かくん…
どのくらい時間が経ったろう。
私はカップを持ったままうたた寝しかけて、頭が落ちる感覚にはっとした。
「眠いんだろう?少し寝るか?」
そう言って先生が私の手からカップを取る。
「イヤ。帰らない。」
「ここで寝て良いから。」
先生がベッドをぽんぽんと叩く。
「先生と一緒に寝る。」
「は?」
先生はまさに開いた口が塞がらないといった顔で額に手を当てる。
「お前…
煽ってんの?」
「うん。」
私は少し寝惚けていてなんだかよく分からないままなんとなく頷いた。
先生は溜め息を吐いて立ち上がり、ベッドに掛けられた布団を捲る。
それから私を抱き上げて、ベッドの上に寝かせた。
「先生、傍に居て。」
「分かってる。」
先生は私に布団を掛けると両手で私の手を握り、ベッドの縁に座ってすらりとした脚を組んだ。
「ここに居るから。」
「こっち来て?もっと傍が良い。」
「…我が儘言うな。」
「じゃあ、ずっと傍に居てね?」
「分かってる。」
「私の傍に居てね?」
「あぁ。」
「ひとりに、しないでね…」
そのまま私の意識は遠ざかる。
「おやすみ…舞奈。」
耳元で甘く優しい声がして、頬に何か温かで柔らかな感触を感じたのと同時に私は眠りに落ちた。
* * *
「菊花女学院の初原です。ご連絡が遅くなってすみません。
舞奈さんですがかなり疲れた様子で、今私の自宅で眠っていまして。
…はい、そうですね。迎えに来て欲しいのですが、ただ相当疲れているようですので朝まで眠らせてあげたいと思いまして。
もしできましたら明朝お越しいただければと思います。
私は外出しておりますので、住所を申し上げますので鍵は開けておきますからお入り頂いて構いませんので。
…えぇ。お嬢さんが寝ているところに私が居るのもよろしくないですから。
…いえ。泊まる先に心当たりがありますので私のことはご心配に及びません。
…はい。宜しくお願い致します。
それとなんですが…
進路の件で舞奈さんから相談を受けまして、
もしよろしければ明日の午後にでも伺ってお父様お母様とお話しさせて頂こうと思うのですが。
…分かりました。大丈夫です。
…はい。では明日の4時に。宜しくお願い致します。
ではこちらの住所を申し上げます。文京台町…」
* * *
早朝。
私は先生のいない先生の部屋で、どういうわけか母の声で目を覚ました。
母は
「まったく…先生にご迷惑をお掛けして…」
とかは言っていたけれど、それ以上は特別言わなかった。
正直私は家に帰りたくはなかった。
けれど、それは先生の本意ではないのが分かってる。
私は素直に母の後に付いて先生の家を出た。
路地を抜けた道路に停めてあった車には父が待っていて、私は黙ってそれに乗り込む。
その車中で、先生が進路の件で夕方家に来てくれる、と母に聞かされた。
(先生がっ!?うちにっ!?)
昨夜から散々迷惑をかけて、更に休み返上で来てくれる先生には申し訳ないと思いつつも、
(今日も先生に逢える!)
なんて思わず浮かれてにやけてしまいそう。
そんな様子を両親に気付かれないように窓の外を食い入るように眺める。
帰ったらお風呂に入って着替えて…
何着よう?
なんか可愛い服、うぅん、先生の好みに合いそうな服…
あ!寝不足で酷い顔してないかな?
こんな私って…
やっぱ不謹慎かな?
家に着くと私は夏休みの図書館に続いて再びクローゼットの前で悩みに悩み、
結局黒地にボタニカルな小花柄が大人可愛いワンピースとペールピンクのカーディガンを選んだ。
お風呂に入ったり、食事を摂ったりするけど、それでも先生が来る4時までが果てしなく長く感じる。
ようやく時計の針が4時を指し、長針が動かぬうちにインターホンが鳴る。
私は弾かれたように玄関に駆け付けた。
「先生!」
「おぅ。休みに悪いな。」
ダークグレイのスーツに黒地のドットのネクタイでぱりっとした姿の先生が爽やかに微笑む。
「うぅん!私こそごめんなさい…」
「それは俺に言うことじゃない。」
先生の視線が私の後ろに行く。
振り返ると母が出てきていた。
簡単に挨拶をして、母が先生をリビングに案内する。
リビングには父がいて、やはり先生に挨拶をし、それからスリーシーターソファを勧めると昨晩の私の非礼を詫びた。
私は父と一緒に頭を下げ、リビングセットの脇に置いたスツールに腰掛ける。
「舞奈さんはご自身の将来について良く考えておられます。
ただやはりまだ子供ですので、考えの甘いところもありますし、
あるいはまた思いをお父様お母様に伝えきれない部分もあると思います。
今日は、差し出がましいかとも思ったのですが、そこのところを私が繋がせて頂ければと思って参りました。」
先生が言う。
「子供ですので」と先生に言われたことに不満を感じなかったわけじゃないけど、
実際こうして迷惑をかけてしまったから仕方ない。
複雑な気持ちで少し俯く。
「ありがとうございます。家庭の問題ですのに先生を巻き込んでしまって申し訳ありません。」
「いえ。
では早速ですが、南条。
君はどうしたいのか話してくれるかな?」
先生が促す。
「私は…
私は東京の外国語大学に行きたいです。
言語の変遷とか成り立ちとか、
あ!あと語学を勉強して国際社会の役に立つことについて考えようと思ってます。」
咄嗟に「国際社会」なんてもっともらしいことを付け加えてみたけど、
先生は見抜いていて、父に分からないくらいちょっとだけニヤッと笑った。
「如何ですか?お父さん?」
母がお盆に紅茶のカップを乗せてリビングに入ってくる。
カップを置くと、父の隣に座る。
「我が家は代々国大教育学部から教員になっております。
今舞奈の上の息子がまさに国大に通って教員を目指しているところです。」
「舞奈さんは教職に就くことは考えておられないようですが?」
「これはまだ子供ですので、分かっていないのでしょう。
教師という仕事は女性にこそ天職と思っております。
産休育休を取ってもまた復帰出来ますし、近年公立校は特に女性職員へのバックアップに力を入れております。
家内を見て頂ければお分かり頂けるでしょう。」
「どうだい南条?
お父さんはこう仰ってるけど?」
先生は父の言葉に一つ頷いてから、私に眼を向けて訊ねる。
「私は…
やりたくない仕事の為にわざわざ復帰したいとかも思わないし…
そもそもやりたくない仕事の為に頑張って勉強しようとかも思わないし。
私は…私の為に頑張りたい!
遠回りでも、大変でも、自分が決めたことを頑張りたいの!!」
「やりたくないかどうかはやってみなけりゃ分からんだろう!?」
父が声を荒らげる。
「嫌なことわざわざやってみて『やっぱり嫌だった。』って確認する暇があったらやりたいことやりたいの!
私の人生だもん!あと70年?私は全部目一杯自分の為に生きたい!!」
今までがそうじゃなかったから。
そう言いかけて止めておいた。
「お父さんお母さん、実は私は東京の外国語大学の出身です。
どうでしょう?外語大からでも教職免許は取れますが?」
「先生もご存じとは思いますが、国大教育学部はこの界隈では名門中の名門。
教職に就いた後も国大出身者は学閥がありますので、メリットも多い訳です。
例えば待遇面であったり、昇進であったり。」
「お給料も出世も要らない!
私は誰にも縛られない!自分の為に生きるの!!」
「舞奈、お父さんやお母さんがこうして生きてきたからこそ今のお前があるんだぞ!勝手なことは言わせない!!」
私は父を睨み付ける。
父もまた威圧的な視線を私に投げ、隣にいる母も無言で私を咎めているように思えた。
「南条。」
張り詰めた空気の中、先生が穏やかに話し出す。
「お父さんお母さんは将来、つまり後に続く君やお兄さんのことも考えて国大に行って教師になる、そういう生き方を選択したんだ。
決してそれを否定してはいけない。」
「……」
「でも、その生き方を選択したのもまたお父さんお母さんご自身、ですね?」
「いかにもそうです。」
「はい。」
父と母が口々に応える。
「では舞奈さんにも選択権が有っても良いんじゃないですか?」
「!!」