「分かったよ。その代わり7時には帰るから」
「うん!」
僕の言葉に彼女は嬉しそうな顔をした。
ずっとしたかったんだ、なんて言いながら提案してきた打ち上げの内容は、コンビニでお菓子を買って夕日を見ながら食べるというものだった。
そんなの今時、小学生でもしないような打ち上げに彼女は目をきらきらと光らせる。
まったく、やっぱり彼女の考えは理解出来ない。
僕達は近くのコンビニでお菓子を買うと、学校の通り道にある小さな丘の頂上に腰を下ろした。
ビニール袋からお菓子を取り出して袋を開けながら、彼女は言う。
「どうせなら、映画とかの方が良かったかな?」
「どうして打ち上げで映画になるんだよ」
「いや、どうせ見るなら動いてる映像の方がいいのかなって思って……」
「別に、景色見てるのは嫌いじゃないし」
そもそも夕日を見るってこと自体、打ち上げらしさは無いのだからそこは気にするところではない。
「キミはさ、この夕日を見てる時どんなことを考えているの?」
スナック菓子のさくっという音を響かせて尋ねる彼女。
「別に何も考えてないよ」
「人ってね、ゆっくり何かを眺めている時間が本当の自分と向き合ってる時なんだって。昔お母さんがそう言ってた」
ぱちり、ぱちり、と瞬きを繰り返すたび目の前の景色が変わっていく。
僕が今見た景色は1秒後には変わってしまい、もう2度と見ることが出来ないものなんだと思うと、下手な映画を見ているよりももっと価値のあるもののような気がした。
「ねぇ、本当に医者になりたいって思ってる?」
だけど、彼女のこの言葉だけはやっぱり居心地の悪さを感じて、僕はキレイな茜色の空から目を逸らした。
「仮に思ってなかったとしても、僕は医者になるって決められているんだからその問いかけは意味ないものだよ」
「決められたことが正しいとは限らないよ。自分を信じて逆らってみたら?」
決められた道に逆らうことがどんなに難しいことなのか、彼女は分かっていない。
そりゃ、分かるはずがない。
彼女の生まれて来た場所は僕なんかとはまるで違う場所なんだろうから。
「どうせキミと僕とは違うんだ。キミには何言っても分からないと思うよ」
「キミっていつもそうやって自分を否定する言葉を言うよね」
別に自分を否定するつもりで言ったわけではない。僕が使う、どうせは諦めの言葉だ。
「どういうところが違うっていうの?」
「どこもかしこも違うよ」
「例えば?」
「例えば……」
僕は彼女の問に考えるようにして目線を上にやると、ポツリとつぶやいた。
「卵焼き」
思い出すかのように出た言葉は僕がずっと心の中で引っかかっていたものだった。
それを他者に押し付けるのは違うと分かっているのについ口に出してしまう。
「キミはさ、お母さんにいつもお弁当を作ってもらってるだろう?人が作る卵焼きは丸みがあってキレイな長方形にはならない」
「何がいいたいの?」
何を伝えたいのか、自分でも分からないと悟ったなら、そこでやめればいいものを僕は言葉を続ける。
「だからさ、僕の弁当に入る卵焼きは整い過ぎていて、それを見ていると、典型的に違うってこと、分かるだろ?」
僕の問いかけに、彼女はふと、悲しそうな表情を見せた。
「違うよ、そんなんじゃない……」
その横顔はどこか弱々しく、それでいて言葉は柔らかだった。
「私ね、お母さんいないの。小さい頃に事故で死んじゃったから」
小さな笑顔を浮かべて打ち明けられた言葉にひゅっと喉が詰まるばかりで、僕は声が出なかった。
「お弁当はね、家政婦さんが毎日作ってくれてるんだ。お父さんは全然かえって来ないから雇ってるの。私の栄養バランスを考えて、好きなものを聞いて食べやすく作ってくれる」
「だけどそこにはキミの求めるようなものはないかもしれない。仕事だから。
時間になったら上がるし、困ってる時、悩んでいる時の相談相手になってくれたりはしないよ」
彼女の言葉がひんやりと冷えた空気に触れて、頭の中に溶け込んでくる。
僕と彼女は生きている環境がまるで違くて、彼女が自由に夢を追い求められるのも、その環境が違うからだと信じて疑わなかった。
だけど、そうじゃなかった。
「ね、話さないと分からないことって多いでしょ?
キミはずっと人のことを誤解して生きて来たのかもしれない。
知ろうとすれば、変わった世界が見えてくるかもしれないのに、どうせなんて心を閉ざしていたらもったいないよ」
彼女は環境が違う中、その場所に甘えてきたのではない。自らの意志で自ら進んで生きて来たのだ。
僕だけが、どうせ、という言葉を使って逃げて来た。
置かれた環境に不満を持ち、どうせ僕には出来ないと、足りないものを何かのせいにしては理由づけをしてきた。
「知りたくなかったことも知りたかったことも全部、閉ざさずに受け入れたら、この世界に優しさがたくさん落ちていることに気づくはず」
きらきらと照りつける夕日が僕達を赤く染めていく。
彼女がその長いまつげを揺らしてゆっくりと瞬きをした時、開いた瞳にはしっかりと僕が映っていた。
まっすぐで透明な中に僕を映す。汚れてしまわないだろうか、そんな変な疑問は彼女がすぐに吹き飛ばした。
「もうさ、捨てちゃいなよ。どうせなんて何もかも否定する言葉なんか」
どうせ、出来ないからやる意味がない。
どうせ伝わらないから言う必要もない。
どうせという言葉は口に出せば出すほど、自分がその言葉にふさわしい人間になっていく。
諦めて、逃げ出して、自分を否定するのが嫌だから、他人のせいにして、どうせこうだと決めつける。
そんな言い訳だらけの時を過ごすたび、気づいていく。自分の心の中に現れる虚しさと寂しさに。
“どうせ”
ひどく簡単な言葉であるくせに恐ろしいな、と思う。
「だからキミも優しさを拾って心に飼ってあげるといいよ」
「優しさなんて落ちてないけど」
やっと出せた声はなんだかかすれていて、情けないものだった。
「落ちてるよ。例えば、私にとっては今日キミが来てくれたことも優しさなんだよ」
「あれはキミが無理やり……」
「うん、それでもね。キミは私がしたかったことを一緒にしてくれた。キミからもらった優しさを心にため込んで大きくするの」
分からないな。
彼女の言ってることは理解出来ないのに、言葉は鋭い矢のように突き刺さる。
突き刺さった矢から空いた穴が温かくて、柔らかい空気を取り込んで胸いっぱいに満たしていく。
不思議だ、本当に。
すると、突然彼女が大きな声を出した。
「あっ、アイス買ったことを忘れてた!」
ごそごそと袋の中を探りながら、彼女が取り出したのは一つの袋にふたつのアイスが入ったものだった。
プラスチックの吸い出し口がありスプーンを必要としないもので、彼女はそのアイスを袋から取り出すと、真ん中からぱきんと割り、ひとつを僕に差し出した。
触っただけでも緩くなってしまっているそれを恐る恐るあけながら口をつける。
案の定どろどろに溶けていたそれは溢れるように口の中に流れこんで来た。
「食べやすくていいね」
「そう?溶けすぎでしょ、これ」
ラムネの味が舌に溶けこんで馴染んでいく。それはまるで、僕の心に入りこんで来る彼女のようだ。
「どろどろだ」
小さくつぶやいた言葉に彼女はにっこり笑顔を見せる。
「もっと、どろどろに溶けたらいいね」
彼女が放った謎の言葉はアイスに向けられたものではないことは分かっていた。
何が、だろう。
その疑問を考えているうちに、だんだんとこの胸の内にあった後ろ向きな言葉を打ち消してくれるような気がした。
じわじわと心のそこから溢れる出る何か。
それを感じた時、ああ、筆を持ちたいな。と思うのだ。
今、この空を、この場所を絵にしたらどんな絵になるのだろうか。
僕はその日から〝どうせ”という言葉を使うことががくんと減った。
そのことにキミは気づいていただろうかーー。
強い日差しが窓越しに容赦なく照りつける。
外でなくセミの音は暑さを何十倍も感じさせ、額から垂れる汗が僕の集中力を奪っていた。
時期は7月初旬ーー。
クーラーが壊れた、と担任が言ったのは今から3
日前のことだった。
教室の空気はじめっと、生温く不快指数はぐんぐん上がる。そのせいか、この3日間、グループ内での言い合いの声が多く聞こえた。
「何をケンカしてるんだろう……」
クラス替えから3ヶ月が経つと、既にグループ形成が済み、定着する。しかし、形成されたグループは一度、何らかのきっかけを基に変わっていくらしい。
卒業する時に、最初にいたグループと今いたグループが違うというのがよく起こるのは、その原理が働いている。と、何かの専門書で読んだことがある。
グループっていうのは面倒くさい。
そんなものに興味のない僕は、今もひとり、はみ出さないように線の上を歩いていた。
「昨日さ、こんなに大きい虹を見たの。私、感動しちゃった」
ひとり……。
気づけば、横に彼女がいるけれど。
「今日も見られるかもしれないから、一緒に見に行かない?」
「行かない」
「ケチだなぁ、帰り道だよ?」
「あのさ、毎日毎日誘ってくるのやめてくれる?」
彼女は相変わらず僕に話しかけては、引っ付いてくる。
そんな彼女の気まぐれに時々付き合ったりしている僕も悪いのだけど、味をしめたとばかりに色んなことを提案してきては強引に誘ってくるのはやめて欲しい。
「毎日じゃないならいいの?じゃあ今日はやめる。でもまた明日誘うわ」
ほら、こういうところ。
本当にうんざりしてしまう。
彼女が作った“打ち上げ”という行事に参加してから、僕達の関係は少しばかり変わったように思う。
彼女は今まで以上に僕に話しかけるようになったし、遠慮がない。
いや、遠慮がないのは元からか。
もっとも彼女がしていることは変わらないのだけど、まるで自分が誘ったら来てくれるだろうと信じてるみたいな顔が気に入らない。
一方僕は僕で彼女が心に触れるたび、どこか清々しい風が吹き抜けていくそれを少し心地いいと思うようになった。
それを彼女に伝えたら、きっとキミの飼っている愛が育っていってるのね、なんて変なことを言われそうなので、絶対に言わないけど、感情というのは時が経つにつれなんらかの変化をするんだな、と内心で思った。