家に帰ると、誰もいない家に向かってただいまと呟いた。いつも思う。家に帰ってただいまと言えば、おかえりと返ってくるということは、得がたい幸せなのだ。多くの人は、幸せに慣れすぎている。慣れは怖い。本来幸せであることを、普遍的なものだと思い込んでしまうのだから。幸せが当たり前になってしまったら、次は何を望むというのか。現代にはまだ、幸せを超える幸福状態を表す言葉はない。いや、あるとしても、それを望むことがいかに強欲なことか。人間は歴史の中で、幾度も幸せ以上の、つまり、利己的な私欲をつかもうとして、失敗してきたではないか。慣れというものは、そんなことすらも忘れさせるのだ。
僕はスニーカーをぬいで、スリッパに履き替える。僕の家は、小さな二階建てのアパート。その一階の一番奥の部屋が、僕の家である。1Kのこのアパートは、他と比べても格安の家賃だ。バイトをしながら、一人暮らしをしている僕にとって、ここしか選ぶところはなかった。僕は部屋の机の上にリュックを置くと、朝出てくる時開けっ放しにして忘れていたカーテンを閉める。この季節の日没は早く、既に外は真っ暗になり始めている。僕はそんな景色に一瞥もくれずに、キッチンへ向かって、夕飯の支度をした。高校生になるのをきっかけに自立をして、一人暮らしを始めて約1年半。初めは料理など何もできなかったが、時間の流れとは恐ろしいものだ。今となっては、バランスの良い食事を用意する女子力を身に付けていた。その他にも、僕は洗濯から掃除まで、あらゆる家事を一人でこなしている。
僕は一通りの準備を済ませ、部屋のテーブルへと料理を運んでいく。今日のメニューはご飯、明太卵焼き、豚の生姜焼きに、味噌汁だ。ちなみに僕の一番の得意料理は味噌汁である。全てをテーブルの上に運び終えると、テレビの電源を付けた。
「次のニュースです。今日午後、都内の中学校で、一人の女子生徒が、屋上から飛び降りて自殺しました。飛び降りたとされた所には、生徒のものと思われる上履きと、遺書のようなメモ用紙が見つかったそうです。」
あまり気分が優れる話題ではなかったので、僕はすぐにチャンネルを変える。
「自殺か...。」
どうせ自殺をふるのなら、飛び降りだけはやめておいた方がいい。飛び降りは高確率で死ねるけれど、運良く生き残った場合、なんで自分は生きているんだという憎悪はより一層増すだろうから。
僕は一人きりで手を合わせて、自分にだけ聞こえるぐらいの小さな声で、いただきますと言った。家に誰もいないとか、そんなことは関係なく挨拶はちゃんとするものだと僕は思っている。温かい味噌汁を一口すする。うん、自慢じゃないけど、やはりおいしい。