「どうして隠してたの?」
静かに問いかけられる質問に答えることは出来なかった。
「…………」
すると彼女は、笑顔を浮かべて言う。
「やっと分かった、キミのこと」
透明なガラス玉をピカピカ光らせるような瞳で僕を見る彼女は、途中まで描いた絵を海だと理解していた。
「あの青と同じ。きっと広い世界を見たいんだ」
瞬きを数回、眉をひそめる。
彼女の言った言葉の意味は分からなくても話はどんどん先に進んでく。
「やっぱり海に来て良かった。嬉しいな、キミの本当の気持ちが知れて」
何が分かったのか、については彼女は詳しく言わなかった。だけど自分の中で何かを納得したようにうん、うんと頷いた。
そして彼女は僕の手をすくい上げるように持つと言う。
「一緒に夢を掴みに行こう」
ーーと。
「何を、……」
言ってるんだ、という言葉は声にする前に大きな波の音によってかきけされてしまった。
ざぶんと波打ってまた静かに戻っていく。
ああ、奪われた。
僕はそんな様子を見つめながらただそれだけを思っていた。
もう一度、何かを言うことはしなかった。ただじっと繰り返しこちらにやって来ては何かを拾って帰っていく波を見つめて、高揚した心が落ちつくのを待っていた。
その日の帰り道。
僕たちが会話をすることはほとんど無かった。
彼女が一方的に話すわけでもなく、僕が何かをつぶやくわけもなく、ただじっと2人揃って電車の椅子に座っている。
ぴたりとはまったように動かなかった僕たちは、お互いに何かを考えていたと思う。
それはお互いが分かれる場所に着くまでずっと。
「じゃあ、また明日ね」
「ああ」
いつもと同じ紙切れを初めて晩御飯以外のものに引き換えて出た旅は、僕を形容し難い気持ちにさせた。
手元には何もないのに、心にはいっぱいの景色が広がっているそれを、なんと表現するのが正解なんだろう。
「キレイだ……」
暗くなった夜道。
僕は柄にも無く星空を見上げた。
この道の星がこんなにもキレイだということに、今まで一度も気づけなかった。
いつも下を向き必死に白い線を探してはなぞって歩いていたからだ。
きっといつだってきらきら光っていたのに。下ばかり見て、どうせ見えないなんて言っていたのだろう。
上を見るのも、下を見るのも自分が決めるんだ。
そう、自分が。
オランダの有名な画家であるフィンセント・ファン・ゴッホは言った。
"It isn’t possible to stop to say the thought that I kindled once in myself."
(自分の中で一度燃え上がった想いというのは、止めることが出来ない)
密かに仕舞っていた絵の具のセットを机の上に出す瞬間はまるで、子どもが宝箱を開ける時のようにドキドキした。
懐かしい香りが鼻をかすめてゆっくりと身体に感覚が戻って来る。血が通わず、冷たくなってしまった手に血液が巡る、そんな不思議な感覚だった。
しかし、それはほんの一瞬で、玄関からガチャガチャと鍵を開ける音を聞くと、僕は慌ててそれを元の引き出しに押し込んだ。
なんでもないようなフリをしてペンを持って、なんでもないような顔で問題集を解くけれど、頭には全く入っていない。
それでもあたかも勉強してます、みたいな顔を作るのはスリリングで額から冷や汗が溢れた。
「はぐむ、今帰ったわよ」
「あ、うん。お帰り」
ノックの後に入って来た母さんは特に怪しむ事なく僕に用件を伝える。
「お父さんは今日夜勤だから帰って来ないって」
「そう」
問題無い、いつも通りの会話だ。
落ちつけと心の中で言い聞かせれば、母親は話すことを終えて、そのまま背中を向けた。
ほっ、としたその時。
母親は突然くるりと態勢をこっちに向けて言う。
「そういえば、今日のご飯のお釣りいつもより少なかったわね」
心臓がどきり、と音を立てた。
「うん……まぁ」
極力余計なことは言わないように僕は最低限の言葉で返すと母親は不思議そうに聞いてくる。
「今日は何を食べたの?」
「ちょっと、気晴らしに外で寿司を……」
「1人で?」
「そうだよ」
決まり悪く目を逸らしてしまい、焦ったけれど母親は特に違和感を感じなかったようで、ふふっと笑みを零しながら言った。
「どうだった?ちょっと贅沢なご飯は」
「たまには……こういうのもいいなって思ったよ」
「珍しいわね、はぐむがそんな事言うなんて。
お寿司が好きなら今度お父さんと一緒に行こうか」
僕は無駄に何か言うことなく、こくんとだけ頷いた。
僕の部屋から出て行った母親のご機嫌な鼻歌が聞こえてくると、ひとまず胸を撫で下ろす。
仕舞ったはずの絵を再び取り出したことを知ったらどうなるだろう。
今度こそ、全てを捨てられてしまうかもしれない。
僕は絵の具が入っている引き出しをじっと見つめた。
自分の気持ちが変わったとして、周りの気持ちが変わることはない。
だったらやっぱり意味がない。
何をしても、どんなことを思っても最終的には同じ答えにたどり着いてしまうのだ。
僕はまたその引き出しを開けることはしなかったーー。
「中西ー」
「へい」
次々と名前が呼ばれる中、呼ばれた生徒が教卓に向かい、担任から紙を受け取る。名前順に呼ばれるのでいつも待っているほんの少しの時間が退屈だった。
「森谷」
「はい」
そしてようやく呼ばれると、僕は立ち上がり担任のところに向かう。すると「よく頑張ったな」という声と共に紙を渡された。
受け取ったのはこの間受けたテストの結果と順位表だ。そこにはずらりと並ぶ赤丸と共にクラス順位1位と書かれた紙があった。
「わ〜本当に頭いいのね」
すると彼女がひょこっと現れて、僕の見ている紙を後ろから覗き込んだ。
「見るなよ」
「いいじゃない、そんなにいい結果なんだから」
「無神経だなぁ、キミさそれ他の人にやってごらんよ。絶対友達なんか出来ないから」
彼女に友達が出来ないという、気づけばこれが僕の口癖にもなりつつある。
「キミだって同じでしょ?」
「作ろうとして出来ないのと、元から作る気がなくていないのは同じじゃない」
すると彼女は口を尖らせて言った。
「いいもん。もう諦めた!キミがいるからそんなに寂しくないし」
「僕はキミと友達になった覚えはないんだけど」
「じゃあ私たち、どんな関係なの?」
「僕に付きまとうストーカー?」
僕が聞き返すように言うと、彼女は怒った。
「そんなのひどい。あんまりじゃない!
私が誘った誘いにちゃんと来てくれたんだし、それは絶対違うわ」
「あんなのは気まぐれだよ」
僕のつぶやきを聞いたのか、それとも聞いていないのか、彼女はさっきまでの怒りもけろり、と忘れたかのように言った。
「ねぇ!そういえばさ、昨日家に帰った後何か変わったことはあった?」
「さぁ、ないけど……」
「本当に?変わったこと、気持ちの変化とか」
期待するような瞳で見つめられるのは苦手だ。とっさに視線を逸らしながら僕は答えた。
「ないよ、」
「私はあったわ。心の中がすうって気持ちよくなって、家の中でも歌い続けたの。そしたらぺトラテスに怒られちゃった」
「ぺトラテス?」
聞きなれない名前に僕がオウム返しすると、彼女はよく聞いてくれた、みたいな顔をして胸を張りながら答えた。
「私の飼っている犬の名前。とっても可愛いの」
ペトラテス……珍しい名前だな。
「キミは犬は好き?」
「別にどっちでもない」
「じゃあ今度見に来るといいわ。紹介してあげるから」
どちらでもない答えを出しても話が進んでいく彼女のスタンス。いつの間にかどうなっているんだと思うこともやめてしまったけれど、気づけば最初はそれを不快に思っていたことを思い出した。
「ねぇ、今度キミの描いた絵を見せてよ」
「そんなのないよ」
「うそ、絶対あるでしょ?持ってきてよ」
「嫌だよ」
「立派なものは人に見せてこそ価値があるってお母さんが言ってたわ」
「もう捨てたから無いし」
僕の家にしまってある絵はすべてぐちゃぐちゃで見せられるものは無い。
僕の目に映る世界と同じようにぐちゃぐちゃになったもの。
価値を無いものにしたのは自分自身だ。
「もう見れないんだよ……」
僕は届くか届かないか、ぎりぎりまで声を絞ってつぶやいた。
***
それからすぐに学校は夏休みに入った。
学校で会うこと以外、接点のない僕たちは、しばらく会うことはないだろうと思っていたけれど、休みに入って少し経った時、僕の家のチャイムが鳴った。
こんな昼間の時間に鳴るのは珍しい。
そう思いながら玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは、もう会わずに済むと思っていた彼女だった。
「こんにちは、来ちゃった!」
「…………」
僕が眉をひそめるのを間近で見ても、彼女の表 情は変わらず笑顔を浮かべる。
そんな彼女を見て、無言でドアを閉めようとすると、彼女は慌てて声をかけた。
「あっ……!ちょっと待って!」
「……あのさあ、本当にキミって変わったことするよね」
「よく言われる」
「それって皮肉だってことに気づいた方がいいよ。キミにかける変わってる、は褒め言葉じゃないから」
「もしかして怒ってる?」
「いや、どっちかというと呆れてる」
「ごめん。ふとキミのことを考えたらさ、いてもたってもいられなくて」
「いてもたってもいられないからって普通押しかけて来ないだろ
家に押しかけてくる人がいるって通報するよ」
「勝手になんて入らないわ。ちゃんとキミがいいって言ってくれるまで待つわよ」
そういう問題じゃないだろう……。
僕は再び深いため息をついた。
この彼女を追い返す方法は果たして存在するのだろうか。
「ちゃんとね、お茶菓子持ってきたの。ここのシフォンケーキは美味しいからぜひキミにも食べてもらいたいんだ」
僕はしかめ面のまま、諦めたように彼女に「入れば」と伝えて中へ招いた。