彼女は心に愛を飼っているらしい




ああやっぱり行き止まりじゃないかと。

まっさらな思いだけではどうにもならないことがたくさんあるのだ。


「じゃあ泥遊びでもした方がいい?」

「どうしてそうなる」


途中からすっかりいつもの彼女に戻っていて、僕は呆れ顔を見せた。


夕日はやがて落ちていき、辺りは薄暗い青に染まる。

肌に触れた空気が冷たく、立ち上がった瞬間身体がぶるり、と震えた。

一体いつになったら暖かくなるのだろうか。


彼女はぱん、ぱんと衣服についた泥をはらいながら立ち上がった。


「帰ろうか」


その眼差しはまだ、空に向けられている。力強く、決意したような目。



なりたいものを堂々と口に出せる彼女を羨ましいと思う人はどれだけいるだろう。


きっと数えたらそれなりの人数になると思うのに、それでも周りに合わせて他人の夢を笑ってしまう。


現実味がないものなら尚更、口に出すのは痛いと言って自分が言わなくてもいいような理由を作り出す。


人間はそうやって嫌なことから逃げるように出来ている。


向き合おうとしない限り、強い意志がない限り、自らその道を歩んだりしない。



『逃げるのか』




ーーそう、逃げている。









その言葉がやはり僕にはぴったりで笑えた。


堅く目をつぶると思った通り、脳裏に焼き付いた夕日がフラッシュバックする。


赤、朱、オレンジ。

夕日はエネルギーの色。


キレイに繊細に、というよりは力強く、感情をぶつけるように描く方が好きだった。


久しくうずいた手を僕は抑えるように握りこむ。





この日僕は家に帰っても勉強をする気分にはなれなかった。


















ピピピ―……。


目覚ましが規則正しく音を鳴らす中、僕の意識はゆっくりと浮上する。カーテンからわずかに差し込む光は、僕が机に置いた腕時計と反射して強い光を放っている。


そのまぶしさに瞳を開けるのを拒みつつ、無理やり身体をベッドから起こせば徐々にまぶたが持ち上がっていくのが分かる。


部屋を出て、まず向かうのはキッチンだ。

流しのコックをひねってグラスに水を注ぎ、一気にそれを飲み込めばからからに乾いた喉が潤っていく。


朝食は冷蔵庫にポツンと置かれているヨーグルトと昨日母親が帰り道に買ったコンビニのオニギリ。


ダイニングテーブルに座って食べるも、いつも目の前に映るのは家族の笑顔でもなく、真剣な声色で放送されるニュースもなく、家に置かれている観葉植物だけだった。


静けさに包まれた優雅な朝。


これをある人は満ち足りた生活と表現し、ある人は寂しいと表現するらしい。



「おっはよ~」


朝、学校に向かうと下駄箱で陽気な彼女に肩を叩かれた。


僕は余裕を持って学校に向かう方でいつもチャイムのなる20分前には学校に来ている。


「今日早いでしょ?早く目が覚めたから気分がよくって速足で来ちゃった」







そんな彼女は僕とは反対にいつもチャイムが鳴るギリギリに滑りこんで来るタイプで「セーフ」なんて陽気に言いながらも席についていた。


そんな誰にかけた言葉かも分からない言葉は誰にも拾われないのだが。


「今日は何かいいことありそう」

楽しげな表情を見せる彼女を無視して歩きだそうとした時、僕らは声をかけられた。


「雨宮と森谷、少しいいか?」

担任だ。

申し訳なさそうな声色で手招きする。
めんどくさいことを頼まれることはなんとなく分かった。


「実は職員室にあるプリントを教室まで運んで欲しいんだ。先生の机に束になっているから、それを二人で手分けして運んでくれ」

「はい」


きっと僕達が一緒にいたことで、仲がいいと勘違いされたんだろう。

彼女の返事に僕も後から続いて返事をすると、「じゃあよろしく頼むな」と言って担任は去って行った。


なにがいいことありそう、だ。


しょっぱなからこんなこと頼まれるなんて今日はついてない。

彼女に視線を移す。じとっとした視線を送ると、それに気づいた彼女は笑顔を向けてきた。



「今日は朝からキミと作業が出来るから特別な日かもしれない」

「めんどくさい」









ほぼ同時に放った言葉はまるで違うものだった。

同じことを頼まれていて、まるで違う言葉を見つけてきて口に出す僕ら。


そこに正しさは存在しないけれど、それぞれの生き方は存在するのかもしれない。


仕方なく、僕たちは並んで歩くと、そのまま職員室に向かった。


「失礼します」


ガラっと音を立てて、ドアを開け担任の机がある場所まで向かう。

そこには山のように積まれたプリントがおいてあった。


ひとつには付箋が貼ってあり、【配る用】と書かれている。

僕たちは付箋が貼ってあるものだけを手分けして持つことにした。



「失礼しました」


プリントを手に抱えた彼女は、歩きながらその紙に書かれた文字を見てつぶやく。


「オープンキャンパスか……」

その言葉を聞き、僕も同じようにプリントに視線を移した。


どうやら今日も進路関係のことをやるらしい。


「ねぇ、キミはもう行きたい学校とか決まってるの?」

「まぁ……おおかた」

目星はついている。

行きたいというよりは、父親がいくつか提案してきた学校だけれど。


仕事が休みの時は一緒に学校見学に行ってやるとも言われた。


こんな時だけ、僕の父さんは父親らしいことをする。小学校の頃の授業参観や運動会、そんな行事には一度も顔を見せなかったくせに。




「そっか~決まってるんだ。私、なんて書こうかなぁ」

彼女はまだ卒業後の進路までは決まっていないらしい。そもそも歌手になるという道がどういう道を辿るのか僕には分からない。


僕らが、自分たちの教室のドアの前まで来た時、ぴたりと足を止めた。

そして、僕たちふたりは顔を見合わせる。どちらも手が塞がっていて、ドアが開けられない。


すると彼女は思いついたように言う。


「足でいっか……よっ……」

よたよたとよろけながら、足を器用に使ってドアを空けようとする彼女を、僕はしかめ面で見た。

女子だろう。という感想を持ったことは言うまでもないのだが、彼女を止めようとした時、後ろから誰かがドアを空けた。


「……あ、小林さん。ありがとう」

「いーえ」


その誰か、はコバヤシさんという人らしい。

彼女は背が高く、細身のタイプだった。


相変わらず塗りつぶされた顔は、誰が誰であるか判別出来ないため、見ていることが出来なかったが、僕はうつむきながらお礼を言うと、教室の中に入った。


先に席に戻るコバヤシさんの後ろ姿を見つめながら彼女は嬉しそうにつぶやいた。


「話せた」


教卓にプリントを置くと、顔が塗りつぶされて見える僕を案じてか、コバヤシさんについて話始める。




「小林さんはね、目がきりっと二重でスタイルもいいでしょ?モデルみたいな人なんだよ。眉毛はしゅっとしててね、声は……って声は分かるよね?ハスキーでクール!」


彼女のテンション高めの声を遮るように僕は言う。

「興味ない」


すると、彼女は困ったような顔をした。


塗りつぶされていれば、皆同じ。他人と関わらなければ、誰が、誰、なんて必要のない情報だ。

僕は彼女をおいて先に席に戻ると疲れた身体を預けるようにそのままイスにもたれにかかった。


人生は必要か、必要じゃないか、のどちらかだ。


いらないものを取り入れたって、けっきょくどこかでそれが捨てられてしまうのなら、時間の無駄である。


無駄だった、やらなきゃ良かったは、損する言葉。知らない、なら平行線のままで済む。

だったら知らない、興味ないで十分だ。


僕はカバンから筆記用具を取り出すと、1限目の授業の準備をした。


その日は案の定、自分の進路にのっとって、学校訪問をする場所を第三希望まで書き出した。


決まっていないと言っていた彼女は何て書いたのだろう、と考えていたけれど、その疑問の答えは、次の日の放課後に返ってきた。



「ねぇ、聞いてよ!」


放課後、帰ろうとカバンを持ったところで、頬を膨らませた彼女がカンカンに怒りながらこちらにやって来た。




そして何も言わずに僕を見る。

明らかに何があったのか、と聞いて欲しそうな顔をしていた。

しかし、一向に尋ねて来ない僕にしびれを切らしたのか、彼女は自分の方から口を開いた。


「昼休みにね、進路のことで担任の先生から呼び出しがあったの」


そういえば、今日の昼休み。

お昼を食べると颯爽と姿を消した彼女は戻って来た時から、今と同じような顔をしていたような気がする。


「それでね、私の書いた進路希望調査を見てね、なんて言ったと思う?」


ご丁寧に間を空けてこちらの反応を伺うものだから、さすがに返事をしないのは可哀相になって「さあ」とだけ答えた。


「現実的な夢にしなさいだって。後ね、学校訪問の紙に書いた場所も怒られたの。アメリカなんて本気で書いたんじゃないだろって!」


アメリカ……?


僕はその言葉を聞いて心底呆れた。当然すぎる結果にかけてやる言葉さえ出て来ない。


「冗談で書いたと思ってるのかしら」

「そりゃ、そうだろ。だいたいそう言われるって想像出来なかったの?」

「だって先生が言ってたじゃない。しっかり自分と向き合って、やりたいことを自由に書いてみろって」


「それは常識の範囲内で、だろ?」





「私にとっては常識の範囲内だったわ」


本当にそうだったんだろうな。
僕は何度目かのため息をつくと、視線を彼女に移した。


彼女にとっての常識と、先生にとっての常識はかけ離れて過ぎていた。

それはきっとこれから先、彼女がどう真剣に伝えようとも理解出来ないくらいだろう。


そもそもそんなこと、理解なんてされるわけないのだから、しっかりとした現実味ある夢を書いておけば良かったのだ。


それなのに。彼女はいつまで経っても分からない。


「だいたいキミはさ、そんなに熱い夢を持ってるようだけど、それを追いかけて何になるの?」

「何ってなに?」

「だから、今キミがやっていることが形になると思っているのかってことだよ」

「何かにならなきゃ、やっちゃダメなの?やりたいからやる。やっていて、楽しい。それだけで幸せじゃない」

「幼い考えだな」


普段ならここで終わるはずの言い合いに彼女はひとこと言葉を添えた。


「キミの方が幼いよ。引かれた道しか歩けない。まるで子どもみたいね」


それはケンカ腰で、彼女にしては少し強い物言いだった。


自分の夢を否定されたことが相当嫌だったのだろうか。