彼女は心に愛を飼っているらしい



「だけどそこにはキミの求めるようなものはないかもしれない。仕事だから。

時間になったら上がるし、困ってる時、悩んでいる時の相談相手になってくれたりはしないよ」


彼女の言葉がひんやりと冷えた空気に触れて、頭の中に溶け込んでくる。


僕と彼女は生きている環境がまるで違くて、彼女が自由に夢を追い求められるのも、その環境が違うからだと信じて疑わなかった。

だけど、そうじゃなかった。


「ね、話さないと分からないことって多いでしょ?

キミはずっと人のことを誤解して生きて来たのかもしれない。

知ろうとすれば、変わった世界が見えてくるかもしれないのに、どうせなんて心を閉ざしていたらもったいないよ」


彼女は環境が違う中、その場所に甘えてきたのではない。自らの意志で自ら進んで生きて来たのだ。


僕だけが、どうせ、という言葉を使って逃げて来た。


置かれた環境に不満を持ち、どうせ僕には出来ないと、足りないものを何かのせいにしては理由づけをしてきた。


「知りたくなかったことも知りたかったことも全部、閉ざさずに受け入れたら、この世界に優しさがたくさん落ちていることに気づくはず」


きらきらと照りつける夕日が僕達を赤く染めていく。


彼女がその長いまつげを揺らしてゆっくりと瞬きをした時、開いた瞳にはしっかりと僕が映っていた。




まっすぐで透明な中に僕を映す。汚れてしまわないだろうか、そんな変な疑問は彼女がすぐに吹き飛ばした。


「もうさ、捨てちゃいなよ。どうせなんて何もかも否定する言葉なんか」


どうせ、出来ないからやる意味がない。
どうせ伝わらないから言う必要もない。


どうせという言葉は口に出せば出すほど、自分がその言葉にふさわしい人間になっていく。


諦めて、逃げ出して、自分を否定するのが嫌だから、他人のせいにして、どうせこうだと決めつける。


そんな言い訳だらけの時を過ごすたび、気づいていく。自分の心の中に現れる虚しさと寂しさに。


“どうせ”


ひどく簡単な言葉であるくせに恐ろしいな、と思う。


「だからキミも優しさを拾って心に飼ってあげるといいよ」


「優しさなんて落ちてないけど」


やっと出せた声はなんだかかすれていて、情けないものだった。


「落ちてるよ。例えば、私にとっては今日キミが来てくれたことも優しさなんだよ」

「あれはキミが無理やり……」


「うん、それでもね。キミは私がしたかったことを一緒にしてくれた。キミからもらった優しさを心にため込んで大きくするの」


分からないな。


彼女の言ってることは理解出来ないのに、言葉は鋭い矢のように突き刺さる。





突き刺さった矢から空いた穴が温かくて、柔らかい空気を取り込んで胸いっぱいに満たしていく。


不思議だ、本当に。


すると、突然彼女が大きな声を出した。


「あっ、アイス買ったことを忘れてた!」


ごそごそと袋の中を探りながら、彼女が取り出したのは一つの袋にふたつのアイスが入ったものだった。


プラスチックの吸い出し口がありスプーンを必要としないもので、彼女はそのアイスを袋から取り出すと、真ん中からぱきんと割り、ひとつを僕に差し出した。


触っただけでも緩くなってしまっているそれを恐る恐るあけながら口をつける。

案の定どろどろに溶けていたそれは溢れるように口の中に流れこんで来た。


「食べやすくていいね」

「そう?溶けすぎでしょ、これ」


ラムネの味が舌に溶けこんで馴染んでいく。それはまるで、僕の心に入りこんで来る彼女のようだ。


「どろどろだ」


小さくつぶやいた言葉に彼女はにっこり笑顔を見せる。


「もっと、どろどろに溶けたらいいね」


彼女が放った謎の言葉はアイスに向けられたものではないことは分かっていた。


何が、だろう。


その疑問を考えているうちに、だんだんとこの胸の内にあった後ろ向きな言葉を打ち消してくれるような気がした。








じわじわと心のそこから溢れる出る何か。
それを感じた時、ああ、筆を持ちたいな。と思うのだ。


今、この空を、この場所を絵にしたらどんな絵になるのだろうか。









僕はその日から〝どうせ”という言葉を使うことががくんと減った。
そのことにキミは気づいていただろうかーー。

















強い日差しが窓越しに容赦なく照りつける。
外でなくセミの音は暑さを何十倍も感じさせ、額から垂れる汗が僕の集中力を奪っていた。


時期は7月初旬ーー。


クーラーが壊れた、と担任が言ったのは今から3
日前のことだった。

教室の空気はじめっと、生温く不快指数はぐんぐん上がる。そのせいか、この3日間、グループ内での言い合いの声が多く聞こえた。


「何をケンカしてるんだろう……」


クラス替えから3ヶ月が経つと、既にグループ形成が済み、定着する。しかし、形成されたグループは一度、何らかのきっかけを基に変わっていくらしい。

卒業する時に、最初にいたグループと今いたグループが違うというのがよく起こるのは、その原理が働いている。と、何かの専門書で読んだことがある。

グループっていうのは面倒くさい。

そんなものに興味のない僕は、今もひとり、はみ出さないように線の上を歩いていた。


「昨日さ、こんなに大きい虹を見たの。私、感動しちゃった」


ひとり……。
気づけば、横に彼女がいるけれど。


「今日も見られるかもしれないから、一緒に見に行かない?」


「行かない」






「ケチだなぁ、帰り道だよ?」

「あのさ、毎日毎日誘ってくるのやめてくれる?」


彼女は相変わらず僕に話しかけては、引っ付いてくる。

そんな彼女の気まぐれに時々付き合ったりしている僕も悪いのだけど、味をしめたとばかりに色んなことを提案してきては強引に誘ってくるのはやめて欲しい。


「毎日じゃないならいいの?じゃあ今日はやめる。でもまた明日誘うわ」


ほら、こういうところ。
本当にうんざりしてしまう。



彼女が作った“打ち上げ”という行事に参加してから、僕達の関係は少しばかり変わったように思う。

彼女は今まで以上に僕に話しかけるようになったし、遠慮がない。
いや、遠慮がないのは元からか。

もっとも彼女がしていることは変わらないのだけど、まるで自分が誘ったら来てくれるだろうと信じてるみたいな顔が気に入らない。


一方僕は僕で彼女が心に触れるたび、どこか清々しい風が吹き抜けていくそれを少し心地いいと思うようになった。


それを彼女に伝えたら、きっとキミの飼っている愛が育っていってるのね、なんて変なことを言われそうなので、絶対に言わないけど、感情というのは時が経つにつれなんらかの変化をするんだな、と内心で思った。








ーーさて、彼女が心に飼っている“愛”についての話でもしよう。



彼女いわく、愛とは二種類あるらしい。
ひとつは温かなもの。優しさや、喜びや、気遣い。誰もが持ってる、誰にでも感じることの出来る“愛”らしい。


そして、もうひとつの愛は大切なもの。
深くて強くて包み込むようなものらしい。これは誰にでも感じるものではなく、お互いに前者の愛を感じて尚、特別な人だけに感じるものだと彼女は言った。


こうして、この世界に溢れてる愛を拾って集めて、心に飼って成長させる。


まるで生きている物みたいに彼女は「愛」を表現するのだ。その見えない何かは彼女にとって生きている証で、それがあるからこそ幸せだと思えるのだと言う。


僕には全然分からない。
それなのに、そんな話をもう何十回と聞かされている。


とてもふわふわした説明は何度聞いたところで同じだけの解釈にしかならないのに。



「ねぇねぇ、今日はね。良いことを思いついたの」


すると突然、彼女は言った。


突然の提案はいつも彼女から。

いいこと、は僕にとってはロクなことではなくていつもげんなりさせられる。


今度は何を言い出すのか、そう思っていた時、彼女は明るい声で言った。





「訓練をしてみたらどうかしら?」

「なんの?」


いつも思うけど、彼女の言葉には主語がない。


「キミはまだ黒塗りの症状が消えないでしょ?特訓したら治るかもしれないじゃない」

「治らないよ」

「なんでそんなこと言えるの?」

「もうかれこれ2年以上このままだ。何をしても治らない」

「何をしても、って何もしてないクセに」


僕はむっとして彼女を見上げた。
すると、彼女はそんな僕の表情には見向きもせずに言う。


「ほら、黒塗りになった時、何かがあったとかさ」

「さあ」


思い当たることいくつかあった。
だけれど、それを話す理由は今、一つもない。


「突然なったの?それじゃあ原因の突き止めようがないなあ……」


他人のことをまるで自分のことのように考えるのは彼女のいいところでもあり、欠点でもあると思う。


人には踏み込んで欲しくない事柄というものが存在するのだ。


「僕は別に今までこうやって生きてきて、困ったことはないし。わざわざ原因を突き止めるために面倒くさいことをするまでもない」


すると今度は彼女の方がむっと口を尖らせて言う。


「目と目を見て話す。表情が変わる。あっ、今怒ってるんだって分かる。それって大事なことよ」




彼女はいちいち自分の言ったことにわざとらしいジャスチャーをつけて話した。


「何が言いたいんだが分からない」


僕の放った言葉に残念そうにため息をつく彼女



「だから、つまりは……」


頭で考えながら小さな声で言うと、彼女はあっ、とひらめいたような顔をして新たな提案をした。


「今週の日曜日に海に行こう。駅前で待ち合わせして、電車で行くの。ねぇ、いいと思わない?」

「何言ってるんだよ、土日は勉強があるから無理だし、そんなの親が許すわけない」


やっぱり彼女のひらめきはロクなものじゃない。


「勉強なんていつもしてるじゃない。1日だけ、気分転換だよ」

「気分転換なんて必要な……」


僕がそう言おうとした時、彼女は僕の机に勢いよく手をついて大きな声で言った。


「日曜日は11時に駅前で。待ってるから、来るまでずっーと!」


次に声をかける時にはもう彼女は姿を消していた。


逃げるように帰っていった彼女。
今日が金曜日であったことを思い出して僕はしてやられた、と思った。


いい逃げだ。
それでも、僕に行かなくてはいけない義務はない。


そんなことを言い聞かせながら、僕はのろりとイスから立ち上がり、教室を出たのだったーー。