始まりは書店だった。
小さな島国の小さな書店で、文庫本が多く置いてあり入口から入るとむわっと古びた本の匂いがする。
わたしは何も持たずに書店に来ていた。サンダルに真っ黒なワンピース、財布だけを持って走っていく姿はきっと滑稽に映ったことだろう。
なんでも良かったのだ。それが書店だろうとCDショップだろうとカフェだろうとなんでも良かった、ざらざらとした心の縁を柔らかく暖めて溶かしてくれるものがあればなんでも良かった。

 書店に着いた時、わたしはもう殆ど泣き出しそうになっていた。きっかけは些細な恋人との喧嘩だったけど、もうそれだけじゃなく小さな針が心に刺さっていてわたしは理由が分からずただ泣き出しそうになっていた。

書店に入りむわっとした匂いを受けて、はた、とわたしが涙を流したのは昔母が読み聞かせてくれた絵本があったからだ。
「紺は良い子、良い子よ。」誰かと喧嘩した、忘れ物をして怒られた、そんな夜は母が膝にわたしを抱いてくれて頭を撫でて言ってくれたものだ。母から香るミルク石鹸の匂い、柔らかく暖かい手の記憶がわたしを逡巡する。

涙は止まることを知らずどんどんと流れ、嗚咽まで入り混じり始めた。いつもそうなのだ、こうして気分が鬱に傾くと何を仕出かすか自分でも判断できない。そして泣き出すと止まらないのだ。
 医者がわたしに うつ病 と診断したのは半年前だった。恋人から受けていた暴力が原因だったが、本当の原因はもっともっと遠く昔からのことのように思えた。本当のわたしなんて、きっと誰も理解できない。わたしすら持て余してしまうから。

はたはたと涙を流すわたしに書店員は怪訝な顔をしながら若干の軽蔑と困惑を滲ませたまま、はたきを本にかけるフリをしている。全神経がわたしに向かってるのもそれがもっと嫌で涙を余計に流させるのもわたしは全てわかっていた。
絵本は涙でしとしと濡れてしまい、滲んでしまっている。弁償物だ。一刻も早く涙を拭いて弁償して帰ろうと思うが、反対に身体はびくりとも動かない。

 その時だった、一瞬のことだった。
絵本がわたしの腕からするりと、まるで最初から決まっていたように自然に取られたのだ。
唖然とするわたしに会計を終わらせたその人はわたしが今後ずっと忘れない声でずっと忘れない言葉を言った。

「綺麗に泣くんだね。涙は血と同じだから君の血も同じくらいに綺麗なんだろうね。」
その人は口元をニヤリと歪ませて、なにも答えられないわたしを通り過ぎ書店を出て行ってしまった。

 血が綺麗だなんて初めて言われた、と思った時やっと絵本の存在と全くの知らない人に弁償させてしまったことを思い出し冷水でも浴びたかのように、わたしは咄嗟に書店を後にして走り出した。
でも、どこへ?わたしはどこに向かって走ればいいのだろう?あの人はどこの誰でどこに向かうのだろう?
だが身体はまるであの人が居る方向を知っているかのように自動に自然に動いていく。
少し走った先にあの人の背中が見えた。黒い大っきなコートの背中。春先めいてきたこの季節には似合わない大っきなコート。

「あの…っ、」
声になるかならないかの蚊の鳴くような声にきちんとその人は振り向いてくれた。
『ん?ああ、さっきの。』
振り向いたあの人は、爽やかさの中に暗さを閉じ込めたような端正な顔立ちだった。大っきな黒いコートの中にはスウェットだろうか、灰色の上下の服を着ており、素足にサンダルを履いている。大きな足が印象的だった。
「…そ、その絵本わたしが汚したので…」
言葉が喉まで出かかっているのに、さらりと唇からは流れてくれず詰まりながらやっと小さく言葉を吐き出した。
『ああ、これ?そうだね…』
「…っ」
その人はそれだけ言って黙ってしまった。言葉の続き、お金返してもらおうかとか君に渡すよとかを待っていたわたしは言葉を詰まらせてしまう。
その人は何かを思案する表情を浮かべそり残したのか、僅かに残る顎髭を優しく撫で、
『…きみ、名前なんていうの?俺はね、新山豊。』
「…………山下 紺…です」
咄嗟の自己紹介に頭が回らず、あの人の名前だけが頭を逡巡し小さくわたしは名前を名乗った。
声が小さいと子供の頃からずっと言われ続けていたのに、わたしは22歳になる今も声が小さいままなのだ。今日の恋人との喧嘩だってわたしの声が小さく聞き取れなかったことから始まってしまった。恋人はどうしただろうか、鍵を閉めて仕事に行っただろうか。作っておいたスクランブルエッグと焼いたパンは食べただろうかと、そこまで物思いに耽っていたわたしは気付かなかった。
急に頭を撫でられる感触に驚き、身体はびくりと跳ねて、身構えた。撫でていたのは先程名乗ってきた新山豊だった。

『また泣くかと思った。本屋で君が入って来た時から眉間には皺が寄ってるし鼻は赤いし泣くのかなと思って観察してたんだ。そうしたら案の定泣いたし、今も同じ顔をしてる。』
泣くのはわたしの得意分野のようで、毎回泣かれても困ると喧嘩の度に恋人に言われる始末だ。今もこんな見ず知らずの人の前で泣きたくないのに涙がこぼれ