「お母さん……」
薄暗い洗面所に、お母さんはいた。
こちらに背中を向けてうつむき、冷たい床にぺたりと座り込んでいる。よく見ると、肩がかすかに震えていた。
「お母さん、大丈夫?」
隣に腰を落として覗き込むと、お母さんの頬が涙に濡れていた。お母さんが泣いているのを見たのは初めてだった。
「……遥」
口紅のとれかけた震える唇から、かすれた声がもれる。それきり何も言わない。
「お父さんから、話聞いた。昔の自分みたいな思い、わたしたちにさせたくなかったって……」
「……そう。お父さんたら……子どもたちには言わないでって、頼んだのに、勝手に……」
お母さんがふうっと息を吐いてから、ゆっくりと口を開いた。
「そうよ。お母さんはね、人生に失敗したの。こういうふうに生きたいっていう理想があって、それを叶えたくて努力してたけど、だめだった。失敗した。自分ではちゃんと勉強してたつもりだったけど、全然足りなかったのよね。ものすごく悔しかったわ」
当時のことを思い出しているのか、お母さんはぼんやりと天井を見ながら話す。
「結局、やりたかったことは何ひとつできなかった。就職も全然希望通りにいかなかったしね。人生こんなはずじゃなかった、って何回も思ったわよ」
お母さんは完璧な人に見えていた。自分の仕事が大好きで、順風満帆な人生を歩んできて、自分に自信があって。
でも、それは、そう見えるようにお母さんが気を張ってきたからなのかもしれない。
そう考えると、わたしと似ているような気がした。心の中では何を思っていても、『何も問題ないよ』という顔をしてしまう自分。
「やりたかった仕事じゃないけど、せめて頑張ろうって決心して入社した。やっていくうちにだんだん面白くなってきて、上司にも認められて嬉しくて、これからはこの仕事を生き甲斐にしようって決めたの。この仕事を好きになれれば、私の人生の失敗はなかったことになると思ったのね。それでずっとがむしゃらにやってきたわ……」
でも、と続けたお母さんが、どこか自嘲的な笑みを浮かべた。
「最近ね、仕事がうまくいかなくて……。こんなに頑張ってるのに、どうして成果が出ないんだろうって、毎日毎日いらいらして……。だから、遥に当たっちゃってたのよね……」
お母さんはふふっと笑ってわたしを見ると、「ごめんね」と呟いた。
「勝手にあなたに理想を押しつけてたのよね。私は人生に失敗しちゃったから、遥には失敗して欲しくなかったの。悠は大学まで入ったからあとは頑張って卒業するだけでしょう。あとは遥を、ちゃんと自分がやり甲斐を感じられるような、自分に合った道を歩めるようにしてあげられたら、私の子育ても一段落かなって思ったの。だからあなたがなかなか進路を決められなくて、勉強も中途半端にしか集中できてないのが気になって。私の二の舞にさせちゃだめだって、焦ってたのよね」
お母さんがこんなふうに思っていたなんて全く知らなくて、びっくりした。
わたしが今までお母さんの話を表面的に聞き流して、ちゃんと向き合おうとしなかったから、こういう話をする機会がなかったのだ。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
「ねえ、お母さん」
お母さんが「なあに」とわたしを見る。
「人生失敗なんて言われると、悲しい」
わたしの言葉に、お母さんがはっとしたように目を見開いた。
「今の生活を全部否定してるみたいに聞こえる」
わたしたちが生まれたことまで間違いだったと言われているようで、やるせなくなる。
ゆっくりと身を起こして、「ごめん」とわたしを抱きしめる。
「ごめんね……。そんなつもりじゃなかったのよ。私、こういうのばっかりね。いつも言葉の選び方を間違っちゃう。きついことばっかり言っちゃう。反省するわ」
うなだれたお母さんの背中をぽんぽんと叩くと、お母さんは「どっちが子どもか分からないわね」と笑った。
そして顔を上げて、晴れやかな笑顔で言う。
「お父さんと結婚できたことと、遥と悠に会えたことは、私の人生の大成功だわ」
その言葉が嬉しくて、わたしは何度も頷いた。
「進路のことは、お母さんと一緒にゆっくり考えよう。具体的な職業を決めるのがまだ難しいなら、とりあえず大学に行っておけば選択肢は広がるもんね。仕事に直結しなくてもいいから、四年間勉強しても苦にならないような学部を選べばいいのよ」
「うん、そうだね」
「お母さんも色々調べたり協力するから、冬休みを使って考えようね」
「うん、ありがとう」
わたしはお母さんにぎゅっと抱きついた。
それからお母さんは、「お父さんに謝ってくる」とリビングに入っていった。
たまには夫婦水入らずにしてあげなきゃね、と微笑ましく思いながら、わたしは自分の部屋に戻った。
*
「あのね、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど」
終業式が終わって、帰りのホームルームのあと、四人で集まったときのことだった。
遠子がわたしたちにチケットのようなものを差し出して、恥ずかしそうに口を開いた。
「私ね、部活で描いてこの前コンクールに出した絵が……入選して、美術館に飾られることになったの」
香奈が「えっ!?」と声を上げ、菜々美も目を丸くしている。わたしも同じだった。
「ええっ、本当? 遠子!」
「うん、自分でも信じられないけど、本当……。昨日書類が届いたから」
「えーっ、すごいじゃん!!」
三人でぱちぱちと拍手を送ると、遠子は顔を真っ赤にして「ありがとう」と頭を下げた。
「それでね、明日から年明けまで展示されるみたいだから、よかったら三人にも見て欲しいなって」
「行くよ行くよ、もちろん行くよ!」
「遠子の絵、見たことないから楽しみだな」
香奈と菜々美が大きく頷くのに合わせて、わたしも「見に行く」と言った。
「よかった、ありがとう。あ、もし家族とか友達でチケット欲しい人がいたら、まだ余分あるから教えてね」
遠子が嬉しそうに笑いながら言った。
それからしばらくその話で盛り上がり、少しテンションが落ち着いたときに、わたしは深呼吸をしてから唐突に手を挙げた。
「わたしも聞いて欲しいことがあります」
わたしの突然の宣言に、遠子たちはそろって目を丸くする。
「なになに、なんで急に敬語?」
菜々美がおかしそうに笑って訊ねてきた。
「いや、なんか緊張して力が入っちゃって……」
「なにー、緊張するようなこと?」
香奈が首を傾げてから、からかうようににやにや笑って言う。
「まさか、やっぱり彼方くんのこと諦められないからもう一回告白する! ……とかじゃないよね?」
「えっ」
香奈の言葉に、遠子が慌てたようにわたしを見た。
「いや、違う違う」
わたしは顔の前で手を振って否定する。
遠子に「それはないから心配しないで」と笑いかけながら、そういえば彼方くんのことは最近考えてなかったな、と気がついた。進路のこと、そして何より天音のことで頭がいっぱいだったからだろうか。
天音と嫌な別れ方をしてしまってから、後悔と葛藤にわたしの心は支配されていて、前のように彼方くんの姿を目で追うことも、彼のことばかり考えてしまうこともなくなっていた。
そしてわたしが今から話そうとしていることも、もちろん彼のことだった。
「話すと長くなるんだけど……」
そう前置きをして、わたしは彼女たちに、天音と出会ってからのこと、彼に救われたこと、失声症のこと、そして彼を傷つけて音信不通になってしまったこと、なんとかして彼ともう一度会って謝って、仲直りがしたいのだということを話した。
「会いにいけばいいじゃん」
話し終えたあと、いちばんに口を開いた香奈が、当たり前のようにさらりと言った。
「そんなに会いたいなら、その子の家か学校にいけばいいじゃん。住所は分かんないかもだけど、放課後に会ってたなら制服は見てるんだよね、なら学校どこか分かるでしょ」
わたしは驚きのあまり絶句して香奈を見つめ返した。
「何びっくりした顔してんの? あたしそんな変なこと言ってる?」
「いや、あまりにもさらっと言うから驚いた……」
家はもちろんどこにあるか分からなかったし、他校に行くのは相当な勇気がいる。だから、会いにいくありえないことだと思っていたのだ。
「そう? これしか手はないと思うけど。家に突撃するのは家の人に迷惑かかっちゃうかもしれないし、居留守使われちゃう可能性もあるから、学校に乗り込んじゃったほうが確実かもね。下校するところの待ち伏せするの」
香奈はなぜかわくわくした表情をしていた。
「なんでそんな嬉しそうなの、香奈……」
「だってなんか楽しいじゃん! 映画みたいじゃない?」
本当に楽しそうな様子の香奈を見ていると、ついさっきまで『天音にはもう会えないかもしれない』と思っていた気持ちがすっかりどこかへ行ってしまって、なんとかなるような気がしてくる。
そのとき、ずっと黙っていた遠子がいきなりがばっと両手で顔を覆った。
「えっ、遠子、どうしたの?」
「嬉しい……」
へ? と間抜けな声をもらしてしまった。
わたしと天音が気まずくなっていることが嬉しい、と言っているのかと一瞬戸惑ってしまう。
でも、遠子が続けて言った言葉は、わたしの予想とは全く違うものだった。
「遥が悩みを私たちに話してくれて、頼ってくれたのが嬉しいの」
「え……」
思いも寄らない答えに、わたしは言葉を失う。でも、遠子の言葉に香奈と菜々美も大きく頷いた。
「分かる、ほんとそれ。遥がうちらに相談してくれるなんて、めちゃくちゃ嬉しいよね」
「遥っていつもにこにこしてて、嫌なことあっても笑って我慢するでしょ。絶対に弱音吐いたり愚痴言ったりもしないもんね。その遥が悩みごと打ち明けてくれたんだもん、嬉しいよ」
三人が温かい眼差しでわたしを見つめている。くすぐったくなってわたしは思わずうつむいた。
「てわけで、うちらは全面協力する気満々なわけよ」
そう言ってからからと笑った菜々美が、「その子はどこの高校なの?」と訊ねてきた。
天音が着ている制服から分かる学校名を答えると、「めっちゃ賢いじゃん」と目を丸くしてから言った。
「私の友達の友達があそこの高校に通ってるらしいんだけど、終業式の日も三時間目まで授業するって聞いたことあるよ。それなら下校は昼頃だろうから、今から急いで行けば間に合うんじゃない?」
それを聞いた香奈が、「よし、じゃあ行こう!」と荷物を持って立ち上がった。あまりの早さにわたしはおろおろと腰を上げる。
「えっ、えっ、本当に? 本当に行くの?」
「行くよー。遥ひとりじゃ他校は行きにくいでしょ。あたしたちが責任持って送り届けるから、安心してよ」
香奈はウインクでもしそうな笑顔で言った。
「私も行く」と遠子と菜々美も席を立つ。そのまま三人が教室の外へと歩き出したので、わたしも早足で後を追った。
靴箱に向かう途中、菜々美が訊ねてくる。
「その彼のこと、好きなの?」
わたしは軽く首を振って答えた。
「好き、っていうか……友達だよ。でも、すごく大事で特別で、絶対に失くしたくない友達」
「そっか」
菜々美は微笑んで頷いた。
わたしは靴を履き替えながら天音の顔を思い浮かべる。
天音に対する思いは、彼方くんに対する思いとは全く違う。
彼方くんへの思いは、勢いよく燃え上がる真っ赤な炎のような感じ。
天音のへの思いは、こんこんと湧きあがる澄んだ泉のような、静かに降り積もる真っ白な雪のような感じだ。
音もなく降りしきり、気がついたら積もっている雪。優しくて柔らかくて綺麗な雪。
この気持ちが変わらずにありつづけるものなのか、それとも変わっていくものなのかは分からないけれど、こんなふうに誰かを思ったことはないから、両手でそっと包み込むように大事にしたいな、と思う。
*
知らない学校に向かって、違う制服の高校生たちの流れに逆らって歩く。それがこんなに気まずくて恥ずかしいものだとは思わなかった。
ベージュのブレザーの集団の中をすり抜けていく紺色のセーラー服のわたしたちを、みんながじろじろ見ていく。
逆の立場だったらわたしだってそうするだろう。
でも、あまりにも居たたまれない。
わたし一人だったら、絶対に来られなかったと思う。
提案してくれた香奈と、ついてきてくれた遠子と菜々美に対する感謝の思いが込み上げてきた。
四人で肩を寄せ合い、邪魔にならないように端っこを歩いて、やっと校門の前に辿り着いた。
先生に見つかったら何か言われるかもしれない、ということで、太い柱の陰に隠れるように立つ。
「もう下校時間なんだね。天音くんはまだ帰ってなければいいんだけど……」
遠子が不安げな目で校舎を見上げる。香奈たちも頷いた。
わたしは校門の向こうにじっと目を凝らす。おそろいの制服を着た数えきれない人たち。その中に、綺麗な金色の髪を探す。
しばらくして、香奈が突然、近くを通り過ぎようとしていた男女に声をかけた。
「一年生ですか?」
いきなり話しかけられて戸惑いながらも、男の子のほうが「そうですけど」と答える。
「そう。じゃ、天音くんって人知ってる?」
香奈は臆する様子もなく立て続けに訊ねた。
わたしと遠子は顔を見合わせて、「すごいね」「さすが香奈……」と囁き合う。
「天音? ……って、誰だ? お前知ってる?」
男の子が女の子に訊ねると、彼女は少し考えるような仕草をしてから「あっ」と思いついたように顔を上げた。
「あの人じゃない? E組のさあ、金髪の」
「えっ、ヤンキー?」
「違う違う。なんか影薄い感じの、ハーフの人」
「あー、あの変なやつか。いっつも下向いてる」
「そうそう。全然しゃべらない人」
「そうなん? え、耳聞こえないの?」
「普通に授業受けてるから聞こえてるらしいんだけど、誰もその子の声聞いたことないらしいよ。やばくない?」
「マジかよ、暗すぎだろ。コミュ障?」
「そうじゃない? たぶん」
わたしたちを置き去りにして盛り上がる彼らの話に、心臓が不穏に騒ぎ出す。
まさか天音がそんなふうに思われているなんて。優しくて穏やかで綺麗な心の素敵な人なのに、変とか暗いとか言われているなんて。嫌だ。
唇を噛んでうつむいたわたしの手を、遠子がぎゅっと握ってくれる。
「あー、はいはい、それは分かったから」
そのとき、彼らの話を遮るように菜々美が声を上げた。
「で、その天音くんがまだ学校の中にいるか知りたいんだけど、分かる?」
本当に頼もしい。香奈も遠子も菜々美も、それぞれの形でわたしを支えて励ましてくれる。彼女たちと友達になれてよかった、と胸がじんわりした。
「あー、E組だっけ? たしか俺らが横通った時まだホームルームやってたよな?」
「うん、そうだったと思う。あそこの担任、話長いんだよね」
「そう。教えてくれてありがとう」
菜々美がにこやかに笑って告げると、彼はどうもー、と去っていった。
その背中に、香奈が「やな感じー」と顔をしかめて、べっと舌を出す。
わたしと遠子はくすくす笑いながら、彼らに小さく手を振った。
「さて、まだ中にいるみたいだし、気長に待つか」
香奈は腕を組んで校門の中に目を向けた。
「ていうか何、ハーフとか金髪とか言ってなかった? 本当に?」
菜々美が眉を上げて覗きこんできたので、わたしは頷く。
「うん。金髪っていうか、すごく薄い茶色かな。日が当たると金色に見える。顔立ちもハーフっぽいかな」
「マジで? てか、それさっきは言ってなかったけど、いちばんすごい情報じゃない?」
「そうかな……まあ、そうか」
「そうだよ! 優しいとか静かとか穏やかとか言ってたけど、金髪ハーフっていちばん分かりやすい情報じゃない?」
「はは……思いつかなかった、ごめん」