屋に、女がいて、泣いて、怒ったら、ガラスの、コップ、投げられた・・・」

「あはは。ついにモノ投げられたのか」


一槻はどうってことない感じであたしの方へ歩み寄ると、涙と鼻水でべとべとになったあたしの手を取った。

ケガはないか、と尋ねるように、あたしの手をくるくると見回す。

ちらりと覗き込むように与えられた視線に、大丈夫だと返した。


「あーあーもう、仕返しならあの男に投げつけなきゃ意味ねぇだろ」


あたしの手には傷一つついていなくて、一槻の視線はシンクで割れたグラスに、それからあたしの方に。

あたしのことをちょっとばかにするみたいに薄い笑みを浮かべた一槻からは、いつもと同じ優しい匂いがした。


「いつ、」

「は、あ、い。・・・なんだよ」

「いつきぃ」

「ったく。お前は。今年で何人目だよ」

「しらない」


ぐっと俯いたあたしに大股で近付いた一槻は、大きく両手を広げてあたしを包んだ。

カウンターの中で時間が止まる。

浅い心拍数に身体を預けて、そのまま鼻水も預けて。


「鼻水付けんなよ馬鹿。男見る目無さ過ぎなんだよチビ」

「うるさい・・・独身オトコ・・・」

「ほっとけ。お前、俺の胸で泣こうなんざ、一分千円だからな」

「ぼったくりだぁ・・・」


優しい感じではない雰囲気に、目に少し掛かる前髪と無精ひげ。

一槻は幼馴染とか同級生とかそういうのではない。

ここは一槻が念願建てた自分のバーで、一槻はマスターで。

今年で33歳になる彼女のいないさびしい独身オトコ。


出会ったのは本当に偶然で。

話すと長くなるから話さないけど。


一槻は、女なんて面倒だというのが口癖だ。

あたしが彼女だの結婚だのを話題にすると決まってそう言う。

だけどあたしは知っている。


一槻が前にこのバーのこのカウンターで、お酒を飲みながら泣いていたこと。

一枚の写真と、きらきらした青色のお酒を手に、泣いてたこと。

あたしが一槻の涙を見たのは、後にも先にもあの時が最後だ。


あの人がきっと、一槻の好きな人。

あの人がきっと、一槻が恋人を作らない理由。


一槻は一度だってわたしのことを女として見たことなんてないんだろう。

自分の家に懐いた野良猫とぐらいしか思っていない。
「もう五分は経ったと思いますけど。樋口さんでお支払いいただければ」

「ざけんな馬鹿」

「馬鹿はどっちだよ」


一槻がくすっと笑う。

ゆっくり、抱きしめてた腕が解けた。


「ごめん、一槻」


涙はぜーんぶ、一槻の黒いシャツが吸った。

鼻水も混ざってたかもしれない。

目をこするあたしから離れた一槻は、カウンターを回って座って、女の子みたいに頬杖を着いてみせた。


「いつものことだろーが。反省してんなら泥酔して電車乗るの辞めろ」

「ごめんなさい・・・ね、心配してくれたの、今」

「調子乗ってんじゃねぇ馬鹿。泣かすぞ」

「ごめんなさい・・・」


無精ヒゲがにやりと笑って、ポケットから煙草を取り出した。

あたしはカウンターの中に置いてあった灰皿を一槻に手渡した。


「さんきゅ」

「うん」


一槻の匂いはセブンスター。

あたしは煙草が好きじゃあないけれど。

昨日別れたあいつもセブンスター。


咥えた煙草に、目を細めて、顔を傾けて火を付ける。

この瞬間の一槻は、悔しいけどかっこいい。


とりあえず、黙って、一槻の座る前に棒立ちになる。

誰もいない店の中にセブンスターが充満してく。


「結衣今日大学は?」


先にしゃべったのは一槻。


「・・・休む」

「じゃあ朝飯食うか」

「一槻が作るの? うっ―――」


ぱっと顔を上げたあたしに向かって煙を吐いた一槻。

あたしは思わずせき込んで、睨みつけた。


「あはは。わりわり」

「っ、許さない・・・あたしが肺がんになったらどうしてくれるの!」

「そんときゃ俺が看取ってやるよ」
タンッと、煙草を灰皿に押しつけて立ち上がる一槻。

看取るって、え、わたし、末期前提?

髪を掻き乱して、カウンターの中に入った一槻は、冷蔵庫から卵を取り出してごぞごそ何かしだした。


ふぅーっと深く息を吐き出して、下を向いて作業をする一槻を見つめる。


「・・・何ぼぉっとしてんだよ。手伝わずに食うつもりかお前は」

「あ、はいっ」


昨日はケンカの後に、一番仲良しの舞を呼び出してお酒に付き合ってもらって、電車でこっちまで帰ってきた。

誰もいない家に帰る気になれなくて一槻のとこに来た。

そっからのことは覚えてなくて。


“はぁ・・・ったく、お前はまた。”


覚えてるのはそこまで。


「一槻」

「ん?」

「ありがと」


返事の代わりに、一槻は背中を向けた。

あたしは一人っ子だからお兄ちゃんがいる気持ちは分からないけれど、もし居るとしたらこんな気持ちかもしれない。

その背中を見てるとなんだかいつも、目を細めて微笑みたくなるの。


       *


「メール・・・あ、店長がランチ奢ってやるから出てこいだって。ラッキー」

「なに、大学休むんじゃねぇの」


即席のフレンチトーストをちゃっかり二日酔いの身体に詰め込んだ結衣がケータイを開いてそう言ったのは十時すぎのことだった。

今朝飯食ったとこなのにもう昼の話か、と、俺は食後のコーヒーをすする。


「まぁバイト先ならアイツに会うこともないし」

「もういいの」

「・・・いいや。面倒だし」


自嘲して視線を逸らすのは結衣の癖。

面倒だしと言うときは大抵面倒だとは思っていない。

ただもう一度向き合って、もう一度傷付けられるのを避けるため。

そのくせにあと一週間もすれば、『この人素敵でしょ!』なんて笑っているのだからこいつは馬鹿だ。

馬鹿で弱い。


「ね、シャワー借りていい?」

「ここ一応男んち」

「うん。大丈夫! あ、あとお願いが・・・」


お願い、と顔の前で手を合わせて俺を見つめる。

こんなことを言っている時点で、彼女の中で俺は父親か兄に似た位置付けなんだろうと思う。

じゃなきゃシャワーなんて浴びないだろ。

いつものようににらめっこをしてみるものの、


「・・・ティラミスとシュークリームで手を打とう」
「・・・ティラミスとシュークリームで手を打とう」


いつも負けるのは俺だ。


「ありあとしたーっ。」


金曜日の午前九時にティラミスとシュークリームと女性物下着を買っていく男を、いつもいるあの店員はどう思っているんだろう、しかも一度ではなく何度も。


コンビニで買い物をして店に戻ると、店の中にまでシャンプーの匂いが漏れ出していた。

店兼我が家のこの建物。奥は俺の生活スペースだ。

昨日と同じ服で出歩いて、周りがなんと思うかなんて気にならないんだろうか。

多分、気にならないんだ。彼女はいつもそうで。


俺が知っている彼女は二年分しかないけれど、その期間で何人の男に泣かされただろう。

決まって振られるのは結衣。

結衣から嫌いになって別れた奴なんか居なかった。

裏切られるたびに、その男のために泣いて、酔っぱらって、また違う男に恋をする。

それをずっと繰り返しているのに、彼女は不思議と汚れない。

笑顔はいつでも無邪気で。

ここへ友達を連れてきたことは一度もないけれど、女友達もたくさん居るみたいだ。

どうしても、男運だけが着いてこないんだな。


「じろじろ見ないでよ、気持ち悪い」

「誰かお前を好き好んで見るかよ」


出ていく直前、俺が酒は飲むなと忠告すると、お父さんみたいと笑った。

俺の手首を掴んで引き寄せ、俺の持っていたシュークリームを一口かじると、行ってきますお父さんと楽しそうに手を振って出て行った。

からっぽになった店の中には、俺の溜息がいつまでも響いていた。