「なあ。」
横にいる一条に突然話しかけられ、僕は少なからず驚いてしまった。僕はそれを悟られないように、冷静を装って何?と返す。
「お前、さっきの数学の時間。また外見てたろ?」
図星を言い当てられ、少し焦る気持ちと、気付いてくれてほっとする気持ちが、僕の中で交錯する。
「気付いてたんだ?」
「バカヤロー、おれが気付かないとでも思ったのか?」
思っていない。一ミリも。だからこそ黙っていたんだ。言おうとした言葉は、すんでのところで喉につっかえてしまって、外に出ることはなかった。彼はいつも気付いてくれる。僕が自分から言いにくいこと、少し元気がないこと、嬉しかったこと、何でも言い当ててしまう。そんな彼の優しさに、僕は今までどれだけ助けられてきただろうか。その恩は、今後折に触れてしていけたらいいなと思う。
「まだ未練あんのか?」
「...あるっちゃ、あるよ。」
「相変わらず連絡はとってないのか?」
僕は首を縦にふる。半年前のあの日、すぐに連絡をとっていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。しかし、悩んでも起こった過去を変えることなんてできるはずもなく、長い間連絡を取らなかったツケは、「気まずさ」という形で、僕の目の前にずっしりと立ち塞がった。
「取らなくていいのか?理由聞かなくて後悔すんのはお前だぞ?」
一条は、僕の事情を大体は知っている。だからこそ、そんなに僕のことを思ってくれる彼の気持ちはすごく嬉しいのと同時に、まだ話していないことがある罪悪感が募っていることも確かだ。
「ありがとう...。」
矛盾する二つの思いを抱えた僕には、一条の真っ直ぐな優しさに、そう答えるだけで精一杯だった。
次は古典の授業だったので、僕は廊下にある自分のロッカーから授業の用意を取り出して、そそくさと自分の席に座った。そうして僕はまた外を見る。いつの間にか、ぽつぽつと雨が降り始めていた。遠くに見える山の頂きには、黒みがかった分厚い雲がひしめき合っている。これは一雨くるな、そんなことを考えながら僕は例のマンションを眺めていた。やはり、連絡を取った方がいいのだろうか。わからない、何もかも。いや、勇気を出して取った連絡すら拒絶されるのを、ただ恐れているだけなのだろうか。どちみち、連絡を取るには相当な覚悟が必要そうだ。
「え~、昔の男性はね、気に入った女性がいるとその人に向けて歌をかくの、今で言えば手紙ね。そして送られた女性が、その歌を素敵だなんて思うと二人は交際に発展して行くのよ。」
なんて単純で、潔いのだろうと、僕はまだ三十代前半女性の、古典という響きがとても似合わない可愛らしい先生を見ながら思った。
「手紙か...。」
誰にも聞こえない、もしくは声にも出ていなかったのかもしれない、それぐらい小さな声で、僕はそう呟いた。