翡翠の祖母、蔵島翠は普通の人間にはない異能力を持っていた。
翠はその力を用いて時に死者との交流を図って成仏させたり、悪事を働く悪魔や異能力者に鉄槌を加えてこの町の平和を守っていた。
優しく、前向きでいつも誰かの笑顔を守るために動き続けていたのを孫である翡翠は覚えている。
蔵島の家に生まれながら全く霊感や異能の力を持たず、両親に失望されていた翡翠にも翠は暖かく接した。
毎日のように翠の元に困った人達がやってきては祖母が解決し、次の日には別の依頼人がやってくる。
働きすぎで顔色が悪くなっても翠は休まず働き続けた。
皆、自分が助かる事ばかりでお祖母ちゃんの事なんて誰も考えていないのでは無いか?
翡翠がまだ子供の頃、日を追うごとに顔がやつれていく祖母にそう質問したことがあった。
小さな翡翠の頭を撫でながら翠はこう返す。
「助けを求めている人を私は無視できないのよ。もしそれをしてしまったら、私は自分が死ぬことよりも大きな後悔をしてしまうから」
翡翠は今でも忘れられない。
この言葉と翠のやつれながらも満足そうな笑顔を。
それから3ヵ月後、最強の異能者である蔵島翠はこの世を去った。
人の為に戦い、人のために己の命を燃やし続けた祖母に何もしてやれなかった翡翠は自分の無力を酷く嘆いた。
そして現在。
たまに祖母と被って見えてしまう神保の命を救う為、翡翠はグールと一人で戦う決意をする。
今度は、目の前で自分の大切な人を失わない為に。
神保の上着を羽織った翡翠は暗い森の中で相手が来るのをじっと待った。
予習は完璧。
罠の仕込みも完了。
後はグールの知恵がここに誘き出されるのをただ待つだけだった。
神保は睡魔の陣が画かれた紙入りの枕で寝ている為最低でもあと2時間は起きない。
仮に早起きしたとしても神保には翡翠のいる場所が解らないのでここに現れる事もありえない。
同じくグールの知恵も魔除けの香で匂いを消した神保の位置を特定できない。
もし万が一、自分の作戦が看破され知恵に殺されたとしても神保には被害が出ない。
「おっと、いかんいかん」
つい弱気な考えをしてしまった自分の頭を左右に振り、翡翠は再び精神を集中させた。
周りの木々に黄色の絵の具で描いた誘引の陣が薄く輝き、今もこの場所に知恵を誘き出している。
前回の戦闘で餌となる幻が知恵に効かない事は承知していたが、誘き出す匂い自体は知恵の鼻にも十分効果があったので今回はただの呼び込みのためだけに木々に描いたのだ。
知恵との初戦同様右の掌には逃走用に保険の陣を描き強く握り締めている。
風が少しも吹いてこない森の中は、まるで嵐の前の静けさのようだった。
ここで知恵を倒すことが出来ればもう神保はグールと戦わなくても済む。
失敗するわけにはいかない。
翡翠は一度大きく深呼吸をする。
「それにしても遅いな……」
登場の遅いグールに翡翠が小さくぼやいた瞬間、静かだった森の中に一陣の風が吹きすさぶ。
木の葉が舞い、翡翠の髪が激しく揺れる。
数秒後、翡翠の5メートルほど手前に白いワンピースを着た黒髪ロングの女性が木の上から落ちてきた。
激しい着地音を響かせ、こちらを振り返ったのは間違いなくグールの西園寺知恵であった。
木々の間から降り注ぐ月光に照らせる知恵の姿は敵ながらどこか神秘的で翡翠は思わずこの光景を絵にしてみたいなどと下心を抱いてしまう。
「……御機嫌よう」
注意深く見ていたおかげか小さな声で会釈をする知恵はどこか余裕が無さそうなのを翡翠は見逃さなかった。
どうやら空腹が限界に達しているようだ。
「……待ったぜ」
「私の聡介さんはどこ!?」
間髪入れずに知恵が翡翠に質問する。
「悪いがここに神保はいない」
「嘘をついても駄目よ。私はちゃんと聡介さんの匂いを辿ってここまで来たのだから」
まるでそれが愛の力とでも言わんばかりに知恵は胸を張る。
そんな知恵を滑稽に感じながら翡翠は羽織っていたスーツの上着を脱いで見せ付けた。
「残念だが匂いの元はこれだ」
右腕の生地が齧りとられ、神保の血が染みたスーツを前に知恵は思わず涎を口から垂れ流す。
「素敵な服ね……前菜としてはぴったりだわ」
物欲しそうにスーツの上着を見る知恵は自分が騙されてここに誘き出されたことなど少しも気にしていない様子だった。
「そう。本当に気持ち悪いがお前にとってこれは前菜だ」
手に持ったスーツをゆっくりと自分の前に投げ捨てる翡翠。
「グールは欲に忠実な生き物だ。お前も遠慮せず――」
翡翠が言い終える前に知恵は走り出していた。
地面に落ちたスーツを拾い上げ、鼻孔を限界まで開き神保の残り香を知恵は堪能する。 更に知恵は腕の部分に付着している血液も舐め始めた。
それによって神保に関する追加の情報も頭の中に流れてくる。
以前は幽霊などを信じない超現実主義者だったということ。
好きな女性のタイプ。
最近の一番の悩みなど一舐めごとに神保聡介に詳しくなっていく知恵だったが、よく解らない情報も紛れ込んでいた。
「名前は蔵島翡翠? 仕事は画家……って何よこれ?」
イレギュラーな情報を口に出す知恵はすぐ目の前の翡翠に視線をやる。
「どうだ。俺の血の味は?」
「まさかあなた……自分で自分の血を混ぜたの?」
翡翠の意外な行動に知恵は戸惑う。
「これで俺にも少しは興味を持ってもらえたかな?」
知恵がスーツの血を舐めた時点で作戦の第一段階は成功していた。
今は握っていて見えないが翡翠の右手の人差し指が切れて血が出ている。わざと翡翠が
果物ナイフで指の先を切り、血を何滴か刷り込んでおいたのだ。
「……例えるなら、ステーキとお寿司を一緒に食べた感じよ。あなたの血の味も取っても素敵だわ」
恍惚の表情で知恵が呟く。
「自分の血を私に舐めさせたってことはどういうことか理解しているかしら?」
興味のなさげだった知恵の翡翠を見る目が今では獲物を求める狩人のようにぎらついている。
「あなたも私に愛されながら食べられたいのね!」
作戦の第一段階はグールのターゲットを神保から自分へと移すことにあり、それは見事に成功した。
自分の血を舐めさせれば知恵は必ずこの場にいない神保よりも翡翠を食べる事を優先すると考えたからだ。
「あぁああ素敵! 始めての経験よ。2人の男性を同時に愛するなんて」
「それは浮気じゃないのか?」
「何を言うの純愛よ。だってあなたも聡介さんも、私と一つになるのだから」
身勝手な愛を語り、色目を使ってくる知恵に翡翠は胃液が逆流しそうな気持ち悪さを感じた。
「ふざけるんじゃねぇよ。誰がお前の汚い腹の中なんざ入るか」
「照れちゃって可愛いのね。そんなあなたもとっても素敵よ」
口から大量の涎を垂らしながら顔を紅潮させていく知恵。
翡翠は保険を仕込んだ右手を前に出して身構えた。
「あーもう我慢できない。私食べたい。翡翠君の首を丸齧りして頚動脈から血をゴクゴク飲みたぁあああい!」
空腹感が我慢の限界を超え、不気味な台詞を吐きながら知恵が突進してくる。
しかし駆け出したその先には翡翠の仕掛けた罠が待っていた。
翡翠はあらかじめ落ち葉の何枚かに青色の絵の具で動きを縛る陣を画いておいたのだ。
あと一歩、知恵が足を前に踏み出せば陣に引っ掛かる。
「匂うわ。これは絵の具の匂いね」
しかし、もう少しで捕縛出来そうというところで知恵は予想外の行動にでた。
前に出すはずだった左足を折り曲げ、地面を蹴って神保の遥か頭上に飛び上がったのだ。
「何っ!?」
「あはははっ、バレバレよ! 今の私の嗅覚は犬並みなのよ」
視界が鈍っている分、嗅覚が敏感になった知恵が翡翠の頭上で愉快そうに笑う。
「どんどん人間離れしていくなこいつ」
「私はグールよ。人間だった時の過去なんて捨てたのぉ!」
知恵は進化した鼻をフル活用し、空中から青の陣が書かれた落ち葉を嗅ぎ分けて自分が降り立つ事のできる安全地帯を探す。
「くそ、まさか嗅覚で陣を回避するとは」
翡翠は保険を握り隠した右手を突き上げ、知恵が頭上ぎりぎりまで落下してくるのを待った。
「あはははッ! また妙な閃光を浴びせる気なの!?」
絵の具の匂いがしない一帯を嗅ぎ分けた知恵が余裕の笑みを浮かべ、翡翠の真上から降下する。
「今だ。陣よ――」
ぎりぎりまで知恵を引き付けた翡翠が握り続けていた右手を開き、掌に描かれた陣を開放した瞬間だった。
「ごめんね。あなたの事は大好きだけど、何度も同じ手には引っ掛からないわ」
空中で知恵も左手をぐんと突き出し翡翠の右手を握ってきたのだ。
「どんなに強い光でも、遮ってしまえば眩しくはないわ」
死体のような冷たい手で翡翠の右手を強く握ったまま青の陣が描かれた葉っぱの無い安全な地面に知恵は着地した。
「ぐッ……あっ……!」
人間離れした知恵の握力に翡翠は小さく悲鳴を上げる。
「捕まえた。恋人みたいに手を繋ぎながらあなたを食べてあげる」
大きく口を開け、今にも翡翠の頚動脈に齧りつこうと知恵が一歩前に足を前に出そうとした時。
「……どうして?」
知恵が小さく疑問の声を漏らす。
その様子を見て翡翠は口の端をつり上げた。
「体が、動かない……!?」
突然体の自由を奪われた知恵は鈍った目で自分の足元を確認して見るが、どこにも青の陣が画かれている葉っぱは無い。
そもそも着地前に絵の具の匂いがしない場所に足をつけたのだ。青の陣など見当たるわけが無かった。
「一体何をしたの……!?」
「青の陣は円内に入った悪魔の動きを封じる陣だ。ただの人間の俺にも使えるお手軽なまじないさ」
「だからそんな物はどこにも無いじゃない!」
「本当にそうか?」
得意げに笑う翡翠。
知恵は暫く考え、あることに気付き自分が握り締める翡翠の右手に視線を向ける。
「まさか……!」
「ようやく気付いたか。そう、俺が右手の中に仕込んでいたのは光の陣じゃない」
急いで翡翠の右手を離そうとした知恵だったが、最早手遅れだった。
どれだけ力を入れても指先一つ動かせないのだ。
「俺が掌に描いていたのは青の陣だ」
グールを自分の至近距離で捕縛する事。
それが翡翠の作戦の第二段階だった。
「……やられたわね」
完全に動きを止められた知恵だったがその表情にはまだまだ余裕が残っていた。
「それで、動けない私をこれからどうするの? キスでもしてくれるのかしら」
軽口を叩く知恵を翡翠は無視し、腰に差していた果物ナイフを抜き取る。
刃物の扱いに慣れていない翡翠は息を荒くしながら刃先を知恵の手首に当てた。
「こうするのさ……!」
意を決してナイフを思い切り引き抜く。
刃は知恵の手首を切り裂き、真っ赤な血液が地面に勢いよく流れ落ちる。
「あーあー、酷いわ。私の手首を切るなんて」
自分の動脈を切り裂かれたというのに知恵は悲鳴一つあげず、むしろ溢れ出る自分の血液を愉快そうに眺めていた。