頼むからもう放っておいてくれ。
吐き出すようにそれを言おうとした時、風が彼女の味方をするように強く吹き荒れた。
「わっ、」
一瞬の出来事だった。
強く目をつぶり、開いた時には彼女は横を向いていて息を大きくすって歌い出す。
木の葉が小さな風によって揺れ、周りの雑音が消えた。キレイなソプラノの声は風と交じりあってじわじわと、僕の心に入り込んでくる。
そこに温かさを秘めながら、柔らかな声で僕を侵蝕していく。息を吸うことすらも忘れてしまうくらいに。
ただ、キレイな歌だと表現するには圧倒的に言葉が足りない。表現出来ないそれをもどかしいと思ってしまう。彼女は一体、何者なんだろう。
僕は歌い終わって満足げな顔をする彼女をただ呆然と見ていた。
ようやく言葉が紡ぎだせるようになったのはしばらく経ってからだった。
「なん、の歌?」
この時の僕は目の前のヘンテコな彼女よりももっとおかしな質問をしていただろう。
なんの歌、だなんて興味も無いのによくそんなことを。自分で言って恥ずかしくなった。
「私が今作った即興ソングだよ。タイトルはそうだなあ……キミのことが知りたい、かな?」
「よく恥ずかしくないね」
ようやく戻って来た自分らしさに安堵する。
考えるよりも先に言葉が出てしまうなんて僕らしくもない。
「私ね、歌手になりたいんだよ」
「それは自己紹介の時に聞いた」
「自分の持ってる夢、恥ずかしがってちゃもったいないでしょ?」
――勿体ない。
彼女の言う勿体ないは何を指しているのか僕には分からなかった。
あえて聞くこともせずに前へと向き直る。すると彼女は僕の背中に問いかける。
「で、意味。教えてくれる気になった?」
「キミさ、さっきので何か変えられたと思ってる?」
振り返れば何も言わず、ただニッコリ笑う彼女がいる。その凛とした表情がはっきりと肯定を示していて潔ささえ感じさせる。
よくもまぁ、そんなに自信を持てるな。
「図々しい」
「それ、よく言われる」
「そんな期待した目で待たれても何も言わないよ」
「それでも期待した目をして待ってるね」
彼女のキラキラとした目がこちらに向けられるのはまだ慣れない。
ぱっと目を逸らして、深いため息をつく。この動作を彼女の前で晒すのは何度目だろう。
普通は拒否したら遠ざかってくものなのに。いや、拒否しなくてもつまらない、と判断すれば人は自然と遠ざかる。
僕は今より友好関係が遮断的ではなかった時、それに気づかされた。
『お前といてもつまんない』
そんな言葉を残していった友人は、きっと今の僕と話しても同じことを言うだろう。
僕には不向きなんだ。
表情が見えようが、見えまいが誰かと仲良く話すなんて必要ない。
その時、優しい風がふわりと吹いた。
彼女の歌った歌が今でもまだ耳の奥に残っていて思い出す。
〝誰もキミをバカにしたりはしない”
まるでそう伝えられているみたいでむずむずした。
よく言うよ。
伝えたら離れていくくせに。
誰にも理解出来ないこの気持ち。誰かに打ち明けたら楽になるだろうって、そんな甘っちょろいことを考える僕じゃない。
僕はじっと彼女を見つめた。きょとんと首を傾げる彼女を見て、心の中でそっとつぶやく。
いいさ、じゃあ。
教えてあげるから離れていけばいい。
そんな期待を半分。表情の見える彼女がどんな反応をするのか半分で僕は手を打った。
彼女の目をしっかりと見る。そして、言う。
「僕にはみんなの顔が黒く塗りつぶされて見えるんだ」
自分で口に出しても、まるで本や映画の中の物語を話しているようだった。
改めて誰に言ったって信じるわけがないと思う。
それは彼女の反応を見てさらに思った。
「わーお……」
思わずこぼれた感嘆の声。そこには大きな目をぱちり、ぱちりと動かしてまばたきを繰り返す彼女がいる。
さすがにこればかりは驚いたのか、彼女はじっとこっちを見て目を逸らさない。
さぞ気持ち悪いと思ったことだろう。
やっぱり口に出さない方が賢明だった。
ふっと嘲笑い、歩き出す。
これで面倒くさい彼女と縁が切れるなら安いものだ。
2.3歩足を踏み出した時、彼女は僕の腕を掴んで引き止めた。
「ねぇ!それはどういう風に見えてるの?」
「は?」
振り返ってみてみれば、期待に満ちている彼女の眼差しがある。
「塗りつぶされてるって?人の表情が見えないの?それってどんな世界なの?」
彼女から次々と投げかけられる疑問にたじろぎながらも、しっかりと彼女の目を見ると、そこにはからかいや、バカにする気持ちが全く含まれていなかった。
ただただ純粋な子どものような知りたいを突き付けてくる。
「本気で信じてるの?」
「信じてるよ」
僕は、戸惑った。
なんとも厄介だと思った。
気持ち悪いと離れてくれれば、ほら、どうせ人なんて、って笑ってやったのに。
「すごい世界ね」
彼女はおとぎ話のような世界を信じることに決めたようだ。
「気持ち悪いって言いたいんだろう?」
「ううん、見てみたい。すごく不思議な世界だから」
僕の前だからそう言ってるんだろう。どうせ明日には誰かに言いふらして笑いものにするんだ。
そういう疑いの目を全て振り払うような純粋な瞳とまっすぐな言葉。
すると、彼女は僕の顔にすっと手を伸ばした。
「ちょっと、何?」
「この目がそんな見え方してるの?ねぇ、じゃあこれも見えないの?」
彼女は顔を動かしたり、ふにゃりと曲げたりして見せた。
彼女だけは表情が見えるということも知らずに、僕に変な顔をさらす彼女が少し面白くて笑いそうになったけれど、なんだか真剣なのでいつまでも眺めているのはやめた。
「ぶさいく」
僕は小さな声を投げかけると、彼女はあんぐりと口を開けて言う。
「そんなこと、女の子に言っちゃいけないよ!」
「つい」
「キミ、私のことが見えてるじゃない」
「だってウソだし」
「ウソじゃないよ」
「どうしてキミがそんなこと言うんだよ」
「だってキミはそんな冗談を口にするような人じゃない」
僕の何を知ってるんだ。
思わず口に出しそうになる言葉を止める。彼女の場合、こうして誤魔化すよりも、諦めて話した方が早いと思った。
投げかけた言葉をそのまま素直に拾う彼女。
未知の世界を知ることは怖いことだ。
それに踏み込んで来る人物なんているわけもないって思っていたのに、やっぱり彼女は変わってる。
「キミだけは何でか知らないけど、見える」
ああ、そうだ。
存在しないと否定しているうちは何も広がらないーー。
これは誰の言葉だったか。
「そっか、だからあの時私に向かってぐちゃぐちゃじゃないって言ってたんだね」
彼女はやけにしみじみとした顔をして頭を縦に振って見せた。
「私だけ見えるのはなんでだろう」
「キミがヘンテコな人だからじゃない?」
「えー!私ヘンテコかなぁ?まぁそれでもいいよ。なんだかすごく楽しい気分だから」
僕は変なの、と小さくつぶやいた。
そして彼女が胸をぴしっと張り誇らしげな顔をするのをじっと見ていた。
「秘密を教えてくれたキミに私の秘密も教えよう」
茜色の空にどんよりとした雲が交じって、外が薄暗くなっていく。ああ、もうそろそろ陽が落ちるな。
ぴんっと張り詰めた空気を感じながら僕はそんなことを考える。
すると彼女は言った。
「私はね、心に愛を飼ってるの」
今日も彼女はここにいるのがさも当たり前かのように僕の目の前に座ってお弁当を食べている。
「私たち、周りから見たら友達に見えるのかな?」
「見えないだろうね」
「じゃあ恋人!?きゃっ、」
「きゃっ、じゃないよ。強いて言うなら僕に付き纏う変人だ」
「むっ、それはキミサイドの見え方じゃない」
「よくご存知で。キミ早く友達作ったら?」
僕の言葉に彼女は肩をすくめて悲しそうな顔をした。
欲しいけど、出来ないんだってことがすぐ分かる。彼女が分かりやすいのか、それとも久しぶりに表情が見えることで冴えているのか、どちらかは分からない。
けれど、くるくる変わる彼女の表情を見ていたらほぼ前者な気がした。
「はぁ、」
暖房のよく利いたこの部屋が僕の眠りを誘う。思わずあくびが漏れて、僕は口元を手で覆った。
『私はね、心に愛を飼ってるの』
昨日、彼女のすっとんきょうな言葉を無視したのはいいとして、足を止めていたせいで家に着いたのはいつもの40分も遅かった。
僕の両親はふたり揃って帰宅が遅いため、家に帰るのが遅くなっても、鬼のような顔して玄関で待っていることは無いし、その日カンカンに叱られることはない。
けれど、1週間に1度どれだけ勉強したかを見られてるので、勉強出来なかった分は寝る時間を返上してやらなくてはいけなかった。
その結果昨日は寝るのが少し遅くなり、日差しが差してくるとうとうとしてしまう。
そんな眠気の原因を作った犯人は僕の気持ちも知らず、今日も一口サイズに切られた卵焼きを美味しそうに頬張っていた。
「うん~美味しい~」
声を出しながら、毎日幸せそうな顔して食事する彼女。僕にはその気持ちが到底理解出来ない。
朝起きて、食べれもしない紙切れがポツンと机に置かれているのだ。理解なんて出来るわけないか。
僕は自らを嘲笑うかのように、ふんと鼻を鳴らした。
ハンバーグを箸で一口に切り、口に運ぶ。今日は卵焼きが入っていないものをわざわざ選んだ。
無心でもぐもぐと口を動かしていると、彼女がふと“愛”について話し始めた。
「昨日私がさ、心に愛を飼ってるって言ったでしょう?」
「…………」
どうやら話したいのは、彼女が心に飼っている“愛”についてらしい。
「その愛は表現できないものなんだけどね。大切な人の思い出とか温かさとか優しさとか、そういうのが全部詰まってるものなんだよ」