愛され系男子のあざとい誘惑

「よし、今日も完璧」

ここはB.C. square TOKYO。都内たっての高層ビルで55階建てのこのビルは飲食店、クリニック、そして世界に名だたる有名企業が入っているだけでなく、ホテルも兼ね備えている高級ビル。

私はこのB.C. square TOKYOで働いている。クリーンスタッフとして。

私、槙野優美(まきのゆうみ)の仕事はこのビルの掃除。掃除機をかけたり、窓の拭き掃除など。昔でいう掃除のおばさん。でも今はおばさんだけの仕事ではない。


私の職場でもある株式会社クリーンマニッシュはとても厳しい。正社員の中途採用はなし。

パートやアルバイトでも茶髪やアクセサリー類は一切禁止の徹底ぶり。それでも辞める人は少なく、コミュニケーションもしっかりと取れた職場で働きやすい。

それに掃除好きの私にはやりがいのある仕事だと思っている。勤務時間は朝6時から10時まで。配置換えが月一であって、なかなか企業の名前も覚えられない。


そんな私は今、ある企業の担当をしていた。

まだ朝の七時半だというのに暑い。今は八月初旬、今日も熱中症には注意しましょうという忠告があった。


私たちクリーンスタッフが働く時間はまだ空調が効いていないことが多い。だからこんな朝早くからでも暑さを感じてしまう。それに少し朝から体調も悪かった。昨日、あまりの暑さで薄着のまま眠ってしまったから風邪を引いたのかも。


とりあえず残りはあと一部屋。掃除道具を片手に急いで隣の部屋に移動した。私が今、担当しているのはこのビルの28階、IT関連会社の株式会社Ligloss(リグロス)。


ここは企業の名前を覚えられなくて、IT系の会社をよく知らない私でも知っている有名企業。テレビのCMで火が点き、あっという間に知名度がアップした企業。


おっと、ぼんやりしている場合じゃない。私たちはここで働く人たちがよりよい環境で仕事をするお手伝いをするものであってあくまでも黒子。社員の人たちが出勤してくる前に掃除を終わらせることが一番の決まり。


でもこのLiglossは会社の中がかなり広いのでいつも時計との戦い。大体早くても八時を過ぎてからしか社員さんは出勤してこないのでそれまでに終わらせるようにはしている。
でも今日は体調不良のせいで思うように仕事が捗らない。時計の針はもう七時五十分を指しているというのにまだ半分以上の部屋の掃除ができていないのに。


どうしよう。このままじゃ最初の人が出勤してきてしまう。それなのにこともあろうか立ちくらみで後ろに倒れかけた。

「・・・大丈夫?」


そんなとき、倒れると思った私の肩を抱き留め声を掛けてくれた人がいた。やばい。ここの社員さんかもしれない。


「す、すみません。大丈夫です。ありがとうございます」

体制を建て直し慌てて後ろを振り返ると、そこに立っていたのはとても綺麗な顔をした男性。


女である私が嫉妬するくらいのパッチリとした大きな二重の目。スーッと通った鼻筋。少しウェーブがかかったダークブラウンの髪。今まで私が見たどの男性よりも素敵だった。


「顔色悪いよ。少し、休んだほうがいい」


「いえ、大丈夫です。まだ仕事も残ってますから」


「仕事って掃除でしょ?もうこれだけ綺麗にしてくれたんだから充分。だから少し休んだほうがいい。ここ座って。何か飲み物持ってくるから」


大丈夫だという私をそう言って椅子に座らせてくれた男性は、会社の中にある冷蔵庫の中からミネラルウォーターを手にして戻ってきた。そしてそれを私に手渡してくれた。


「いいです」とそれも断ったけれど、正直のども渇いていたこともあって、ありがたく飲ませてもらうことにした。
「それにしても暑いなあ。この時間はいつもこんな感じ?」

「俺ものど渇いた」と私の隣に座り、水を飲む男性。こんなことを聞いてくるということは、今日はたまたま早く出社したということかな。


「はい。大体空調がつくのは八時以降で皆さんが出勤される頃なので」


「そっか。じゃ、俺管理室の田中さんに頼んでおくよ」


「いえいえ。そんなこと・・・」


「こんな暑い中、掃除してもらってたなんて気づかなくてごめん」


「わ、私、そろそろ仕事に戻ります。急いで掃除しますのでご迷惑をおかけして本当にすみませんでした。お水ごちそうさまでした」


お水の残ったペットボトルを掃除道具のカバンに詰めて掃除を再開。彼は「もっとゆっくり休憩してていいのに」と言ってくれたけれど、そんなことできない。


ドキドキが止まらないから。彼がいた部屋を後にしてすぐ残りの部屋の掃除に取り掛かった。


「ちょっと優美(ゆうみ)さっきからペットボトルじっと見つめてるけど、なんかあった?」


残っていた部屋の掃除と他フロアの窓磨きなどすべて終わらせて休憩室へと戻ってきた。でもさっきの出来事にまだポーッとしたまま。


そんな私にさっきから声を掛けてくるのは、別の企業担当の三崎京香(みさききょうか)。長い髪を一つに束ねた姉御肌の彼女は、私と同じ24歳。ここで働くようになってすぐに仲良くなった友達。
「あっ、ごめん。何もないよ」

「何もないって顔してないわよ。まだ時間あるんだから付き合いなさい」

私は昔からすぐ顔に出るタイプで隠し事はできない。隠そうとすればするほど怪しまれる。バカ正直な性格。まあでも今は少し聞いてほしいこともあったので、着替えを済ませて、隣のカフェで優美と話すことにした。

B.C. square TOKYOの22階のワンフロアは私たちクリーンスタッフ専用の休憩スペースになっていて、セルフサービスのカフェやコンビニなどもある。私と京香はよくそこで一杯300円のコーヒーを飲んで話をしてから帰ることが多かった。今日も三日前と同じ場所に座り、二人仲良くアイスコーヒーを頼んだ。

「で、なにがあったの?」

「・・・あのね、実は今日素敵な人に出会ったの」

私はさっきまでの出来事を京香に話した。素敵な人に出会ったこと、お水をもらったこと。優しい言葉を掛けてもらったこと。そしてその人にドキドキしてしまったこと。

「へえ。このビルにそんな人もいるんだ。大抵、私たちのことなんてみんな見下してるものかと思ってた。何?好きになっちゃったの?その人のこと」

「す、好きなんて。そんなんじゃないよ。本当に素敵な人だなとは思ったけど。でもほらここで働く人たちなんてすごい人ばかりでありえないよ」

クルクルとアイスコーヒーをかき混ぜて口にする。いつもはこの一杯がとても美味しいのに今日はなんだかあまり味がしない。


「ねえ、その人に明日も会えるかもしれないよ。その時にはちゃんと名前くらい聞きなさいよ」

「そんなの無理だよ。それに今日はたまたま早出だっただけで明日いるとは限らないし」

京香にそう言いながらも内心では、もう一度あの人に会えればという気持ちでいっぱいだった。
黒髪で童顔。おまけに髪型はこの間切りすぎて失敗した顎ラインのショートボブ。かわいい女優さんがやっていたからと真似て失敗した。鏡を見るたび嫌になる。


身長だって158センチと160には届かない中途半端。前の仕事は職場での人間関係のトラブルで三か月前に辞めた。


でも不況と資格すらまともに持っていなかった私は、なかなか正社員になることもできず、時給の高いB.C. square TOKYOのクリーンスタッフと居酒屋店員というパートとバイトの掛け持ちをしながら就職活動をする日々だった。


「わかんないでしょ。第一名前聞けって言ってるだけで告白しろって言ってるわけじゃないんだからそんなに無理、無理ばかり言わなくてもいいじゃない」


「こ、告白?!そんなの無理!絶対に無理だよ!」


「あはは。確かに告白は無理よね。でも、明日から少し楽しみができたじゃない。いつも何も楽しみがないってぼやいてたんだし」


「でも、会えるかなんてわからないし、会ってもどうしていいのかわからないよ」


「だから名前を聞きなさいって言ってるのよ」


結局、私たちは仕事を終えてから二時間ほど話し倒して帰ることにした。帰りのエレベーターに乗る前、なんとなく前髪を整えてみたり、もしかして乗ってきたらどうしよう。


なんて期待もしたけれど、結局彼に会うことはなかった。