2013年12月。
クリスマス間際で浮かれる街の片隅で。
私は失意のどん底にいた。

街はキラキラ。
イルミネーションが輝いて、大きな道路の真ん中にそびえ立つ、あのタワーの上から見たら車の光も相まってそれは綺麗な夜景を作り出していることだろう。
その中に、うつむく私がいたとして、光の風景のなかでは誰も気にも止めないし夜景の一部でしかないのだろうけれど。






―――遡ること、10分前。

「お前って、俺と仕事のどっちが大切なわけ?」

まるで女の子が言うような台詞を吐いたのは間違いなく目の前に居た男性。
日野恭平、働き盛りの32歳。
彼は普通のサラリーマンで、私は駆け出しと言える頃を過ぎた28歳のウェディングプランナー。
生活なんて、合うはずもなかった。
土日休みの彼には、土日が本番みたいな私の仕事はどうにも理解が追い付かないらしい。
いや、彼も馬鹿じゃないし、もちろん理解がない訳じゃないのだ。
ただいかんせん、私の中で仕事の占めるウェイトが彼にとっては大きすぎた、ということで。

「恭平くんのことは大事だよ」

そう言ってはみても、どうやら彼の心には響かなかったようで「そうかよ」と口許で呟いて、くるりと背を向けて去っていった。

分かってたよ、そんな言葉じゃ繋ぎ止めておけないことなんて。
分かってたよ、それくらい、あなたに甘えていたことは。




遠くなっていく背中はいつしか人混みに紛れて見えなくなった。
悲しくない訳じゃない。
辛くない訳じゃない。
けれど不思議なもので、悲しくても涙はでない。
思えば彼の前でも、お客様の前でも同じ。
“嬉しい”以外の感情で泣くことなんてしたことなくて、いつだって飲み込んできた。

雑踏の中、俯いてその場から去ろうともしないなんて邪魔だとわかっている。
それでも私は動けない。
ようやく体が感情に追い付いてきたのか、じわりと目頭が熱くなる。
いつもだったらグッと堪えてしまうところだ。
だけど良いの、もう。
涙を流したって誰も見てはいないから。
大丈夫だよ、美伽。
我慢なんてしなくても。
つるりとひとつ滑り落ちた雫は夜の闇に紛れた。

1ヶ月ぶりにようやく実現したデートの約束は、私たちの関係を解消するためのもので、所要時間はものの15分。
浮かれた街の片隅で、私はようやく歩き出した。
イルミネーション輝く街が恨めしい。
すれ違う人の顔は笑顔ばかりに思えるのは多分被害妄想なんだろうけど、本当にそうだったのなら世界から取り残されているように思えてしまいそうで怖くてまともに顔を上げられない。

あのね、恭平くん。
私、あなたのことが好きだったんだよ。
とっても好きなんだよ。

言えなかった言葉の代わりに、つるつると涙が頬を濡らしていく。
止めることもできなくて、うつ向いたままで歩いていたから、すれ違い様に人とぶつかりそうになったけど、すみませんと呟いてまた歩く。
大丈夫、慣れた道だからどこに何があるのかわかってる。
暫く歩いて地下街に入る階段の入り口でふと立ち止まった。




約束をする度にドタキャン。
また約束をしても、キャンセル。
時にはデート中にも呼び出されたことがあった。
その度に背中を押してくれたけど、本当は嫌な思いをさせていたんだと思い知る。

お客様にとったらおそらく『一生に一度』の晴れ舞台のつもりなのだ。
入念に、何度でも事前に確認したいのだろうし、もちろんこちらとしてもビジネスとはいえ出来うることをしてあげたい。

お客様だって仕事もあれば予定もある。
自分たちが主役だといっても、必ずしもしなくてはいけないと言うわけではなく。
お客様からしたら、あくまでも結婚式は仕事ではなくて。
ぶっちゃけ式などあげなくても婚姻関係は結べるのだ。
そんな中でうちでわざわざ式を挙げたいと思ってくれたなら、叶えてあげたいとおもうじゃないか。
無理難題を吹っ掛けられても、予定外の下見だ相談だがあったとしても。
お客様は“自分のペース”で生活していて、それによって変動する私のシフトなんて関係なくて。
相手方の言い分を想像するとしたら多分、これだ。

『それがおたくらの仕事だろう?』

間違いないのだ、それは。
お客様ありきで成り立っているのだから。

呼ばれたらいくしかないじゃないか。
頼りにしてるなどと言われたら、断ることなどできなかったじゃないか。

仕事は生活のために、生活はあなたと生きるために。

どれだけの言い訳を並べたところで恭平くんを蔑ろにしてしまったのは他でもない私なのだ。
誰よりも一番大切にしなければいけない人だったのに。
せめて言葉で伝えることができたはずなのに。
けれどもう、今さらだ。

頬を伝う涙が現実を伝える。
“今さら思ったって仕方がない”ことだ、と。



頬を伝う涙をようやく拭う。
それでも瞳は滲んでいて、見上げたタワーのネオンがいつもより眩しくて、ぐっと目を細めたらまた端から涙が溢れた。
そのまま空を見上げたら、ビルの隙間に広がる狭い空は暗闇ばかりだった。
雲なんてかかってないのに、そこにあるはずの星たちは地上のネオンに姿を消され、目視できない。

――どうしようか、これから。

考えて、笑った。
どうしようか、じゃない。
いつも通りに過ごすしかないのだ。
泣いても笑っても時間は過ぎるから。
仕事もお客様も、時計の針も私がここに立ち止まることを許してはくれない。
今さら尽くす女になることもできないし、できたところでもう恭平くんは帰ってこないだろう。

だけどまだ、あなたから貰ったこの気持ちも、耳に光るピアスも私は捨てられそうにない。
一歩を踏み出しても、まだ、それだけは私のものでいさせてくれるよね?
耳についたピアスに触れて、私は“これが最後”と恭平くんを思った。

知ってた?恭平くん。
私、このピアス、仕事中もずっとしてたの。
2週間後はクリスマスで、私たちの付き合い出して5年目の記念日だったんだよ。
『ハワイ、良いな。行きたいな』って、テレビを見ながら言っていた。
遠出することもなかった私たちには一番の旅行になるねって言って、新婚旅行になるかな、なんて笑いあっていたよね。
あのね、恭平くん。
この何ヵ月か休みも返上して働いたお陰で、年明けの月末に1週間お休みをもらえることになったの。
今日「ハワイとはいかなくても、一緒に旅行にいこうよ」って、言うつもりだったんだけどな。

あのね、恭平くん。
あのね。
どうしてもっと早く、大切だよって伝えられなかったんだろう。




さぁ、行かなくちゃ。

いつまでもここに居たところで体が冷えるだけ。
心が冷えている今、体まで冷やしたら完全に凍ってしまいそうだ。
だから歩け、私。
ほら、動いてよ、私の足。

地面に根っこが伸びてしまったように動かずにいた足を、気持ちを奮い立たせてようやく動かす。
階段を降りて地下街に入ると暖房が入っていて暖かい。
外気はあんなに冷たかったのに……。
いつかこんな風に私の心も暖かくなるのだろうか。
今はさっぱりわからない。
失恋したときの立ち直り方なんて、遠い過去のようで忘れた。
片想いで終わった恋も、初めて付き合った人とも“別れ”はあったはずなのに、確かに立ち直ってきたはずなのに。
どんな風にして立ち直ったんだっけ。

このまま帰っても、きっとご飯を作る気力も持てないだろう。
かといってデパ地下でお総菜を選ぶ気分でもない。
家にあったカップ麺でもすすろうか、いや、そんなことしたら余計に心が寂しくなるかも。
何が正しい判断かもわからなくて、それでも帰巣本能が働くのか、いつの間にか改札を通って電車に揺られていた。
車両に人が多いなと感じるのはこの時間に慣れていないからか。
今が何時なのかを見るために、ポケットからスマホを取り出すとメッセージを受信していた。

恭平くんからのメッセージだったら良かったのに、それは虚しくも明日のスケジュール変更のお知らせで、投げ出したくなる衝動を押さえて一言、了解しました!と送る。
顔も声も聞かせずに言葉を伝えることができるのは便利だ。
顔色も声色も読まれることがないから。
滞りなく、違和感もなく、受け止めてくれるから。

私たちには明確な『別れよう』の言葉はなかったけれど、お互いにこれが最後だと、分かっていた。







あれから、季節は巡った今は、2017年2月吉日。
私にとっての今日までで一番の“大仕事”といえる日だ。

「本日はお忙しい中……」

会場に集まっている着飾った人々の注目の的になっているのは日野恭平、その人だ。
私はその光景を壁際から見ている。

小さい頃や学生の頃は、たった1年2年で人は変わったものだけれど、大人になってからの1年2年というのは流れる時間は同じはずなのに緩やかになっているのか、さほど変わりはなかった。
恭平くんはやや緊張した面持ちでスピーチをしているけれど、その瞳には迷いがない。
グレーのタキシードがよく似合っている。
胸には紫の薔薇のブートニア。
主役二人の脇には同じ花をあしらったラウンドのブーケがある。
可愛らしい雰囲気の新婦さんの為のそれは可愛らしく仕上がっていた。
恭平くんが求めていたのがそれだったのならば、私はやはり彼には相応しくなかったんだろう。

二人を見つめながらも私は会場全体に気を配らせて滞りなく式が運ぶように勤めなければならない。
それが私の仕事で、プライドだから。

『俺と仕事、どっちが大切なわけ?』

あの日投げ掛けられた言葉は、深く私の胸に刺さり、長く私を蝕んだ。
あなたは知らないでしょうけど。
何年経っても、子供が“親には叶わない”と思うように、自分自身に思うのだ。
“あの頃は若かった”と。
よくも悪くも、若い頃にはきっと勢いがあったし、すべてに全力だった。
仕事にも、恋にも。
あなたがすべて、とまではいかなくても、成績がぐらつく程度には、全力だった。