「まったく……君のそういうところは早く治したほうがいいぞっと」

 炊飯ジャーから白米を丼によそぎながら、神保は苦笑いを見せた。

「はい完成! 聡介特製の親子丼と味噌汁だ」

会心の出来なのか上機嫌な神保が丼によそいだ親子丼と味噌汁をてきぱきとテーブルに並べていく。
狐色まで火が通った玉葱とぷりぷりの鶏肉、良い具合に半熟にとろけている卵、そして横に並べられた野菜がたっぷり入れられた味噌汁の見た目と食欲をそそる匂いに翡翠は思わず涎が溢れそうになった。

「お前、本当に料理できたんだな」
「疑ってたのか!? まったく君という奴は……」

 コップと冷蔵庫に入れられたペットボトルのお茶も取り出し夕食の準備が整ったので2人は席に着き両手を合わせ目の前の料理に少しだけ頭を下げた。

「「いただきます」」

 合掌を解き、2人は同時に親子丼の肉を箸で掴み口の中に放り込む。
奥歯で何度か噛むと鶏肉の肉汁が口の中で溢れた。

「うんまぁあああい。さすが僕!」
「うん。確かに美味い」

 オーバーなリアクションをする神保とは対照的に翡翠は平坦な声で感想を言いながらも静かに舌の上で広がる美味を楽しんだ。

「こんなに美味い物がこの世界にはあるんだから、何も人間の肉を喰べなくてもいいのなぁ」

 翡翠が不満そうな目で神保をじろりと睨む。

「あ、食事中にすまなかった」
「まぁ別にいいけどな。ちなみにグールは欲に忠実な存在だから人肉が一番美味いと思ってるうちは他の食材になんて目が行かないと思うぜ」
「欲に忠実に生きるか。そんなこと……誰かの命を奪って良い理由には決してならないだろ」
「あんまり……ズズズッ……熱くなるなよ。足元すくわれるぞ」

 握りこぶしを膝の上で作り、闘志を燃やす神保を味噌汁を啜りながら翡翠が諌める。

「解っているさ」

 小さく頷いた神保は丼を左手で持ち上げ、親子丼を口の中へと掻っ込んでいった。

「まぁ……この様子なら大丈夫か」

 グールと戦うと決まった時、翡翠には一つだけ不安なことがあったのだが張り切る神保の姿を杞憂だったと小さくため息をつく。

「んっ? 何か言ったか翡翠」
「いや、なんでもない」

 こんな事を話しながら食事が出来る自分達2人はもしかしたら感覚が麻痺しているのでは無いかと翡翠は苦笑した。

「「ごちそうさまでした」」

 食事を終え、食器を片付けた2人は出掛ける準備を始める。

「そういえば、今から出発するのはいいがグールを探す手段はあるのか?」

 屋敷の玄関でホルスターを身に付け、銀銃を左腋の下に収めた神保が上着を羽織ながら唐突に翡翠に尋ねた。

「さっき見た本にグールを誘き出す魔法陣が書いてあったから暗記しといた。あとはそいつに引っ掛かってくれるかどうかだな」

 筆や絵の具、パレットなどが入った画材ケースを無理やりショルダーバッグに押し込みながら翡翠は答えた。

「自分の祖母のことをすごいすごいとよく言ってるが君も十分すごいと思うぞ」

 魔法陣などという現実からかけ離れた単語をさらりと言ってのける翡翠を前に神保はつい苦笑いをする。

「だがな翡翠! いろいろと準備しているのは君だけじゃあないぞ」
「何だよ急に……」
「じゃじゃーん! 小型発信機ぃ~」

 某猫型ロボットの声真似をしながら神保が上着のポケットから出したのは豆粒サイズの携帯発信機だった。

「何コレ?」
「刑事課の装備ロッカーから拝借してきた発信機だ」
「お前それ割りと問題行動なんじゃないか!?」

 相方のアグレッシブすぎる行動に翡翠は本気で驚いた声を出す。

「大丈夫大丈夫。ピストルを持ち出した訳ではないし、こんな小型の発信機なんて無くなっても誰も気付かないよ」
「本当に大丈夫かよ日本の警察」

 大丈夫と言いながらとてつもない問題発言をしている神保に翡翠は深く嘆息した。

「んで、それをどうすんだよ?」
「これを人喰いチエちゃんに取り付けることができれば万が一逃げられてもすぐに場所を特定できる!」
「取り付けられれば、ねぇ……」

 どこか馬鹿にしたような視線を神保の手の平に乗っている発信機に向ける翡翠。

「ウチの科捜研の特別製でな。スマートフォンのナビアプリと連携して対象を追跡出来る優れものだぞぉ」
「いらないな」
「えええぇえッ!?」

 散々得意げに説明した挙句一刀両断された神保が悲痛な声を上げる。そんな様子を見て翡翠は呆れたように首を左右に振った。

「何故だ!? 便利だぞ!?」
「そもそも逃がす予定がねーんだよ。早く終わらせたいってさっき言ったろ」
「くそぅ。せっかく持ってきたのに」
「さっさと出発するぞ」

 軽くあしらわれた神保は涙目になりながら発信機をスーツのポケットに戻し、腰を下ろして靴を履き始めた。  
 蔵島家の屋敷から歩き続けて十数分、辺りはすっかり暗くなっていた。
神保聡介と蔵島翡翠の2人は前回人喰いチエちゃんが現れた時葉町内にある商店街に到着する。
先日ここで殺人事件があったというのに広い商店街内はいつもと変わらず会社帰りのサラリーマンやショッピング帰りの女性で賑わっていた。

「……しまった!」

商店街の入り口である〝ようこそ時葉商店街へ〟とでかでかと書かれた大きな門を通過したところで神保が唐突に頭を抱えた。

「どうした?」

 あまり興味がなさそうに尋ねる翡翠。

「何となく前の現場近くに来たけど、よくよく考えたらグールがまたここにくるとは限らなかった」
「お前よくそんなんで刑事になれたな」

 愕然とする神保をよそに翡翠は人気の無い商店街の建物の隙間を通って裏路地の方へさっさと歩き出す。

「あ、ちょっと待てよ翡翠」

 慌てて追いかける神保。
狭い建物の隙間を抜けると2人は表通りの明かりが薄く差し込むだけの人の気配が無い裏路地に出る。
辺りは建物の壁に囲まれ、ファンが回り続ける換気扇と青いゴミ箱しかなく何匹かの猫がゴミを漁っていた。
周りの風景を見た神保は何となくここが今回の事件の被害者がいた場所と似ている事に気付く。

「……ふーむ。まぁここでいいか」

視線をあちこち動かした翡翠は何かに納得したように首を縦に振り、ショルダーバッグから画材セットを取り出した。
左手に筆、右手に絵の具用の木星のパレットを持った翡翠は黄色の絵の具を筆先に付けて振り向くと裏路地の中心に梵字のような文字の羅列を円状に書き始める。

「何してるんだそれ?」

不思議そうに見つめる神保が尋ねた。

「誘き出すって言ったろ? そのための餌を撒いているのさ」

 翡翠は地面に文字を書き終えるとそれを囲むように黄色の絵の具を筆先につけて綺麗な円で囲い、魔法陣のようなものを完成させた。

「それは?」
「悪魔に使う誘惑と幻覚のまじない陣だ。微量の誘う匂いを発生させて悪魔を陣のある所へと誘引する」
「あ、なるほど」

 ようやく翡翠が言っていた誘き出すの意味を理解出来た神保はそれと同時にあることに気付く。

「誘引……ってちょっと待ってくれ! それって他の悪魔まで集まってくるんじゃないのか!?」

 周りを悪魔だらけにされると考えた神保は焦りながら懐の銀銃に手をかける。相方の慌てふためく様子に翡翠は思わず噴出してしまう。

「大丈夫だ。匂いが辺り広がるには少し時間が掛かるしグール以外は誘引されないから」
 
 口の端をつり上げながら翡翠が説明すると、神保は赤面しながら懐から自分の手を抜き出した。

「この陣に書いた字は悪魔の鼻と目に人間の死体、つまりグールにとっての餌をまるでここにあるかのような錯覚を起こさせる。この陣はグール専用なんだよ」
「さ、最初からそう言ってくれ……」

緊張から一気に脱力した神保が両腕をさげて嘆息する。

「匂いが広がるまで少し時間が掛かるから今のうちに残りの陣も書いておく」
「残りの陣って?」
「メリーさんの時にも使った悪魔をしばらく動けなくする結界の陣。まぁ保険みたいな物だな」

 質問に対し、先程書いた陣から少し離れた位置に青い絵の具で新たな陣を書き始めた翡翠が低い姿勢のまま答えた。

「なるほど。つまり今回の作戦は黄色の陣で誘き出した敵を青色の陣で足止めしている隙に僕が止めを刺すって感じか」

 神保がこれからの動きを頭の中で纏めた直後2つ目の陣も完成する。

「そう言うこと。まぁ作戦なんて呼べたもんじゃないがこっちには最強の武器があるから心配ねーよ」

 新兵を落ち着かせる熟練兵士のように落ち着いた口調で良いながら翡翠はパレットから親指を抜き、右手の掌に落書きを始めた。

「最強の武器……」

 対照的に自らの役割の重要性に体を固くした神保は自分の懐に手を当て、収まっている銀銃の感触を何度も確かめる。

「っし、保険も完成。さぁそろそろ隠れるぞ」

右手を握り締め、薄く口の端をつり上げた翡翠は裏路地の隅に位置する青色のゴミバケツが密集している場所の陰に屈んで隠れて神保を手招きした。
それにつられる様に神保も翡翠の隣にに身を隠す。
外出するときでさえTシャツにジャージズボンとスリッパというみすぼらしいファッションが状況にマッチしている翡翠と違い、しっかりとスーツを着こなした神保がゴミバケツの陰に隠れる姿は違和感があるのか2人は互いに互いを鼻で笑った。

「本当にこれでグールは現れるのか?」
「さぁな。匂いが広がる範囲にも限界があるからその辺にグールが居る事を祈れ」
「なぁ、これで何も来なかったら僕達すごくマヌケに見えないか?」  
「……それを言うな」

 赤面して視線を逸らす翡翠はそれ以上何も喋らなかった。
お互い無言のまま猫達がゴミを漁るだけの時間が数十分過ぎ、夕食を食べた2人に心地の良い眠気が襲ってきた頃。

「匂いはもう十分広がったはずだがまだ現れない。という事はもう今日は駄目だな。帰って寝るか」

 とうとう翡翠が根を上げた。

「いやいやいや、まだ1時間も経ってないぞ! 君が今日中に終わらせようと言ったんだぞ」
「来ないものを待ってても時間の無駄だろう。刑事のお前と違って俺は張り込みとか慣れてないんだよ」

 眠そうな目を擦りながら立ち上がった翡翠は悪態をつく。
神保は根気の無い相方の肩を揺さぶりながら説得を続ける事にした。

「大丈夫。待っていればもうすぐ現れるさ」
「気休めはやめろよ神保。俺は諦める時はキッパリと諦める男だ」
「見破られてたか……でもたった今気休めなんかじゃなくなったぞ」

 肩を掴んだ神保の手が次第に強く握られていく。

「神保?」
「銀銃が微かに震えてる」
「何!?」

 懐を押さえながら言った神保の言葉に翡翠は顔色を変える。

「メリーさんの時と同じだよ。近くまで来ているんだ……グールが」

 強張った表情で神保は懐から銀銃を抜き出す。引き金に指が掛かった右手がわずかに震えていた。 
真剣な表情から嘘では無いと察した翡翠は無言で頷くともう一度姿勢を低くしてゴミバケツの陰に自分の気配を隠す。

「どんどん銀銃の震動が強くなっていく。かなり近いな」
「もう黙っておけ。勘付かれると厄介だ」

 2人が口を閉ざし、なるだけ呼吸も静かに行おうとした時だった。
神保達が入ってきた通路の隙間から長い人影が現れ、だんだんと近づいてきたのだ。
 地面にヒールを踏みつける小気味いい音が聞こえるまでグールが接近したところで神保と翡翠はそっと向かい側を覗き込む。