「稲中さん、お庭のお掃除終わりました。お座席のお掃除してもいいですか?」
「はあい。ごめんねえ、もうちょっと待ってね!」
お座敷で花を生ける奥さんに声をかける。
お座敷には奥さんしかいないから、稲中さんと呼んでも混乱しない。
奥さんは口調が稲中さんによく似ている。
穏やかでほっとする、軽くて優しい、少し空気を含んだ声をしている。
はいと返事をして、奥さんの作業が終わるのを待つべく、後ろ手で引き戸を閉める。釣鐘がちりんと鳴った。
お座敷の隅に座って、ぱちんと音高く茎を切られた生け花を、背筋の伸びた後ろ姿から覗く。
奥さんがどちらにしましょうと呟いた手元で、ピンクと白が揺れている。
今日は水引とピンクの秋明菊らしい。秋明菊は白い花も綺麗だけれど、鮮やかな色もいい。
……お花を見て意識をそらす作戦は失敗らしい。
持て余した時間に、同じく持て余した感情がじわじわ迫り上がってきてしまっている。
困ったなあ、とゆっくり深呼吸をすると、瀧川さんがまぶたの裏に蘇った。
鋭い目。
驚いた顔。
微笑み。
美しい、笑顔。
「……大丈夫」
今日もちゃんと接客できた。
瀧川さんに避けられてしまうかと思って焦ったけれど、なんとかなったし、また来ると約束してくれた。
大丈夫。大丈夫だ。
唱えて引き結んだ唇がグロスでベタつく。
グロスや口紅を塗るとどうしても唇が荒れる体質だけれど、塗らない選択肢は持ち合わせていない。
大学生になってから、淡くメイクをするようになった。
メイクをするのに子どもを演じるなんて馬鹿みたいだけれど、メイクだけは唯一できることだから、どうしても外せなかった。
髪はきっちり結ぶ。
頑張って可愛くしても三角巾に隠れて見えないから、とにかくほつれないようにきっちり結ぶことを優先する。
爪は短く清潔に。
磨いてはいるけれど、マニキュアはしない。透明でもベージュでも駄目。
邪魔になるから、アクセサリー類は以ての外。
指輪もしていない。私は指輪をするならおしゃれのためのものになるけれど、結婚指輪の場合も同様。
稲中さんご夫婦も息子さんご夫婦も、結婚指輪はチェーンに通して首にかけて、服の中に入れて落ちてこないようにしている。
香水は、どんなにいい匂いのものでも、淡い持続しないものでも、なし。
稲中さんはとても匂いに敏感で、匂いも美味しさの判断基準だから、香水をつけたら邪魔になる。
せっかくのたい焼きの香ばしさとも混ざってしまって、それは私が嫌だから、勤務日は香水もつけないと決めている。
おしゃれが駄目なのは飲食店として当然のこと。
何より、ずっと好きな稲やさんの雰囲気を壊したくない。
だから、私に唯一残された大人の印は、メイクをすることだった。
メイクをしたい。
おしゃれをしたい。
でも、子どもに見えてほしい。そんな矛盾。
「……大丈夫」
ただ無知であれ。
無邪気であれ。
何も聞かないままであれ。
都合がよくていい。便利なやつでいい。
へらりと笑え。距離を測れ。
——なにも、何も望むな私。
脆くて儚い戒めを何度も繰り返す。
何度も言い聞かせる。
毎日自分を押さえ込めば、もう少しの間、現状維持できるはずだから。
まだ会いたい。笑いかけてほしい。名前を呼んでほしい。絶対に失敗したくない。
きゅう、と目を閉じた。
「……たきがわさん……」
私は今日も、厚く厚く、子どもの仮面を被る。
お店の中の掃除と洗い物をしたら、後はお客さまのご案内とお会計が主な仕事内容。
できたてのたい焼きを見栄えよく棚に並べたり、季節のもので新作があるときは試食を呼びかけたり、商品名を筆ペンで書いたり、こまめにお庭の落ち葉を集めたり、インターネットやお電話でのご予約の対応をしつつ、お昼休憩まで入口のカウンターにかじりつく。
基本的な仕事はお客さまの対応だ。
書道を習わせてもらっていたおかげで、結構読みやすい字を書ける。
金箔が散った淡い乳白色の和紙に筆ペンで商品名を書き、同じ大きさの真っ白な画用紙に貼って補強したものを、透明なプラスチックケースに入れて棚に立てかけるのは私の仕事。
季節ごとに商品が変わるので、結構な頻度で書いている。
商品名は大きく、粒を揃えて丁寧に。
字が小さいとご年配の方が読みにくいし、くせがあると大半の方が読みにくいし。
字体を凝ったり、飾ったりするのもいいけれど、それで読みにくくなったら駄目だと思う。
商品名を見て少し固まったお客さまに、困り顔で「今月のたい焼きはなんですか?」って聞かれたら悲しい。
……張り切りすぎて文字が読めないくらい飾り文字にしてしまったことが一度ある。
やっぱり伝わりやすいのが一番だよね。
商品名を見て、「素敵ねえ」って声をかけてもらったり、目を輝かせてもらえたりしたら嬉しい。
稲やさんではシンプルな小倉以外に季節のものも扱っていて、あんはひと月ごとに変わる。
先月は栗あんで、今月はかぼちゃあん。
商品名は分かりやすく、栗たい焼きとか、かぼちゃたい焼きとか、あんの名前の後にたい焼きとつく。
今年の四月くらいだったかな。それまで使っていた商品名の札がだんだん日に焼けてきて、少し黄ばんでしまったんだよね。
それはそれで味があってよかったんだけれど、商品名の字も一緒に色褪せて読みにくくなってきちゃって困ったので、定番商品も含めて一度私が全部書き換えた。
その後も私が続けて書いた方が文字が揃って見栄えがいいだろうということで、毎月商品名を書いている。
季節のものは淡い桃色の和紙に書く決まり。
和紙を取り出してきて「かぼちゃたい焼き」と書いて、棚の右端に立てかけた。
たい焼きは棚の四分の三を占める。
定番のたい焼きは二列分。
季節のたい焼きは、真ん中寄りの、お客さまから見てたい焼きスペースの左側に並べてある。
全体のバランスを確かめていたら、ちりん、と釣鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「こんにちは。吾妻さん、いつもありがとうございます。今日も抹茶ですか?」
吾妻さんはいつも抹茶のたい焼きを買ってくださる、上品なおばさまだ。もちろん常連さん。
べっ甲の眼鏡と豊かな白髪が似合う素敵な方で、将来はこんなふうに歳を重ねたいなと思うような人。
ええ、と柔らかに頷いた吾妻さんは、棚の端に目を留めた。
「あら、新作? かぼちゃなんてとっても美味しそうね。ひとついただこうかしら」
「ありがとうございます。かぼちゃの甘みを活かすために、お砂糖を控えめにしているんですよ。ご試食なさいますか?」
「ありがとう、いただくわ」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
吾妻さんに隅の丸椅子に座ってもらって、丁寧にお辞儀。
少し早足でカウンターに向かい、あんがたっぷり入ったお腹のところを切り落とす。
かぼちゃのあんが見えるように赤い紅葉の小皿にのせて、黒文字を添えた。
赤には焦げ茶色がいい。秋らしくした方が、きっとかぼちゃも映えるだろう。
「お待たせしました」
「ありがとう。……ふふ、素敵ね」
優しい視線が小皿と菓子切りに向けられて、嬉しくなる。
秋らしく選んだのは伝わったらしい。
夏は淡い色の爽やかな組み合わせにしていたからかな。
ありがとうございます、と笑った私に、吾妻さんも笑って、「それじゃあいただくわね」とたい焼きを口に運んだ。
ふわり、口元が弧を描く。気に入ったのは明白で。
「いくつご用意いたしましょうか」
先回りして尋ねると、吾妻さんは少し恥ずかしそうに微笑んで、ふたつ注文してくれた。
「前も書いていたけど、これもかおりちゃんが書いたの?」
かぼちゃのたい焼きをお包みする間、手持ち無沙汰だからだろう。
棚を見ながらにこにこ聞かれたので、私もにこにこしながら頷いた。
「はい。商品陳列は私のお仕事なんです。手書きの場合は字を揃えた方が見栄えがよくなりますし」
「そうねえ。いつも素敵だわ」
「ありがとうございます」
にっこり笑った隅で、順番待ちしていた瀧川さんが、小さく目を見張った。
珍しくいつもより遅いお昼の時間だから、多分お仕事がお休みの日なんだろう。
注文はひとりずつ順に承るので、順番待ちの人には隅の丸椅子に座って待ってもらう決まりだ。
「お待たせいたしました。お出口までお持ちいたします」
ほかほかのたい焼きを包んで、出口を指し示す。指は揃えて、が基本。
「お熱いのでご注意くださいね」
「ええ、いつもありがとう」
出口で吾妻さんにできたてのかぼちゃたい焼きをふたつお渡しして、お辞儀をする。
この時間にいらっしゃるときは瀧川さんは急いでいないから、先客を出口までお見送りしても大丈夫。邪魔にはならない。
「ありがとうございました。また是非いらしてください」
「ええ、また来るわ」
「はい。お待ちしております」
この時期は扉を開けっ放しだと少し寒い。
手早く丁寧にお見送りしてから、うるさく鳴らないようにそっと扉を閉めて、早足でカウンターに戻った。
「お待たせいたしました」
「いいえ。……あなたが、書いていらしたんですね。ずっと通っているのに知らなかった」
カウンター前に立った瀧川さんが、棚を見ながら呟いた。
「はい。春先に一新しまして、そのときから書かせていただいてます」
私が作業するのはいろいろ準備が終わってからで、混雑前の時間にささっとだ。
お客さんがひとりしかいないときにちゃんと対応しなかったら失礼だし、忙しいときは忙しくてさばくのに精一杯だし。
瀧川さんが来る時間は瀧川さんのご対応をするか忙しくしているかのどちらかで、絶対に作業はしていないはずだから、知らないのは当然のこと。
「達筆でいらっしゃるんですね。手書きのようだから、どなたが書いていらっしゃるんだろうと思っていたんです」
読みやすい字でお羨ましいです、と爽やかに褒めてくれる瀧川さん。
すごい。さすが手慣れている。
「ありがとうございます、光栄です。すっごく頑張って書いているので、そうおっしゃっていただけるととっても嬉しいです。もう、書くときは緊張して緊張して……!」
とりあえず、喜びを前面に押し出しつつ、ちょっとだけおどけてみる。
多分謙遜されると思っていたんだろう瀧川さんは、ちょっと目を見張って、堪えきれずに噴き出した。
すっごく頑張っているとか緊張しているとかなんて、言われると思わなかったんだろう。
くすくす楽しそうな瀧川さんに、私もにっこり笑った。
気を悪くされなくてよかった。
私は、こういうときは謙遜しないでお礼を言って、少しおどけることにしている。
謙遜しちゃうと相手もなおさら褒めないわけにはいかないから、いやいや、いやいやいや、みたいなよく分からないやりとりになってしまう。
初めからお礼を言いつつおどける方が、私は丸く収まる。
稲やさんの常連さんはみなさん優しい。
私がちょうど娘みたいな年齢なのも相まって、何かあるごとにたくさんたくさん褒めてくださるので、自然と素直に喜ぶようになった。
『褒めるってことはね、素敵だなって思ったってことだから』
謙遜していた私にそう言ってくれたのは、稲中さんの奥さんだった。
『素敵だなと思って褒めたのに、そんなことないですよって褒めた人から謙遜されたら、ある意味褒めた自分を謙遜された、みたいな意味になるでしょう。そう言ってしまうと、ちょっと……だいぶ大げさだけれど』
だからね、かおりちゃん。
『ありがとうございますって言ってしまうのはどうかしら』
奥さんは強制も押しつけもしなかった。注意でもなかった。
あのね、もしよかったら、とすごく細やかに配慮してくれた。
謙遜されたら悲しいとも、失礼だとも言わなかった。
ただおどけた顔で、秘密を打ち明けるみたいな明るいわくわくした声で、私だけのときにそっと笑って言ってくれた。
まだ高校生だったあの日から、私は奥さんをずっと尊敬している。