半分夢の中の私の耳に入る、誰かの足音。

「……げ、まだ寝てんの?」

呆れを隠さない、聞き慣れた声。

「おい起きろよ、遅刻するぞ」

待って、あと五分……と、思った瞬間。

「痛っ」
「おい起きろバカ」

パチンという音と、額を指先で弾かれる感触。その地味な痛みで、私は不快感と共に目を覚ました。

「やっと起きたかバカ。今日も遅刻したらお前1週間遅刻皆勤賞だぞ?」
「おはよ……」

白い壁と、ピンクで統一された家具。そんな柔らかい空間に不似合いな、茶髪でピアスの男。至近距離で私の顔を見下ろしてくるこいつの名前は、河原 夏樹っていって、うちの隣に住んでる私の幼なじみ。

「……一応、私レディなんですけど。もっと他に起こし方なかったわけ?」

寝ぼけた頭でのろのろと上体を起こしながら、私は夏樹にちょっと文句を言った。

「レディはそんなブッサイクな顔でよだれたらさねーよ」

ああ、よだれ。だらっだら。これは何も言い返せない、間違いなく私はレディ失格。

「あと30分で学校始まるけど。今週マジで遅刻皆勤賞する気?」
「……え、やっば」

ぼーっとした頭で時計を見れば、針はいつもの朝より1時間も進んでいる。いつもの朝って言っても、今週はずっと1時間寝坊してたんだけど。

「わざわざ起こしに来てやってる幼なじみ様に感謝しろ。あとさっさと顔洗ってこい汚ねえな」
「あーはいはいどーも!!!」

私は寝起きの不機嫌な声で夏樹に乱暴に返事をして、洗面所に走った。

顔を洗って、歯を磨いて、髪の毛なんてセットしてる暇ないからブラシで梳かしてそのまま着替える。

10分で準備を終えて夏樹のところに登場した私に、夏樹は毎朝同じ言葉をかける。

「お前そのボッサボサの髪の毛どーにかなんねーの?」
「あんたのその呆れた声はもう聞き飽きました」

私は適当にあしらう。夏樹のことが嫌いだからこんな対応なんじゃなくて、夏樹なら自然体でいても嫌われないし受け入れてくれるっていう、幼なじみならではの安心感。

学校までは歩いて20分。始業までの時間もあと20分。

「走れば余裕じゃね?」
「そうだね、走ろう」

ここだけの話、夏樹の運動能力は学年だけじゃなく学校でもトップクラス。それにひきかえ、私は。


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「はい、神崎 遥と河原 夏樹は遅刻」


校門に立っていた生徒指導の先生が、そう言いながら校門を閉めた。先生の声と校門が閉まる音と同時に、始業開始のチャイムが鳴る。

「遥、マジで足遅すぎんだよ……」
「これはごめん本気でごめん」

足が遅い上に体力のない私のせいで、走った疲労の分時間がかかってしまい、結果遅刻。

学校全体でも最底辺と言っても過言ではない私の運動能力。私が夏樹の足を引っ張ったせいで二人そろって遅刻。


これは申し訳なさで死ぬ。


生徒昇降口ではなく職員玄関に連れて行かれ、そこで待ち構えていた担任に私と夏樹はこっぴどく叱られた。


仕方ない、だって今週遅刻皆勤賞だから。


説教を終えた私と夏樹は一緒に教室に入る。毎朝一緒に登校して、一緒に遅刻する私たちを見て、クラスみんなは口を揃えて言うんだ。

「夫婦揃って遅刻ですか〜?」

高校2年生なんて、まだまだガキ。一緒に登校して、一緒に遅刻して、それだけでこんなからかい方。

「夫婦じゃねーよ」

って、笑い混じりに明るく返す夏樹。夏樹の声に合わせて、クラス内でも笑いが起きる。


はっきり言って、夏樹は人気がある。綺麗な二重の目とか、すっと通った鼻筋とか、シャープな顎のラインとか。幼なじみだからひいき目に見てるとかじゃなくて、顔は素直にかっこいいと思う。それに、明るくてノリが良い性格も、勉強も運動もできるのも、さらにスタイルもいいっていう、いいもの全部持ってる奴。でもそれが嫌味っぽくならないから、男女共に人気がある。


そんな夏樹と幼なじみの私は、顔も普通、スタイルも普通、頭も普通、運動能力は最下層。メイクも面倒だからしないし、髪だってただの伸ばしっぱなしのロング。女の子っぽいロングヘア憧れてたんだけど、やっぱり伸ばしっぱなしじゃ本の中のお姫様みたいにはなれないんだなって鏡を見るたび思い知る。


こんな私たちが、みんなが考えるみたいな恋人関係になるわけないでしょ。


そんなことを考えながら、夏樹が人に囲まれていく横を素通りして自分の席へと歩く。机に鞄を置いて椅子に座ると、前の席に座る親友の高坂 リカがパッと振り返る。

「おはよ、遥!今朝もだるそうだね」
「おはよう……最近夜眠れなくて」

ウェーブのかかった栗色の髪を揺らしながら、リップでピンクに色づいた唇が明るい声を出した。くりんと上向いたまつげと色素の薄い肌と瞳。小さな鼻がコンプレックスだっていつも顔をしかめるリカは、間違いなくこのクラスで一番かわいい。

街を歩くと、すれ違ったうちの数人はリカの可愛さに驚いて振り返る。それくらい可愛いリカが、私のペンケースの中身を私の机の上にひっくり返してペンの本数を数えながら笑って話しかけてくる。


「遥のことだから、夜遅くまで本でも読んでたんでしょ?」

かわいい彼女が紡いだ言葉は、まさに図星。図星を突かれた私は、一時間目の教科書を用意しながら言葉を返す。

「実は、好きな作家のシリーズがやっと完結したの。私、完結したらまとめて読もうと思ってたし、しかもなかなか厚さのある本だから連日連夜読んじゃって……」
「まさかそれで寝坊して遅刻!?さすがに夏樹くん怒るでしょ〜」

そうだ。私のせいで、夏樹まで遅刻したんだ。

私は、人に囲まれた夏樹の方をおそるおそる見る。でも、夏樹は人に囲まれてバカみたいに腹抱えて笑ってるだけ。

「怒ってはなさそうだけど……後でちゃんとお詫びする、さすがに申し訳ない」
「うん、リカは遥のそういう素直に物事受け止められるとこいいと思う!」

リカが大きな目を優しく細めた。私はどんな表情をしても可愛いリカを少し羨ましいと思いながら、リカが散らかしたペンをペンケースに戻していく。

「遥、一時間目移動教室だよ!一緒に行こう!」

細い足で立ち上がり、ふわりとスカートを翻して廊下に行く可愛い親友の後を、私はモタモタと追う。


大好きな幼なじみと、大好きな親友の三人で、一緒に移動先へ向かう。

通りすがりの壁にはめ込まれている鏡にうつる、ちぐはぐな私たち。きっと3人をちぐはぐにしてしまっているのは、私。


私がもっと可愛かったら。私のスタイルがもっとよかったら。私がもっと明るくてノリのいい女の子だったら。


この2人に挟まれた真ん中で、私もバカみたいに腹を抱えて笑えていたかな。


……きっと、性格的に無理だろうなぁ。


たとえ私がどんなに可愛くてキラキラした女の子だったとしても、みんなの輪の中で腹を抱えて笑うなんて性に合わない。



私がそんなことを考えながら、長い廊下を2人と一緒に歩いていた、その時だった。

廊下の向こう側から歩いてくるとある男子が、私の目に留まった。


男子にしては少し低めな身長で、ふわりと風に吹かれて揺れる髪。友達の横で少し掠れた笑い声を出して、くしゃりと笑う彼。


同じクラスの、中原 千歳君。



中原君と中原君の友達と、私たち3人。すれ違いざま、私と中原君は視線すら交わさない。


それでも、ただすれ違っただけでも、私の鼓動は高鳴っていた。


私の右斜め前の席、リカの隣の席にいる、中原千歳君。

一度も話したことはないし、視線も交わしたことがない。

でも、私は時々教室で友達と話して笑う彼の笑顔を見ていた。くしゃりと目尻にしわを作る優しい笑い方。

私はその笑顔に惹かれて、目が離せなくなっていた。


気づけば私は、いつも中原君を目で追うようになっていたんだ。



すれ違い、一歩一歩歩くたび、徐々に距離が離れていってしまう中原君の背中に私はそっと視線を送った。


こうやって、ずっと、そっと中原君を陰から見ていられたらいいなって。


そんなことを考えながら、すれ違えた嬉しさでニヤける口元を押さえていたら、移動先の教室に到着していた。

「お前、何ニヤついてんの?」
「え、いや、ニヤついてないけど!」

鋭い夏樹の言葉に、挙動不審の割には上手い返事をして、三人で移動先だった理科室へ入った。


寝坊したし遅刻したし、今日のスタートは最悪だと思ってたけど、一時間目が始まる前からあの笑顔が見られたんだから、今日はきっといい日だ。


授業態度が不真面目な私だったけど、その嬉しさで珍しく居眠りをすることなく一時間目を終えた。






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「はぁ〜やっと昼休みだよ〜」

私の目の前の席で、リカが伸びをして言う。

「リカ、ごはん食べよ」
「うん!もーめっちゃお腹空いたぁ〜」

リカはお弁当を取り出して、私の机の上で広げる。リカの細い体に似合う、小さいお弁当。


「俺もまーぜて」


と、そこに無理やり入り込んでくる奴。


「ちょっと夏樹、そこに入られたら私の食べるスペースないんだけど」
「いんじゃね?弁当抜いてお前ちょっと痩せとけって」
「うるさいわ!!」


夏樹は実は私の隣の席。私は窓際の一番後ろの席で、右に夏樹、前にリカ、右斜め前に中原君っていう座席になっている。

だから、夏樹の席は自分のイスを少し引っ張って私の机を一緒に囲むのには最適だ。


「今日千歳が昼休み委員会でいないからさ、俺ぼっち」


そう、夏樹と中原君はいつも一緒に昼食を取っている。2人は、そんなに行動を共にしているわけではないけど、お昼と放課後はよく一緒にいるところを見かける。夏樹いわく、さっぱりした関係の親友同士なんだそう。


「ぼっちなんて嘘でしょ、友達たくさんいるじゃん」


私はクラスの人気者の夏樹にそう言ってやった。


「なんだよ、そんなに俺と食べるの嫌?」


夏樹はムッとしたように私を見る。別に、拒否するふりしてるだけで本気で嫌なわけじゃないから、私は軽く笑って首を振った。


「ふたり、本当に仲いいんだね」


それを一番近くで見ていたリカが、ミートボールを口に押し込みながら小さくそう言った。


「いやこれただの腐れ縁だから!」


私はリカを見て軽く笑ったままそう返した。


「ほんっとうに付き合ってないんだよねっ?」

リカは上目遣い気味に私を見た。その問いに答えたのは夏樹だった。


「ないない!こんな干物女!」
「ちょっと誰が干物女よ!」


っていう、いつものやりとり。
それを見て、リカは困ったように笑った。


「私、ジュース買ってくる。夏樹なにか飲みたいものある?」
「え、俺?なんで?」
「今朝私のせいで遅刻したから、お詫び」
「じゃあ俺も一緒に買いに行く、その場で選びたい」
「いいけど、そしたらリカ教室で一人になっちゃうし」

私が夏樹にそう言うと、リカはミニトマトを口に運ぶ手を止めて、

「いいよ一人で待ってるから!もう少しで中原君も戻ってくるだろうし!」

と言ってくれた。


「じゃー、行ってくるわ。リカちゃんにもなんか買ってくるよ」
「ありがとう夏樹君」

『中原君も戻ってくるだろうし…』
私の心につかえてすとんと落ちていかないリカの言葉。