彼女は心に愛を飼っているらしい



本当に人の話を聞かない人だ。
そんな彼女に慣れてしまっている自分がいることを悔しいと思いつつも、僕は答えた。


「得意じゃない」

「ちょっとだけ描いてみてよ」

「嫌だよ」

「大丈夫、どんな絵でも笑ったりしないって約束する」


「絶対いやだ、」


僕の力の入った言葉に彼女は首をかしげると、もう強情なんだからと言って、そのスケッチブックを諦めたように砂浜に置いた。


僕はほっとして、手を後ろにつくと空を眺める。


海よりも薄いブルーは、僕がどんな気持ちを抱えていても、どこの世界にも存在し続けるのだろう。

変わらずに、いつまでもずっと。


すると、いつの間にか立ち上がていた彼女が僕を上から見下ろして言った。


「あの海とキミに向けて歌います」


へらっと笑う姿はお茶らけているように見えるけれど、すぐにその表情は変わった。


すうっと息を吸う。そして、空気に乗せて歌いだす。


その顔は至極真剣で好き、であるものと向き合っている証拠だった。


ーーああ、あの時と同じだ。


耳元に流れこんでくる歌声。
一番初めに聞いた時と同じように柔らかく、温かい。

だけど、あの時とはまるで違う。






溢れ出る何か、が僕の心を溶かしてく。


彼女の歌には好きが詰まってる。


好きを突き通して、真っ直ぐに進んでいくような声は僕が見たくない、とフタをしたものまで溶かそうとした。


まるでバラバラになったパズルのピースを一つずつ、優しく直していくようなそんな歌声に心が震える。

ぱっと彼女から目を逸らすと、無造作に置かれたスケッチブックが目に入った。


忘れていいものと書かれたラベルを脳内で貼ったそれ。


もう手に取るはずもないと思っていたのに、僕は震える手をそのノートに伸ばしていた。


手が届き、それを持ち上げた時、バランスが崩れてばらばらと、スケッチブックが落ちる。

それをもう一度持ち上げると、表に向いていたのは彼女の母親が描いたであろう海の絵であった。


「……っ……、」


ドキン、と強く心臓が波を打つ。


力強い青で書かれた海の絵。
それはわくわくが抑えきれなくて感情をぶつけるように描いた絵であった。


『誰かに理解されなくてもいいって思える。それくらい自分が好きになればいい』


好きを目の前に全力で描いた絵はまさにこの言葉そのものだった。


その時、僕は思い出す。




見たくないもの、必要ないもの、それでも大好きだったものの存在を。


忘れようとしても、忘れられない。

引き出しに仕舞った思い出があることを、思い出した。


「キレイだ……」


月並みな言葉。
難しい表現をするよりも、それが一番合っているような気がする。


彼女の母親はきっと絵を描くことが大好きで仕方なかったんだろう。


大胆で感情的な絵。
しかし、それでいて繊細で細かいところには色んな色が使われていた。


同じ青でも少しくすんだ青や光が差し、白に近い青など表現の仕方はまるで違う。


その絵を見ていると、ドクン、ドクンと心臓が落ち着かなかった。


僕だったら同じ絵をどう描くだろうか。


必死に塞いでいたフタはどろどろと溶けだした。

収まるはずのないものを、無理やり抑えこんで、消したくても、消せない思い出を無理矢理消した日。


好きなものにインクを乗せ、乱暴にぐちゃぐちゃに塗りつぶしてしまった。


今でも鮮明に覚えている。


”こんなことしたくないのに”


心が叫ぶのを無視して僕は気持ちを閉じ込めてしまったんだ。


彼女の歌に乗せて、僕の腕が動き出す。
震えは未だに収まらないまま、落ちている色鉛筆に手を伸ばした。



スケッチブックの新しいページにすらすらとペンを走らせる。


目の前の青。
それは好きなものを包み込む青だ。


彼女の歌を耳で聞き、目の前の寛大な海を目で見て表現する。


ああ、懐かしい。
懐かしすぎて震える。


何にも縛られず自由に描いていた時。
僕にも夢中になるほど好きなことが確かにあったのだ。

分かっていたのに。
ずっと、ずっと知らないフリをしていた。


青色の色鉛筆を力強くのせる。
深い青を作るのは心の芯の部分を表現するため。

どんなことがあっても変わらない、そんな気持ちは強くて、はっきりしている。


目の前の彼女のように。


海の向こう。
見えない向こう岸に届くような、そんな歌声は僕の手を見えない何かで動かした。


穏やかな時、怒っている時、何かを決心した時。その時の感情ひとつで、絵はどんどん表現を変えていく。


一度も止まることはない。


さらさらと線が浮かび上がっていくことに心地よさを覚えたその時。

突然ぴたり、と彼女の歌が止んだ。


驚いて手を止め、彼女を見るとそこにはじっと僕の絵を見つめる姿がある。


「キミの絵……」


目が大きく開かれていて、その目にしっかりと僕の描いた青を映していた。




「どうして隠してたの?」

静かに問いかけられる質問に答えることは出来なかった。

「…………」


すると彼女は、笑顔を浮かべて言う。


「やっと分かった、キミのこと」


透明なガラス玉をピカピカ光らせるような瞳で僕を見る彼女は、途中まで描いた絵を海だと理解していた。


「あの青と同じ。きっと広い世界を見たいんだ」


瞬きを数回、眉をひそめる。
彼女の言った言葉の意味は分からなくても話はどんどん先に進んでく。


「やっぱり海に来て良かった。嬉しいな、キミの本当の気持ちが知れて」


何が分かったのか、については彼女は詳しく言わなかった。だけど自分の中で何かを納得したようにうん、うんと頷いた。


そして彼女は僕の手をすくい上げるように持つと言う。


「一緒に夢を掴みに行こう」


ーーと。



「何を、……」


言ってるんだ、という言葉は声にする前に大きな波の音によってかきけされてしまった。


ざぶんと波打ってまた静かに戻っていく。


ああ、奪われた。


僕はそんな様子を見つめながらただそれだけを思っていた。


もう一度、何かを言うことはしなかった。ただじっと繰り返しこちらにやって来ては何かを拾って帰っていく波を見つめて、高揚した心が落ちつくのを待っていた。




その日の帰り道。
僕たちが会話をすることはほとんど無かった。


彼女が一方的に話すわけでもなく、僕が何かをつぶやくわけもなく、ただじっと2人揃って電車の椅子に座っている。


ぴたりとはまったように動かなかった僕たちは、お互いに何かを考えていたと思う。

それはお互いが分かれる場所に着くまでずっと。


「じゃあ、また明日ね」

「ああ」


いつもと同じ紙切れを初めて晩御飯以外のものに引き換えて出た旅は、僕を形容し難い気持ちにさせた。


手元には何もないのに、心にはいっぱいの景色が広がっているそれを、なんと表現するのが正解なんだろう。


「キレイだ……」


暗くなった夜道。
僕は柄にも無く星空を見上げた。


この道の星がこんなにもキレイだということに、今まで一度も気づけなかった。


いつも下を向き必死に白い線を探してはなぞって歩いていたからだ。


きっといつだってきらきら光っていたのに。下ばかり見て、どうせ見えないなんて言っていたのだろう。

上を見るのも、下を見るのも自分が決めるんだ。

そう、自分が。











オランダの有名な画家であるフィンセント・ファン・ゴッホは言った。




"It isn’t possible to stop to say the thought that I kindled once in myself."


(自分の中で一度燃え上がった想いというのは、止めることが出来ない)



























密かに仕舞っていた絵の具のセットを机の上に出す瞬間はまるで、子どもが宝箱を開ける時のようにドキドキした。


懐かしい香りが鼻をかすめてゆっくりと身体に感覚が戻って来る。血が通わず、冷たくなってしまった手に血液が巡る、そんな不思議な感覚だった。


しかし、それはほんの一瞬で、玄関からガチャガチャと鍵を開ける音を聞くと、僕は慌ててそれを元の引き出しに押し込んだ。


なんでもないようなフリをしてペンを持って、なんでもないような顔で問題集を解くけれど、頭には全く入っていない。

それでもあたかも勉強してます、みたいな顔を作るのはスリリングで額から冷や汗が溢れた。


「はぐむ、今帰ったわよ」

「あ、うん。お帰り」


ノックの後に入って来た母さんは特に怪しむ事なく僕に用件を伝える。


「お父さんは今日夜勤だから帰って来ないって」

「そう」


問題無い、いつも通りの会話だ。
落ちつけと心の中で言い聞かせれば、母親は話すことを終えて、そのまま背中を向けた。


ほっ、としたその時。
母親は突然くるりと態勢をこっちに向けて言う。


「そういえば、今日のご飯のお釣りいつもより少なかったわね」



心臓がどきり、と音を立てた。


「うん……まぁ」

極力余計なことは言わないように僕は最低限の言葉で返すと母親は不思議そうに聞いてくる。


「今日は何を食べたの?」

「ちょっと、気晴らしに外で寿司を……」

「1人で?」

「そうだよ」


決まり悪く目を逸らしてしまい、焦ったけれど母親は特に違和感を感じなかったようで、ふふっと笑みを零しながら言った。


「どうだった?ちょっと贅沢なご飯は」

「たまには……こういうのもいいなって思ったよ」


「珍しいわね、はぐむがそんな事言うなんて。

お寿司が好きなら今度お父さんと一緒に行こうか」


僕は無駄に何か言うことなく、こくんとだけ頷いた。


僕の部屋から出て行った母親のご機嫌な鼻歌が聞こえてくると、ひとまず胸を撫で下ろす。


仕舞ったはずの絵を再び取り出したことを知ったらどうなるだろう。


今度こそ、全てを捨てられてしまうかもしれない。

僕は絵の具が入っている引き出しをじっと見つめた。


自分の気持ちが変わったとして、周りの気持ちが変わることはない。


だったらやっぱり意味がない。


何をしても、どんなことを思っても最終的には同じ答えにたどり着いてしまうのだ。



僕はまたその引き出しを開けることはしなかったーー。