彼女は心に愛を飼っているらしい



「つい」

「キミ、私のことが見えてるじゃない」

「だってウソだし」

「ウソじゃないよ」

「どうしてキミがそんなこと言うんだよ」

「だってキミはそんな冗談を口にするような人じゃない」


僕の何を知ってるんだ。

思わず口に出しそうになる言葉を止める。彼女の場合、こうして誤魔化すよりも、諦めて話した方が早いと思った。


投げかけた言葉をそのまま素直に拾う彼女。

未知の世界を知ることは怖いことだ。


それに踏み込んで来る人物なんているわけもないって思っていたのに、やっぱり彼女は変わってる。


「キミだけは何でか知らないけど、見える」


ああ、そうだ。

存在しないと否定しているうちは何も広がらないーー。


これは誰の言葉だったか。


「そっか、だからあの時私に向かってぐちゃぐちゃじゃないって言ってたんだね」

彼女はやけにしみじみとした顔をして頭を縦に振って見せた。


「私だけ見えるのはなんでだろう」

「キミがヘンテコな人だからじゃない?」

「えー!私ヘンテコかなぁ?まぁそれでもいいよ。なんだかすごく楽しい気分だから」

僕は変なの、と小さくつぶやいた。

そして彼女が胸をぴしっと張り誇らしげな顔をするのをじっと見ていた。


「秘密を教えてくれたキミに私の秘密も教えよう」







茜色の空にどんよりとした雲が交じって、外が薄暗くなっていく。ああ、もうそろそろ陽が落ちるな。

ぴんっと張り詰めた空気を感じながら僕はそんなことを考える。


すると彼女は言った。




「私はね、心に愛を飼ってるの」







今日も彼女はここにいるのがさも当たり前かのように僕の目の前に座ってお弁当を食べている。

「私たち、周りから見たら友達に見えるのかな?」

「見えないだろうね」

「じゃあ恋人!?きゃっ、」

「きゃっ、じゃないよ。強いて言うなら僕に付き纏う変人だ」

「むっ、それはキミサイドの見え方じゃない」

「よくご存知で。キミ早く友達作ったら?」


僕の言葉に彼女は肩をすくめて悲しそうな顔をした。

欲しいけど、出来ないんだってことがすぐ分かる。彼女が分かりやすいのか、それとも久しぶりに表情が見えることで冴えているのか、どちらかは分からない。

けれど、くるくる変わる彼女の表情を見ていたらほぼ前者な気がした。


「はぁ、」

暖房のよく利いたこの部屋が僕の眠りを誘う。思わずあくびが漏れて、僕は口元を手で覆った。



『私はね、心に愛を飼ってるの』


昨日、彼女のすっとんきょうな言葉を無視したのはいいとして、足を止めていたせいで家に着いたのはいつもの40分も遅かった。

僕の両親はふたり揃って帰宅が遅いため、家に帰るのが遅くなっても、鬼のような顔して玄関で待っていることは無いし、その日カンカンに叱られることはない。



けれど、1週間に1度どれだけ勉強したかを見られてるので、勉強出来なかった分は寝る時間を返上してやらなくてはいけなかった。


その結果昨日は寝るのが少し遅くなり、日差しが差してくるとうとうとしてしまう。

そんな眠気の原因を作った犯人は僕の気持ちも知らず、今日も一口サイズに切られた卵焼きを美味しそうに頬張っていた。


「うん~美味しい~」


声を出しながら、毎日幸せそうな顔して食事する彼女。僕にはその気持ちが到底理解出来ない。

朝起きて、食べれもしない紙切れがポツンと机に置かれているのだ。理解なんて出来るわけないか。

僕は自らを嘲笑うかのように、ふんと鼻を鳴らした。


ハンバーグを箸で一口に切り、口に運ぶ。今日は卵焼きが入っていないものをわざわざ選んだ。

無心でもぐもぐと口を動かしていると、彼女がふと“愛”について話し始めた。


「昨日私がさ、心に愛を飼ってるって言ったでしょう?」

「…………」


どうやら話したいのは、彼女が心に飼っている“愛”についてらしい。


「その愛は表現できないものなんだけどね。大切な人の思い出とか温かさとか優しさとか、そういうのが全部詰まってるものなんだよ」






理解が出来たかと聞かれれば確実に出来てないと答えるであろうそれを、彼女はペラペラと話し出す。


手を使ってジェスチャーを交えながら、その「愛」について語るのに真剣である。


彼女の説明によると、彼女の心の中にある「愛」はビンのようなものの中にあり、人からもらった愛をそこにたくさんため込むことが出来るのだと言う。

そのビンの中がいっぱいになって溢れそうになったら誰かに分けてあげる。

そうやって世界は出来上がっているんだ、と嬉しそうに答えた。


「いっぱいになったらキミにも分けてあげるね」

「別に要らないけど」

「気にならない?」

「気にならない」

「私の話、信じてない?」

「…………」


その質問には答えずに、箸でブロッコリーを摘まむと、口に入れた。


答えなかったのは、彼女の言葉に呆れていたからかもしれないし、僕をバカにしなかった彼女を僕がバカにする資格はないと思ったのかもしれない。

どちらでもある矛盾した気持ちを表現するのは黙っているのが一番いいのだ。


彼女が話す、愛については僕から見たら変なことだけれど、僕が昨日話したことも彼女から見たら変なことである。



見えないものを信じるーー……。



自分が見たこともないものを信じるのは思っているよりもずっと難しい。








これはまだ僕が美術部に入っていた時の頃のことーー。



中学の授業で好きなものを選んで描いてみようというお題があった。


僕はなんでもいいから形あるものを選んで探していたのだが、美術の大沢先生に見たことのないものを描いてみたらどうだと言われ、想像の世界を描くことにした。


想像の世界を作りだすのはとても難しかった。

僕はきっと頭の中で、この目で見たことあるものだけを受け入れ、その他は無意識に破棄していたからだ。

僕の生きる世界を構成しているのは目に見える、誰もが信じるものだけだと思っていた。


『存在しないものを受け入れてごらん』


存在しないものを受け入れる……。

例えば、いちごが青いとか、車に足が生えているとか、そんなあり得ないことをあたかもあり得るかのように考えてみる。

最初は違和感の塊で、ないものを信じ込むおかしさに耐えられなくなったりしたけれど、それに慣れていくと、筆に絵の具を乗せた時、キャンパスの上で筆が自然と踊り出した。


全てが当たり前ではない世界。

たくさんの色に溢れた、色鮮やかな絵がそこにある。だけどよく見ると全部存在しないもの。


誰も見たことのない、誰も知らない世界は、なんとも形容しがたく不思議に溢れていた。




絵が完成した時は、じわじわと込み上げて来る何かがあったのを覚えている。


『見えないものを無いと決めつけるのは、ただ1点を見つめてその場で足踏みしているのと同じだ』


その言葉と共に知ったのは、青いいちごは無くとも、白いいちごはあるということだ。

僕が見たこともない世界はどこかで存在しているかもしれないし、していないかもしれない。


ただ、無いと決めつけるとそれはそこまで止まってしまう。


そんなことに一度気づいたのに、僕はそれっきりいつの間にか、元の自分に戻ってしまった。


「足踏みか……」


してるのかもしれない。今も、昔も――。


昼休みが終わるチャイムが鳴ったことで、僕はかなりの時間考えににふけっていたのだと思い知った。


彼女が自分の席に戻っていき、問題集を机の中から取り出す。


午後の授業は、体育祭の係り決めという至極どうでもいいものだった。

こんなものに時間を取られるのは本当にもったいないと思う。


僕は机の上で頬杖をつき、目の前の黒板をぼんやりと眺めていた。


全員が係りをやらなくてはいけない。そういう強制的なルールはばからしいな、と思う。

やりたい人がやるのが一番いいに決まっているのに、やる気ない人を無理矢理役職につかせるから問題が起きるんだ。





僕はずらりと並ぶ係りの中で一番楽そうな「得点係り」を選ぶことにした。


先生が最初から順に、係り名を読み上げて、やりたいものに挙手をする式だったので僕は速やかに手を挙げる。


「男子は森谷で決定な」


「得点係り」は僕の他に手を挙げる人はいなかった。決まったことにひとまずほっとする。


「あと一人、女子でやりたいものはいないか?」

しかしこの言葉の後に手を挙げた人物に僕は眉をしかめた。


「私、やりたいです」

「よし、雨宮な。これで得点係りは決まりだ」


僕は彼女を睨むように見る。すると、その視線が伝わったのか、彼女は振り返って、僕にピースを向けて来た。


迷惑だって意味で視線を向けたのに。


人の気持ちをまるで考えない彼女の性格は遺憾なく発揮されており、見事だと手を叩きたいくらいだった。


そして係り決めが終わると、彼女はこちらにやって来て笑顔で言う。


「これからよろしくね」


これから……。


僕はその言葉を聞いた時、これからのことを想像してどっ、と疲れてしまったのだった。



放課後ーー。


HRが終わると、カバンを持ち教室を出た。

僕の後ろをちょろちょろとついてくる彼女にうんざりしながら、ため息をつくと僕はぴたりと足を止める。そしてゆっくり振り返って彼女に言った。




「ねぇ、今日は本当について来ないでくれない?キミと話すと勉強時間が削られて、寝る時間が遅くなる」


きょとんと首をかしげる彼女。回りくどく言うと、どうやら彼女には伝わらないらしい。


「迷惑なんだよ、今日は早く帰りたいから」


ぴしゃりと放った言葉に彼女はしょぼんと肩を落とした。

なんだ、しおらしい反応も出来るんだな。


いつもこれくらいであれば、友達も1人や2人、出来るかもしれないのに。


そんなことを考えながら歩き出せば、彼女はもうついて来なかった。


この日は風が少し強かった。ひゅっと鋭い風が吹くたびにまだ成長途中の緑の葉がひらひらと落ちていく。


地面には役目の終えた茶色の葉とまだ緑の葉が混ざり合っていた。


緩やかな坂道を下り、しばらく歩いて橋を渡ると、一戸建ての住宅が立ち並んでいる。その一角が僕の家である。


ドアを開け、家に帰宅すると母さんが出迎えた。


「お帰り、はぐむ」

「ただいま。いたんだ」

「いたんだはないでしょ?母親に向かって」


家にいることの方が珍しいのだから、そう思うのは仕方のないことだ。つぶやくことはせずに心に留めておく。


すると、母親はキッチンに立ち僕に温かいコーヒーを入れてくれた。