ふたりで図書館に行ったあの日の白い『避暑地のお嬢さんワンピース』は、いかにも高校生の女の子がデートに着そうな雰囲気が俺には新鮮だった。
「彼氏いるの?」
と訊くと、真っ赤な顔で
「いないですよっ!」
と言う南条は今まで何度となく彼女を見てきた中で最もキュートだった。
ワンピースは例の白檀とベルガモットの香りで、その香りは俺の中で「南条の香り」としてインプットされた。
あの香りが鼻孔をくすぐると、風に翻る白いスカートとキュートな南条の笑顔が今も蘇る。
* * *
「先生…?」
マフラーに顔を埋め、その香りにふと物思いに耽ってしまった俺は、背中に呼び掛けられてはっとする。
「あ…ごめん。ぼーっとしてた。」
不思議そうに見つめる南条に慌てて微笑む。
「帰ろうか。」
部屋の電気を消して廊下に出る。
ふたりで夕暮れの廊下を歩く時、年甲斐もなく心が躍る。
「先生、具合でも悪かった?大丈夫?」
南条が顔を覗き込む。
その綺麗な瞳にドキリとする。
(あんまり大丈夫じゃ、ないけどな。)
大丈夫じゃないと言ったら君は困るだろうか?
本当の気持ちを言ってしまったら君は困るだろうか?
だって今の俺はあの夏の日以上に君のことが─
「大丈夫。何でもないよ。」
君に嘘を吐く。
君は気付いているだろうか?
どんなにか俺が君を想っているかということを。
生徒としてとか、妹としてとか、そんな枠じゃ飽きたらないくらい俺が欲張りになってしまっていることを。
そして君は言う。
『先生やっぱり私、妹でいたいな。』
『兄と妹』なんて、いつか君が大人になったらそれぞれの道を生きていかねばならない関係じゃなくて。
出来ることならそれ以上…
『だって妹じゃなくて、先生と私が『先生』と『生徒』なだけだったら…
私が卒業しちゃったら先生と私を繋ぐもの何にもなくなっちゃうもん。』
知ってか知らずか、でも君には『それ以上』なんて選択肢は端から存在してないんだ。
「先生。」
不意に君は艶やかな髪をふわりと揺らして振り返る。
「塾、英語は申し込まないから、また難しいとこ先生に聞きに行くね?」
「…あぁ。いつでも。」
本当の気持ちを言ってしまったら君は困るだろうか?
俺が教師である以上、君が生徒である限り、決して口に出すことの出来ない想い。
真面目な君のことだ。
口に出してしまったら、もうきっと俺に逢いには来ないだろう。
何も知らず君は無邪気に微笑む。
そして俺は何事もないように君に微笑み返した。
* * *
土曜日、私は塾に数学クラスの申し込みに行き、直ぐ翌週から早速授業が始まることになった。
これから週に一度、塾のある日は先生に逢いに行けなくなる。
それが何よりの不満。
でも今は我慢しかない。今はただ受験を成功させることを優先する。
自分のためにも、そして応援してくれる先生のためにも─
放課後、私は学校を出る前、普段より早い時間に英語準備室を覗く。
けれど案の定他の先生がいて、先生とは話せなかった。
私は「岩瀬先生を探してた。」と適当に誤魔化す。
「先生、バイバイ。」
と手を振ると、先生も
「またな。」
と返してくれたのが今日唯一の会話。
仕方なく学校を後にし、塾へと向かう。
冬のはじめの早々に暮れる空。
電車で二駅のいつも乗り換える駅で降り、少し歩く。
授業の始まる15分ばかり前に着くと、教室には既にぱらぱらと生徒が着席していた。
私は真ん中より少し後ろの空いた席を選んで座る。
それからテキストを何となく開いたまま、ぼんやりと教室のドアを出入りする人々を見るともなく眺めていた。
クラスの多くは近隣の県立高校の子達で、私と同じ学校の人はいないようだった。
そのほとんどは受験生らしい落ち着いた雰囲気の子ばかりで、一人か、せいぜい2、3人の少人数で教室に来て、席で静かにテキストを読んだりしていた。
席が半分ばかり埋まり開始まであと数分ほどという時、
「きゃははははー!」
と女の子の華やかな笑い声と共に教室のドアが開いた。
紺色のブレザー姿の男の子と女の子数人ずつ。
明るい髪色とピアス、女の子達のミニスカートが眼を引く中、取り分け目立つのが先頭に立つ背の高い男の子のアッサムティーのような紅い髪。
「あたしもユウトと一緒のクラスが良かったぁ~」
紅茶色の髪の男の子の腕に絡み付いた女の子が言うと、
「じゃもっと勉強しろよ。」
と彼はからかうような口調で返す。
「えー無理ぃ。」
「ユウト、帰りまた迎えに来るねー。」
「また後でな、ユウト。」
華やかな一団は口々に言うと更に先の教室に向かうらしくお喋りしながら廊下を進んで行き、ユウトと呼ばれた紅茶色の髪の男の子だけが残されて教室に入ってきた。
そして彼は教室の後方に向かい、後ろの方でどさりとバッグを置く音がした。
(なんか派手な子もいるんだ。)
何となくそんなことを思った時、再びドアが開き、眼鏡を掛けた痩せた男性が入ってきた。先生のようだ。
先生が教壇に立つと少しばかりの雑談をして、直ぐに授業が始まった。
「与えられた等式の左辺を虚数単位iについて整理すると─」
コツコツと黒板に向かいチョークを走らせていた先生がこちらを振り返る。
「ここはどうなるか?今日は誰か聞いてみようか?」
そう言った先生と不意に眼が合う。
「そのセーラー服、菊花女学院?」
訊ねられ、私はこくりと頷く。
「ここの塾に菊花の子が来てるの珍しいね。
じゃあこれ、君に聞こうか。えーと、君、名前は?」
「南条、です。」
「じゃ南条、ここに当てはまる式は?」
「はい。え、と…x+4y=-2と…2x+3y=1」
「正解。ここで重要なのは係数が実数であって初めて相当条件が成立することで─」
急にあたると思わなかったからびっくりした…
けれど特に何ということもなく、初めての授業は終わった。
終わると直ぐに先生は教室を出ていき、生徒たちも銘々動き出す。
私もテキストとノートを重ねてスクバにしまう。
と、不意に眼の前が陰った。
(?)
私の机の脇に人影が立つ。
見上げるとそれは先程の紅茶色の髪の男の子だった。
「…?」
言葉も出ずぱちくりと瞬きして、男の子の顔を見上げたまま沈黙する。
(何…?)
「お前さ、」
それを先に破ったのは彼だった。
「東小出身じゃね?」
「え…」
「東小の南条舞奈。」
「!!」
なんで私のこと知ってるの?
名前に、出身小学校まで…
疑問を口にしようとしたが、それを遮るように先に彼が訊ねた。
「俺、誰か分かる?」
紅茶色の髪の背の高い男の子─
着崩した紺色のブレザーとゆるっと締めた臙脂のストライプのネクタイはおそらく県立西高校のもの。
切れ長の眼、薄い唇、鼻筋の通った大人っぽくシャープな印象の顔立ち。
「…ごめんなさい。」
多分会ったことない…と思うのだけど。
「分かんないの?」
「……」
分かんないも何も初めて会った、はず…
応えに窮して口籠っていると
「はぁ…」
彼は不機嫌に溜め息を吐いた。
「清瀬優翔。小学校、ずっと一緒のクラスだったんだけど?」
「…ごめんなさい。」
今度は名前を聞いても思い出せない失礼を詫びた。
「ユウトぉ!」
その時、先程の華やかな一団が教室に入ってきた。
「帰ろうよー。」
「なぁ、マック寄ってくだろ?」
彼等が清瀬くんを取り囲む。
「あー悪ぃ、先行ってて。」
「えっ?なんで?」
「俺コイツと話あるし。」
清瀬くんが親指で私を指した。
「!?」
彼等が一斉に私を見る。
「誰?」
「6年ぶりの幼馴染み。
で俺、コイツの初めての男。」
「はぁっ!?」
驚く私に相反して、一団はどっと笑った。
「うゎ。ユウト、サイテー!」
「ガキの頃からマジヤバいんだけどぉ。」
「女遊びも大概にしとけよー。」
彼等はころころと笑いながら
「じゃーねーユウト。」
「頑張れよ!」
等と言いながら教室を出て行く。
一方私は清瀬くんに詰め寄った。
「ちょっと、どういうことよ!適当なこと言わないで!!」
「あー間違えた。」
「はっ!?」
「俺お前の初めての『男友達』の間違えだった。」
「なっ…!?」
さらりと適当なことを言う清瀬くんに苛つかせられる。
が、当の清瀬くんは涼しい顔をしている。
「なぁ。次の授業始まるけど?ここ出た方がいいんじゃないの?」
そう言って清瀬くんは私の腕を掴んで椅子から引き立てた。
「いっ!言われなくても帰ります!」
清瀬くんの手を振り払うと、コートを羽織りながらドアに向かう。
その後ろを清瀬くんが付いてくる。
「まだ何か?」
「いや、俺も帰るから。」
「……」
私はぐっと歯噛みして清瀬くんを睨むと、廊下を小走りで抜けた。
「ねぇ!どこまで付いてくるの!」
塾を出て、駅までの道を足早に歩く。
隣には清瀬くん。
「だから帰んだって。
同小だって言ったろ?俺んち、お前んちと同じ方だから。」
「友達とマック行くんじゃないの!?」
「別に。いつもの馬鹿話だから。行かなくても変わんねーし。
ていうか、そんな怒んなよ。幼馴染みとの久々の再会を喜べねーの?」
「あなたと幼馴染みなんかじゃありません!」
「つれねーな。マジで覚えてねぇの?」
「覚えてません!」
「小1とかそんくらいん時お前男苦手だったろ?んで最初に友達になってやったの俺なんだけど?」
確かに小さい頃私は男の子が苦手だったけど、最初の男の子の友達が清瀬くんかどうかは覚えていない。
無意識のうちにどんどん足が早まって行く。
「舞奈、待てよ。」
清瀬くんが私の肩を掴み、反射的に足が止まる。
私は清瀬くんの眼を見てきっぱり言った。
「覚えてません。ごめんなさい。」
でも清瀬くんも退くことなく、負けじと私の顔を覗き込み畳み掛ける。
「お前、俺のこと振ったんだけど、それも?」
「えっ!?」
「6年の時。お前俺のこと、そりゃあ手酷く振ったんだけど、覚えてねーの?」
清瀬くんを振った?
そんなことがあれば流石に覚えているはず…
「そんなこと…なかったけど。」
「あった。」
「人違いじゃない?」
「んなわけねぇだろ。
初恋の人を間違える馬鹿がどこの世界にいんの?」
「……」
初恋の人…
清瀬くんの言葉についどきりとする。