彼女は心に愛を飼っているらしい



彼女は感心したように言う。

だけど、僕にとってはそれが当たり前で感心されるようなことは何もない。


「医者になるためには仕方ないことだから」

「どうして医者になりたいって思ったの?」



「両親どっちも医者だから」


ひどくつまらない回答であることは自分でもよく分かっていた。でも、それが僕だった。


今を、これからを形成していくものに面白みは求めない。


すると彼女はこんなことを聞いてきた。


「他にやりたいものはないの?」

「どうしてそんなこと聞くの」


「なんでだろう。直感かなあ、キミが真剣に夢を語ったりするのは痛いって言ったから、そんな経験があったのかなって……」

「別に、ない」


僕たちはただ目の前にある夕日を眺めながら、お互いを見ることなく、口だけを動かしていた。

その雰囲気は向き合って話すものよりも心地よかったからだろうか、僕はいつもよりわずかに口数が多くなっていた。


「私ね、実は高校1年生の頃は別の学校にいたの。ここから電車で2時間くらいかかるところにいたんだけど、父の仕事関係でここにやって来たんだ」


なるほど、どうりで。

高校1年からこの学校にいるのであれば、1年間の間に一度くらいすれ違ったりしているはずだ。





彼女の顔が、今と同じように塗りつぶされていないのなら、ほんのすこしすれ違っただけでも分かるはずだった。

そりゃあ一度も会わなかったわけだ。


「その時もね、同じように夢を語ったら少しバカにされたの。子どもじゃないんだからって。

現実的な夢を言う方が先生もみんなも受け入れてくれるみたい。例えば教師になりたいとか、後は商社に勤めたいとか」


現実味があり、なおかつ安定しているものを目標にすれば、他者はそれを笑わない。

ふわふわと現実からかけ離れたような、想像しづらいものをバカにするのだ。


「でもね、自分のやりたい事だから。子どもっぽいとか現実味ないとか言われても曲げたくないの。私は胸を張って自分のやりたいものはやりたいって言いたい」


将来を語る彼女の口調はいつもとは違い、真剣なものだった。

その強く抱える思いが目の前の赤く燃える夕日とリンクする。


彼女は自分で道を作っていく人物だ。

引かれた道は歩かない。
その道は不安定で、頼れる人は誰もいない。


それなのに、自分の夢を追うためにその道を作っては歩き出す。たった一人で。


「キミは汚れを知らないからそんなこと言えるんだよ」


ただ真っすぐに自分の道を行けば、途中で気づく。






ああやっぱり行き止まりじゃないかと。

まっさらな思いだけではどうにもならないことがたくさんあるのだ。


「じゃあ泥遊びでもした方がいい?」

「どうしてそうなる」


途中からすっかりいつもの彼女に戻っていて、僕は呆れ顔を見せた。


夕日はやがて落ちていき、辺りは薄暗い青に染まる。

肌に触れた空気が冷たく、立ち上がった瞬間身体がぶるり、と震えた。

一体いつになったら暖かくなるのだろうか。


彼女はぱん、ぱんと衣服についた泥をはらいながら立ち上がった。


「帰ろうか」


その眼差しはまだ、空に向けられている。力強く、決意したような目。



なりたいものを堂々と口に出せる彼女を羨ましいと思う人はどれだけいるだろう。


きっと数えたらそれなりの人数になると思うのに、それでも周りに合わせて他人の夢を笑ってしまう。


現実味がないものなら尚更、口に出すのは痛いと言って自分が言わなくてもいいような理由を作り出す。


人間はそうやって嫌なことから逃げるように出来ている。


向き合おうとしない限り、強い意志がない限り、自らその道を歩んだりしない。



『逃げるのか』




ーーそう、逃げている。









その言葉がやはり僕にはぴったりで笑えた。


堅く目をつぶると思った通り、脳裏に焼き付いた夕日がフラッシュバックする。


赤、朱、オレンジ。

夕日はエネルギーの色。


キレイに繊細に、というよりは力強く、感情をぶつけるように描く方が好きだった。


久しくうずいた手を僕は抑えるように握りこむ。





この日僕は家に帰っても勉強をする気分にはなれなかった。


















ピピピ―……。


目覚ましが規則正しく音を鳴らす中、僕の意識はゆっくりと浮上する。カーテンからわずかに差し込む光は、僕が机に置いた腕時計と反射して強い光を放っている。


そのまぶしさに瞳を開けるのを拒みつつ、無理やり身体をベッドから起こせば徐々にまぶたが持ち上がっていくのが分かる。


部屋を出て、まず向かうのはキッチンだ。

流しのコックをひねってグラスに水を注ぎ、一気にそれを飲み込めばからからに乾いた喉が潤っていく。


朝食は冷蔵庫にポツンと置かれているヨーグルトと昨日母親が帰り道に買ったコンビニのオニギリ。


ダイニングテーブルに座って食べるも、いつも目の前に映るのは家族の笑顔でもなく、真剣な声色で放送されるニュースもなく、家に置かれている観葉植物だけだった。


静けさに包まれた優雅な朝。


これをある人は満ち足りた生活と表現し、ある人は寂しいと表現するらしい。



「おっはよ~」


朝、学校に向かうと下駄箱で陽気な彼女に肩を叩かれた。


僕は余裕を持って学校に向かう方でいつもチャイムのなる20分前には学校に来ている。


「今日早いでしょ?早く目が覚めたから気分がよくって速足で来ちゃった」







そんな彼女は僕とは反対にいつもチャイムが鳴るギリギリに滑りこんで来るタイプで「セーフ」なんて陽気に言いながらも席についていた。


そんな誰にかけた言葉かも分からない言葉は誰にも拾われないのだが。


「今日は何かいいことありそう」

楽しげな表情を見せる彼女を無視して歩きだそうとした時、僕らは声をかけられた。


「雨宮と森谷、少しいいか?」

担任だ。

申し訳なさそうな声色で手招きする。
めんどくさいことを頼まれることはなんとなく分かった。


「実は職員室にあるプリントを教室まで運んで欲しいんだ。先生の机に束になっているから、それを二人で手分けして運んでくれ」

「はい」


きっと僕達が一緒にいたことで、仲がいいと勘違いされたんだろう。

彼女の返事に僕も後から続いて返事をすると、「じゃあよろしく頼むな」と言って担任は去って行った。


なにがいいことありそう、だ。


しょっぱなからこんなこと頼まれるなんて今日はついてない。

彼女に視線を移す。じとっとした視線を送ると、それに気づいた彼女は笑顔を向けてきた。



「今日は朝からキミと作業が出来るから特別な日かもしれない」

「めんどくさい」









ほぼ同時に放った言葉はまるで違うものだった。

同じことを頼まれていて、まるで違う言葉を見つけてきて口に出す僕ら。


そこに正しさは存在しないけれど、それぞれの生き方は存在するのかもしれない。


仕方なく、僕たちは並んで歩くと、そのまま職員室に向かった。


「失礼します」


ガラっと音を立てて、ドアを開け担任の机がある場所まで向かう。

そこには山のように積まれたプリントがおいてあった。


ひとつには付箋が貼ってあり、【配る用】と書かれている。

僕たちは付箋が貼ってあるものだけを手分けして持つことにした。



「失礼しました」


プリントを手に抱えた彼女は、歩きながらその紙に書かれた文字を見てつぶやく。


「オープンキャンパスか……」

その言葉を聞き、僕も同じようにプリントに視線を移した。


どうやら今日も進路関係のことをやるらしい。


「ねぇ、キミはもう行きたい学校とか決まってるの?」

「まぁ……おおかた」

目星はついている。

行きたいというよりは、父親がいくつか提案してきた学校だけれど。


仕事が休みの時は一緒に学校見学に行ってやるとも言われた。


こんな時だけ、僕の父さんは父親らしいことをする。小学校の頃の授業参観や運動会、そんな行事には一度も顔を見せなかったくせに。




「そっか~決まってるんだ。私、なんて書こうかなぁ」

彼女はまだ卒業後の進路までは決まっていないらしい。そもそも歌手になるという道がどういう道を辿るのか僕には分からない。


僕らが、自分たちの教室のドアの前まで来た時、ぴたりと足を止めた。

そして、僕たちふたりは顔を見合わせる。どちらも手が塞がっていて、ドアが開けられない。


すると彼女は思いついたように言う。


「足でいっか……よっ……」

よたよたとよろけながら、足を器用に使ってドアを空けようとする彼女を、僕はしかめ面で見た。

女子だろう。という感想を持ったことは言うまでもないのだが、彼女を止めようとした時、後ろから誰かがドアを空けた。


「……あ、小林さん。ありがとう」

「いーえ」


その誰か、はコバヤシさんという人らしい。

彼女は背が高く、細身のタイプだった。


相変わらず塗りつぶされた顔は、誰が誰であるか判別出来ないため、見ていることが出来なかったが、僕はうつむきながらお礼を言うと、教室の中に入った。


先に席に戻るコバヤシさんの後ろ姿を見つめながら彼女は嬉しそうにつぶやいた。


「話せた」


教卓にプリントを置くと、顔が塗りつぶされて見える僕を案じてか、コバヤシさんについて話始める。




「小林さんはね、目がきりっと二重でスタイルもいいでしょ?モデルみたいな人なんだよ。眉毛はしゅっとしててね、声は……って声は分かるよね?ハスキーでクール!」


彼女のテンション高めの声を遮るように僕は言う。

「興味ない」


すると、彼女は困ったような顔をした。


塗りつぶされていれば、皆同じ。他人と関わらなければ、誰が、誰、なんて必要のない情報だ。

僕は彼女をおいて先に席に戻ると疲れた身体を預けるようにそのままイスにもたれにかかった。


人生は必要か、必要じゃないか、のどちらかだ。


いらないものを取り入れたって、けっきょくどこかでそれが捨てられてしまうのなら、時間の無駄である。


無駄だった、やらなきゃ良かったは、損する言葉。知らない、なら平行線のままで済む。

だったら知らない、興味ないで十分だ。


僕はカバンから筆記用具を取り出すと、1限目の授業の準備をした。


その日は案の定、自分の進路にのっとって、学校訪問をする場所を第三希望まで書き出した。


決まっていないと言っていた彼女は何て書いたのだろう、と考えていたけれど、その疑問の答えは、次の日の放課後に返ってきた。



「ねぇ、聞いてよ!」


放課後、帰ろうとカバンを持ったところで、頬を膨らませた彼女がカンカンに怒りながらこちらにやって来た。