彼女は心に愛を飼っているらしい




突き刺さった矢から空いた穴が温かくて、柔らかい空気を取り込んで胸いっぱいに満たしていく。


不思議だ、本当に。


すると、突然彼女が大きな声を出した。


「あっ、アイス買ったことを忘れてた!」


ごそごそと袋の中を探りながら、彼女が取り出したのは一つの袋にふたつのアイスが入ったものだった。


プラスチックの吸い出し口がありスプーンを必要としないもので、彼女はそのアイスを袋から取り出すと、真ん中からぱきんと割り、ひとつを僕に差し出した。


触っただけでも緩くなってしまっているそれを恐る恐るあけながら口をつける。

案の定どろどろに溶けていたそれは溢れるように口の中に流れこんで来た。


「食べやすくていいね」

「そう?溶けすぎでしょ、これ」


ラムネの味が舌に溶けこんで馴染んでいく。それはまるで、僕の心に入りこんで来る彼女のようだ。


「どろどろだ」


小さくつぶやいた言葉に彼女はにっこり笑顔を見せる。


「もっと、どろどろに溶けたらいいね」


彼女が放った謎の言葉はアイスに向けられたものではないことは分かっていた。


何が、だろう。


その疑問を考えているうちに、だんだんとこの胸の内にあった後ろ向きな言葉を打ち消してくれるような気がした。








じわじわと心のそこから溢れる出る何か。
それを感じた時、ああ、筆を持ちたいな。と思うのだ。


今、この空を、この場所を絵にしたらどんな絵になるのだろうか。









僕はその日から〝どうせ”という言葉を使うことががくんと減った。
そのことにキミは気づいていただろうかーー。

















強い日差しが窓越しに容赦なく照りつける。
外でなくセミの音は暑さを何十倍も感じさせ、額から垂れる汗が僕の集中力を奪っていた。


時期は7月初旬ーー。


クーラーが壊れた、と担任が言ったのは今から3
日前のことだった。

教室の空気はじめっと、生温く不快指数はぐんぐん上がる。そのせいか、この3日間、グループ内での言い合いの声が多く聞こえた。


「何をケンカしてるんだろう……」


クラス替えから3ヶ月が経つと、既にグループ形成が済み、定着する。しかし、形成されたグループは一度、何らかのきっかけを基に変わっていくらしい。

卒業する時に、最初にいたグループと今いたグループが違うというのがよく起こるのは、その原理が働いている。と、何かの専門書で読んだことがある。

グループっていうのは面倒くさい。

そんなものに興味のない僕は、今もひとり、はみ出さないように線の上を歩いていた。


「昨日さ、こんなに大きい虹を見たの。私、感動しちゃった」


ひとり……。
気づけば、横に彼女がいるけれど。


「今日も見られるかもしれないから、一緒に見に行かない?」


「行かない」






「ケチだなぁ、帰り道だよ?」

「あのさ、毎日毎日誘ってくるのやめてくれる?」


彼女は相変わらず僕に話しかけては、引っ付いてくる。

そんな彼女の気まぐれに時々付き合ったりしている僕も悪いのだけど、味をしめたとばかりに色んなことを提案してきては強引に誘ってくるのはやめて欲しい。


「毎日じゃないならいいの?じゃあ今日はやめる。でもまた明日誘うわ」


ほら、こういうところ。
本当にうんざりしてしまう。



彼女が作った“打ち上げ”という行事に参加してから、僕達の関係は少しばかり変わったように思う。

彼女は今まで以上に僕に話しかけるようになったし、遠慮がない。
いや、遠慮がないのは元からか。

もっとも彼女がしていることは変わらないのだけど、まるで自分が誘ったら来てくれるだろうと信じてるみたいな顔が気に入らない。


一方僕は僕で彼女が心に触れるたび、どこか清々しい風が吹き抜けていくそれを少し心地いいと思うようになった。


それを彼女に伝えたら、きっとキミの飼っている愛が育っていってるのね、なんて変なことを言われそうなので、絶対に言わないけど、感情というのは時が経つにつれなんらかの変化をするんだな、と内心で思った。








ーーさて、彼女が心に飼っている“愛”についての話でもしよう。



彼女いわく、愛とは二種類あるらしい。
ひとつは温かなもの。優しさや、喜びや、気遣い。誰もが持ってる、誰にでも感じることの出来る“愛”らしい。


そして、もうひとつの愛は大切なもの。
深くて強くて包み込むようなものらしい。これは誰にでも感じるものではなく、お互いに前者の愛を感じて尚、特別な人だけに感じるものだと彼女は言った。


こうして、この世界に溢れてる愛を拾って集めて、心に飼って成長させる。


まるで生きている物みたいに彼女は「愛」を表現するのだ。その見えない何かは彼女にとって生きている証で、それがあるからこそ幸せだと思えるのだと言う。


僕には全然分からない。
それなのに、そんな話をもう何十回と聞かされている。


とてもふわふわした説明は何度聞いたところで同じだけの解釈にしかならないのに。



「ねぇねぇ、今日はね。良いことを思いついたの」


すると突然、彼女は言った。


突然の提案はいつも彼女から。

いいこと、は僕にとってはロクなことではなくていつもげんなりさせられる。


今度は何を言い出すのか、そう思っていた時、彼女は明るい声で言った。





「訓練をしてみたらどうかしら?」

「なんの?」


いつも思うけど、彼女の言葉には主語がない。


「キミはまだ黒塗りの症状が消えないでしょ?特訓したら治るかもしれないじゃない」

「治らないよ」

「なんでそんなこと言えるの?」

「もうかれこれ2年以上このままだ。何をしても治らない」

「何をしても、って何もしてないクセに」


僕はむっとして彼女を見上げた。
すると、彼女はそんな僕の表情には見向きもせずに言う。


「ほら、黒塗りになった時、何かがあったとかさ」

「さあ」


思い当たることいくつかあった。
だけれど、それを話す理由は今、一つもない。


「突然なったの?それじゃあ原因の突き止めようがないなあ……」


他人のことをまるで自分のことのように考えるのは彼女のいいところでもあり、欠点でもあると思う。


人には踏み込んで欲しくない事柄というものが存在するのだ。


「僕は別に今までこうやって生きてきて、困ったことはないし。わざわざ原因を突き止めるために面倒くさいことをするまでもない」


すると今度は彼女の方がむっと口を尖らせて言う。


「目と目を見て話す。表情が変わる。あっ、今怒ってるんだって分かる。それって大事なことよ」




彼女はいちいち自分の言ったことにわざとらしいジャスチャーをつけて話した。


「何が言いたいんだが分からない」


僕の放った言葉に残念そうにため息をつく彼女



「だから、つまりは……」


頭で考えながら小さな声で言うと、彼女はあっ、とひらめいたような顔をして新たな提案をした。


「今週の日曜日に海に行こう。駅前で待ち合わせして、電車で行くの。ねぇ、いいと思わない?」

「何言ってるんだよ、土日は勉強があるから無理だし、そんなの親が許すわけない」


やっぱり彼女のひらめきはロクなものじゃない。


「勉強なんていつもしてるじゃない。1日だけ、気分転換だよ」

「気分転換なんて必要な……」


僕がそう言おうとした時、彼女は僕の机に勢いよく手をついて大きな声で言った。


「日曜日は11時に駅前で。待ってるから、来るまでずっーと!」


次に声をかける時にはもう彼女は姿を消していた。


逃げるように帰っていった彼女。
今日が金曜日であったことを思い出して僕はしてやられた、と思った。


いい逃げだ。
それでも、僕に行かなくてはいけない義務はない。


そんなことを言い聞かせながら、僕はのろりとイスから立ち上がり、教室を出たのだったーー。







チク、タクと音を立てて鳴る時計の針が妙に耳について離れない。

刻々と過ぎる時間を視界に入れながら、僕は気にしていないんだと、無理やりペンを動かしていた。


日曜日ー。


いつもの時間に起きて朝ごはんを食べ、勉強をする。いつも通りの休日のはずだった。


ーー彼女があんな言葉を放たなければ。



『日曜日は11時に駅前で。待ってるから、来るまでずっーと!』


日曜日、11時、駅前。

その単語は約束の時間に近づくたび、鮮明に頭を巡る。


今日も家には誰もいない。慣れきったようにポツンと置かれたお札と変化が見られない観葉植物が何ひとつ変わらず置かれているだけだ。


何も変わらない日常。

それなのに、同じリズムで音を刻む時計が煩わしくて仕方なかった。


……ダメだ、集中出来ない。


僕がそれを認めたのは10時半を回った時だった。

ついに耐え切れなくなってイスから立ち上がると、クローゼットから外行きの服を引っ張り出して、それを着る。


そして近くにあったリュックを背負うと、僕はリビングの机に置かれたお札をぐしゃっと握り、それをそのままポケットに入れて、家を出た。






足早に彼女が指定した駅前まで向かう。


走れば走った分だけ当たる風が僕の外出の理由を作ってくれるような気がして、スピードを速めた。

そうだな。
理由をつけるならば、キブンテンカンだ。

朝起きて何故だか集中出来なかったから、外の空気を吸いに行く。海まで。

いや、海まではおかしいな。じゃあ海に行く理由は何にしよう。

そんなことを考えていた時、噴水の縁に座って足をぶらぶらと揺らしている彼女が見えた。

ゆっくりとスピードを緩め、彼女に近づいていけば、その途中で彼女が気づく。


「やっぱり来てくれたのね」


立ち上がると同時に嬉しそうな顔して言葉を放つ彼女はいつも見る制服姿では無かった。

カジュアルなシャツに無地のデニム。決して着飾った格好ではないけれど、普段よりも彼女が大人っぽく見えて、僕は咄嗟に目を逸らした。


「何時までも待ってようと思ったけど、まだ15分。もう少し待ってても良かったくらいよ」

「ずっと待たれて、後々僕のせいにされたらたまったもんじゃないからね。早く来てあげたんだよ」


「あら、初めから来るつもりだったのね」


その皮肉にも取れる言葉に僕は黙り込む。
すると、彼女は眩しいくらいの笑顔で言って来た。