かたん
マンションのエントランスに、錆びれた音が響く。
201と書かれた小さな郵便受けは白い塗料が剥がれ、茶色く変色した鉄が所々見えていた。
壁に一式並ぶ他の家の郵便受けもどれも同じようなもので。オートロックが完備されたエントランスに廃れた一角は、正直浮いていた。それでも直されないのは、例えどれだけ見栄えが悪かろうと誰も注視しないからだろう。
今や新聞さえもインターネットで閲覧する時代だ。もちろん手紙さえ受け入れることがなくなったのだから、道具としての利用価値はほぼゼロに近い。
冷たい蓋を占めると、またかたんと寂しい音が鳴った。
誰も見向きもしないそれを毎日確認する私は、ただの癖だった。
人から忘れ去られどんどん錆びれてもそこにあるしか出来ない郵便受けを、私は可哀想だと思っていた。
そんな私は自分でも少し気狂いだと思う。
今日もまた、私はマンションへ帰るとき201と書かれた箱を開いた。塗料が剥がれているせいでざらりと錆びた鉄が肌をなぜる。少し不快だ。
エントランスに入って来たマンションの住民が不思議そうに私を見ている視線が背中に刺さる。
やっぱり今日も、箱の中には空虚だけがしめていた。
私はこの日、勢いよく走っていた。外は土砂降りの雨。私を守るものは、既にびちゃびちゃに濡れて色が深く変わった制服のブレザーのみ。
傘を忘れて外に出ていた私は、見事にわか雨に合っていたのだ。
もう全身ずぶぬれなのに、それなのに私は水たまりを蹴って走っている。飛ぶ水しぶきが白いソックスに茶色いシミを付けているだろうが、水を含んだローファーがぐじゅぐじゅと鳴って気持ち悪さのあまり汚れ何て気にできなかった。
なんとかマンションのエントランスまで駆け込むと、私は大きく息を吐いた。肺が半分縮んだように思えて、荒く息を繰り返す。
……あー、疲れた。とんだ災難だった。
早く部屋に上がらないと風邪をひきそうだ。
額に張り付いた髪を払い、顔だけでも濡れた水滴を手で拭った。
エレベーターで誰かに遭遇すると居た堪れないので、階段で部屋まで上がろうと思う。たった二階だが、普段全く運動をしない私には少ししんどい距離なのだ。二階分だけれど。それに今日だって何か月ぶりに走ったのか…。
まだ肩で息を続けながら床に敷かれた重厚なカーペットに染みを作っていた私だが、ふと郵便受けが視界に入った。
どうせ今日も何も入っていないんだ。それよりも早く着替えなければならない。
そうは思うけれど、水を含んで重たい足は慣れたように静かに鎮座している場所へ向かう。
ぐしゃりぐしゃり靴下とローファーが音を立てても、やっぱり私の足が止まることはなかった。
かたん、と外でザーザーと降っている雨の音に錆びれた音が混じる。寒くてかじかんでいる手は郵便受けの不快な手触りを感じなかったけれど、私は咄嗟に目を見開いて眉を顰めることになった。
白い便箋が一通、一面真っ茶色の箱の中にあった。
十八年生きて初めてみた手紙に、私はしばらくその場を動くことができなかった。
思わず手の水滴を振ってはじいて、恐る恐る白い手紙に手を伸ばす。
手に掴んだ手紙は少し厚みがあって、紙独特のざらりとした手触りだ。
目の前に掲げ、裏っかえしてみるとマンションの住所に201号室と書かれていて、切手が貼られてあった。
「……」
じっと真っ白な手紙を見つめ、私は踵を返して部屋へと急いだ。
鍵を開けて部屋に入ると、真っ暗で陰湿な空気が漂っていた。だが今日はそんなことちっぽけも気にせず、濡れた靴下を手紙を持っていない方の手で脱いで、部屋に駆け上がった。
机の上に転がっていた鋏を手に持って、つんのめりそうになる気持ちを落ち着けて、ゆっくりと白に刃を入れた。
『昔ね、おばあちゃんが子供のころはね、まだ電子メールと手紙のどっちがいいんだ!ってよく議論されていたのよ』
『私は絶対電子メール!って思っていたんだけれど。でも手紙が減っていく時代を歩いているとね、やっぱり手紙が恋しくなるの。何もかも効率で語る時代にね……あー遅かったんだってみんな嘆いていたわ。手紙は出せば届くのに、出しもしないで嘆くだけ。時代は変わったのねってつい笑ったわ』
開いた手紙には、ただの白紙が入っていた。
ぽたりぽたりと髪から垂れる滴が、紙ににじみを広げただけだった。