「まったくあんたは……どうしてそうなの? ろくに勉強もしないで追試になって、そのくせ反省ひとつしないで遊び歩いて。どうしてお兄ちゃんみたいに頑張れないの?」
お兄ちゃんと比べられたって困る、と叫び返したくなった。でも、そんなことをしたら、さらにお説教が長くなることは分かりきっているので、浴びせられる言葉にただ唇を噛んで耐える。
「お兄ちゃんは大学行きながら医師国家試験の勉強もしてるのよ? 夢に向かって全力で頑張ってるの。兄妹なのに、どうしてこんなに違うの? あなたにも出来ないはずないでしょ?」
お兄ちゃんは小さいときから勉強もできて、わたしとは全然違うのだ。それなのに、なんでわたしにまでお兄ちゃんと同じ能力を求めてくるんだろう? そんなのは無理に決まっている。
もう、わたしのことは娘なんて思わなくていいから、お兄ちゃんだけを自分の子どもとして可愛がって、好きなだけ期待してくれればいいのに。
外に出せない言葉が、どんどん心の中に降り積もって、ずっしりと重く沈んでいく。
「お母さんは自分の娘に、夢もなくただぼんやり生きてるだけの人になんかなって欲しくないの。遥にはね、お兄ちゃんを見習って、お母さんみたいに、一生を捧げてもいいって思えるような天職を見つけて、生き生きとした人生を送って欲しいのよ」
はい、はい、とわたしは何度も頷いた。耳にたこができるほど聞かされた言葉だけれど、聞き飽きたという顔なんてできるわけがなかった。
お母さんは、お父さんと結婚する前から化粧品店の店長をしていて、お兄ちゃんとわたしを生んだ後もすぐに職場復帰してずっと働き続けている。わたしはよく分からないけれど、かなりやり手と言われているらしい。店の売り上げを全国一位にするのが目標だとよく言っている。
お母さんが言うには、化粧品の仕事は自分の天職であり、この仕事をしていない自分は自分ではない、と思うほど生き甲斐になっているという。お母さんは、夢中になれる仕事に出会えて、優秀な成績を収めている自分が自慢なのだ。
それはいいけれど、それをわたしにまで押し付けてくるのは困る。わたしだって、好きで夢を見つけられずにいるわけじゃないのに。
「このままじゃ遥、お父さんみたいに無気力な会社員になっちゃうわよ。夢も目標もなくただ目の前の仕事をこなすだけ、みたいな。それでいいの? あなただって、そんなの嫌でしょ?」
わたしはお父さんが好きだ。お母さんが嫌いな『普通のサラリーマン』だけれど、優しいし子どもの話を聞いてくれる。お母さんみたいに子どもを自分の思い通りにしようなんて思わずに、一人の人間として尊重してくれている。
そんな優しいお父さんを、自分で選んで結婚したくせに、なんで文句や悪口ばっかり言うんだろう。不満に思うけれど、わたしは何も言わずにうつむくことしかできない。
「お母さんはね、あなたにはお父さんみたいなつまらない人生は送ってほしくないの。あなたのためを思って言ってるのよ、分かるでしょ?」
嘘ばっかり。わたしのためじゃなくて、自分のためでしょ。娘が自分の理想通りに生きてくれたら自分が満足できるってだけ。
きっとこんなことを言い返したら、お母さんは烈火のごとく怒るだろう。だから、全て呑み込む。
「なんなの、その目は。本当に、親の心子知らずよね。お母さんがどれだけあなたのこと……」
それでも、無理やり飲み下した思いが、喉の奥から溢れそうになって、ぐっと唇を噛んだ。もうこれ以上ここにはいたくなくて、永遠に続きそうなお説教の隙間に小さく呟く。
「……疲れてるから、もう部屋行くね」
止められる前に、わたしは踵を返した。
「こら、遥! 最後まで聞きなさい!!」
お母さんの突き刺さるような声を背中で聞きながら、逃げるように自分の部屋に戻った。
ドアを閉めると同時に、背中をドアにくっつけてずるずると床に座り込む。ふうっとため息が洩れた。
しばらく膝を抱えて顔を埋めていたら、ふいにポケットの中でスマホが震えた。見ると、天音からのメッセージが入っていた。
『今日はありがとう。明日からよろしくね』
その言葉を見た瞬間、心に立ち込めていた靄が晴れたような気がした。
憂鬱なことばかりだけれど、わたしには天音との約束がある。明日からわたしは、放課後に誰も知らない特別な秘密の時間を過ごすことになるんだ。
そう思うだけで、わたしの気持ちを暗くしていたものが薄れていく。
わたしは急いで彼に返信してから、スマホを抱きしめた。平凡でつまらない毎日が変わるかもしれない、という予感と期待に心が震えていた。
*
天音と会って話すようになってから、なんだか自分の世界を見る目が変わったような気がした。
彼とは、家や学校であったことを話すのではなく、ただその日に見たものや感じたことを話す。だから、何か彼に話せるような変わったものはないか、面白いことはないかと、いつでもアンテナを張って周囲に気をつけるようになった。
そうやって世界を見てみると、今まではただの景色だと思っていたものが、ひどく特別に見えてくる。通学路の道ばたに咲く花、毎日違う空の色と雲の形、学校に住み着いている野良猫の鳴き声、校舎から見える中庭の木々、帰り道に家々から漂ってくる晩ご飯やお風呂のにおい。今まではぼんやりと通り過ぎて見逃していたものたちが、気になって仕方がなくなった。
今日はこれを天音に話そう、あれも教えてあげよう。わたしの一日は、そんなことを考えているうちにあっという間に過ぎていった。居心地の悪い教室にいても、今までみたいに息苦しい思いに襲われることは少なくなった。
そして、放課後になると、はやる気持ちを抑えながら『喫茶あかり』に直行する。
お母さんから小言を言われても、遠子と彼方くんが二人でいるところを見てしまっても、香奈たちとの関係を息苦しく感じたとしても、放課後には天音と会えると思うだけで、不思議なくらい耐えることができた。天音に会っている間は、嫌なことなんてすっかり忘れてしまえた。
天音はいつでも柔らかくて優しい微笑みを浮かべて、静かに頷きながら、わたしの話を聞いてくれる。そして彼も、その日見つけたものや感じたことについて、ノートにびっしりと書いてきたものを見せてくれる。
それからお互いの話について感想を言い合ったり、窓の外を見てただぼんやりとしたりする。
飲み物は、甘いホットカフェオレが定番になった。冷たい風が吹く外から店内に入って天音と向かい合って座り、あかりさんが淹れてくれたカフェオレのカップを両手で握りしめると、身体の芯から溶けて解れていくような気がした。
長いような短いような時間が過ぎた後には、その日にあったつらいことなんてすっかり頭から抜け落ちて、心が軽くなっている。
家にいても学校にいても少しも落ち着けず息をつけないわたしにとって、天音と過ごす穏やかな時間は、なくてはならないとても大切なものになっていった。
「遥ちゃん、よかったらこれ運んでくれない?」
カウンターの内側にいるあかりさんから声をかけられて、今日も窓の外をぼんやりと見ながら天音の来るのを待っていたわたしは、慌てて「はい」と立ち上がった。
カウンターに向かいながら店内を見渡すと、さっきよりもお客さんが増えていた。注文の品を待っている人も数組いるようだ。
「すみません、気づかなくて……」
頭を下げながらホットコーヒーののせられたトレイを受け取る。
「いいのいいの、まだそれほど混んでないからね。でも今はちょっとミルクを火にかけてるから、手が離せなくて。ごめんね」
「いえいえ。というか、毎日ただで飲ませてもらってるんですから、どんどんこき使ってください」
あかりさんはおかしそうに声を上げて笑い、「じゃあ、お言葉に甘えて」ともうひとつのコーヒーをカウンターにのせた。わたしは頷いてカップとソーサーをトレイにのせ、伝票に書いてある席番を見て運んでいく。
ふたつのコーヒーをお客さんに届け終えて、空になったトレイを持ってカウンターに戻ろうとしたとき、入り口のほうから、からんころんと音が聞こえてきた。振り向くと、ぶら下がっているドアベルが揺れていて、扉の隙間から天音が入ってくるところだった。
「こんにちは」
声をかけると、彼はわたしに目を向けてにこっと笑った。
「いらっしゃい、天音くん」
カウンターの中から声をかけたあかりさんにはぺこりと頭を下げる。それから何人かの常連さんにも挨拶されてそのたびに律儀に頭を下げていた。
毎日通いつめて二時間から三時間は居座っているので、わたしたちは常連のお客さんたちにすっかり顔を覚えられて、いつも笑顔で迎えてもらえるようになった。
いつもの席に荷物を置いた天音は、わたしがトレイを持っているのを見て、すぐにこちらへと向かって来る。手伝おうとしてくれているのが分かったので、わたしは「いいよ、大丈夫」と手を振った。
そのとき、また入り口のドアベルが鳴った。三人組の女性客が楽しそうに笑いながら入ってくる。近くの生け花教室に通っている人たちで、よく帰りに店に寄る常連さんだ。
彼女たちはいつもコーヒーと軽食を頼むので、あかりさんは調理で忙しくなる。それが分かっている天音は、こちらへやって来た。
その後も何組かの来店や注文が続いたので、一緒にあかりさんの手伝いをした。わたしが注文をとり、あかりさんが飲み物や料理を作り、天音がそれをテーブルに運ぶ。
天音が話さないことを知っている常連さんたち相手なら、笑顔だけで無言の接客にも不審な顔はしないと分かっているので、彼も手伝うことができるのだ。
来客が落ち着いたところで、あかりさんがわたしたちを手招きした。
「ありがとう、助かったわ。お手伝いはもういいから、席に座ってちょうだい。飲み物用意するわね」
わたしと天音は彼女に頭を下げて、いつものテーブル席に座った。
「今日は寒かったね。でも、よく晴れてて空が綺麗だったよね」
『空気が澄んでるから、空の青が綺麗に見えるよね』
「それとね、休み時間に空見てたら、ソフトクリームみたいな雲があったから、写真撮ったんだ」
そう言ってスマホの画面を見せると、天音は目を丸くしてから、ふふっと笑った。
『僕もこの前、象みたいな形の雲を見つけた。写真撮れば良かったな。遥に見せたかった』
「じゃあ、今度見つけたら撮ってきてね。あ、そういえば、こないだ見かけた三毛猫が今日もいたよ。相変わらず目つき悪かった」
天音がおかしそうにくすくす笑う。その顔を見られるのが嬉しくて、面白い話題を探す癖がついてしまった。
こうやって放課後を彼と過ごすようになる前は、空をちゃんと見ることも、雲の形を気にすることも、帰り道に咲く花や野良猫にちゃんと目を向けることもなかった。
これまでと同じ生活を送っているだけなのに、わたしの目は今まで何を見ていたんだろう、とびっくりするくらいに、毎日新しい発見がある。何気ないことを話せる相手が、話したい相手がいるというだけで、こんなにも世界が違って見えるのかと驚いてしまう。
天音と会うようになってから、毎日学校に行って授業を受けているわたしの身体と、空を見たり風を感じたりしているわたしの心は全く別物のように思えてきた。学校のことも家のことも友達のことも忘れて、ただ心だけでふわふわ漂っているような。
しばらく今日の発見について話し合ったあと、ふいに会話が途切れて、わたしはなんとなく思いついた話題を口にした。
「もうすぐ期末テストだねえ」
そう言ってしまってから、学校の話はしないことにしたんだった、と気がついて後悔したけれど、天音は気にするふうもなくこくりと頷いた。
『そろそろ試験勉強始めないとね』
さらさらと書いた天音の表情を見ると、あまりテストを嫌がっている様子はない。勉強が苦手なわたしからしたら、テストが始まるのは憂鬱でしかないけれど、彼はそうでもないらしい。
そういえば天音の着ている制服は、このあたりでは一番の進学校のものだ。確か県内でも三本の指に入るくらい偏差値が高くて、難関国立大学にも毎年たくさんの合格者が出ているはずだ。
そんな高校に通っている彼からしたら、期末テストくらいなんでもないのかもしれない。
「テスト、嫌じゃないの?」
そう訊ねてみると、天音は少し首を傾げてから、
『嫌ではないかな』
と書いた。わたしは目を丸くして彼を見つめる。
「てことは、勉強、好きなんだ。すごいねえ、さすが」
有名進学校に合格するような人は、きっとみんな勉強が好きで、ちっとも苦にならないんだろうな、と感嘆した。
でも、天音の表情は、わたしの言葉でかすかに曇った。それから、少しペンを持つ指先ぐっと力を込めて、もう一度何かを書く。
『別に好きでも嫌いでもない』
硬い表情と言葉に、わたしは思わず動きを止めた。そこにはいつもの彼の優しい眼差しと穏やかな文字はなかった。
『他にやることがないから、やってるだけ』
天音らしくない、どこか投げやりな表現だ。彼はいつも、何について話す時でも肯定的で、何ものでも受け入れるような言い方をするのに。
それきり手を止めた天音は、なんの温度もない無感情な目で窓の外をぼんやりと見つめた。
やっぱり学校の話はしないほうがよかったな、と反省したわたしは、思いつきで話題を変えた。
暗くなってしまった天音の顔を明るくしたくて、必死になって話しているうちに、視界の隅にピアノの姿が入ってきた。
こうやってこの店で会うようになって以来、わたしも天音も、まだあれを弾くことはできていない。わたしたちにとって、触れてはいけないタブーのような存在。
垂れ込めかけた雲を振り払うようにして、わたしは天音に目を向けた。わたしを癒してくれるこの貴重な時間には、心を暗くさせるものなんて見ないで、全てを忘れて目の前の天音だけに意識を集中したかった。