まだ見ぬ春も、君のとなりで笑っていたい

「なんか、よくない雰囲気になってるなっていうのは前から分かってたんだけど、『俺で力になれることがあったらなんでもするよ』って言ったら、遠子が『女子同士の問題に男子は口出さないで、もっと大事になっちゃうから』って頑なに拒否してさ。ただ見てるだけ、気を揉んでるしかなくて、俺もすげーきつかったんだ……」

彼方くんがふうっと息を吐き出した。ずっと心に刺さっていた棘がやっと抜けた、というの感じだった。

「さっき、クラスのやつから、遠子と遥ちゃんたちが『ただならぬ雰囲気で四人で空き教室のほう行ったぞ』とか言うから、もう気が気じゃなくて。で、三組見に行ったら、遠子が二人と飯食っててさ、え!?ってなって、でもその輪に入るのもなって気が引けて聞けなくて。そしたら遥ちゃん見つけたから、慌てて呼び止めちゃった。ごめんな、突然」

「いやいや、全然。こっちこそ遠子に嫌な思いさせててごめん。わたしがちゃんと言うべきこと言わずに黙ってたのが悪いんだ。今日、勇気出してみんなに話してみたら、すぐ分かってもらえて、よかった」

そっか、と彼方くんが頷く。それからにっこりと笑って言った。

「ありがとな、遠子のこと助けてくれて」

ちくりと痛んだ胸には、気づかないふりをする。

「そんないいもんじゃないよ……。それに、正直、遠子のためっていうよりは、自分のためだし。自分の気が軽くなるように、罪悪感が減るようにしたかっただけ」

目を丸くした彼方くんは、次にはふっと微笑んだ。

「遥ちゃん、やっぱりいい子だな。遠子が言ってた通りだ」

その言葉に、思わず吹き出してしまった。彼方くんが「えっ?」と首を傾げる。

「なんでそこで吹き出すんだよ……今、笑うところあった?」

「いや、なんかもう、おかしくて」

わたしは笑いをこらえきれずに、お腹を抱えながら答える。

「おかしいって、何が……?」

「だって彼方くん、口を開けば遠子遠子って! どんだけ好きなの、遠子のこと」

彼方くんの頬が、ぱあっと赤く染まった。

「えっ、うそ、そんなに言ってた……?」

「言ってた、言ってた。十秒に一回は『遠子』って言ってるよ、たぶん。ほんっと大好きなんだね」

「ええ~……マジか、恥ず……」

彼は両手で顔を覆って、うつむきながら呻いた。でも、耳まで真っ赤だから、全く隠しきれていない。

いつもさわやかで大人っぽくて余裕があって、というのが彼方くんのイメージだった。でも、彼女のことで照れる姿を見てい、こんな面もあったのかとびっくりする。

遠子は幸せだな、こんなに大事にしてもらえて。

そう思うと同時に、なんだか身体から力が抜けていくような感覚に包まれる。ずっと心のどこかにかかっていた霧がさあっと晴れていくような感じがした。

「あっ、ごめん、飯まだだった?」

わたしが持っているパンに気づいたのか、彼方くんが慌てたように言う。最初からずっと持っていたのに、今さら気づくなんて。それだけ遠子のことで頭がいっぱいだったんだろうな、と思う。

「ごめんな、飯の時間奪っちゃって。俺もう行くわ、本当ごめん! あと、本当ありがと!!」

彼方くんは両手を合わせて頭を下げてから、「じゃあ」と走り去って行った。

渡り廊下の真ん中にひとり残されたわたしは、ゆっくりと窓の外の空を見上げた。

明るい水色の空。降り注いでくる白い光。

生れたてのような光を全身に浴びていたら、ふいに、もういいかな、という思いが込み上げてきた。

ずっと彼方くんのことが好きだった。一目惚れだった。

最初に出会ったときに助けてもらって、それからずっと、遠くから見つめていた。憧れだった。

でも、今思えば、ちゃんと話したこともなかったし、本当の意味ではどんな人なのか知らなかった。

それでも、遠子と彼が付き合い始めて、ますます好きになっていったような気がする。たぶん、執着というやつだ。

ずっと片想いしていて、それが普通の状態だったから、急に諦めないといけなくなって、頭では分かっていても心が納得できていなかった。

でも、やっと、彼方くんのことを諦められるような気がする。生まれて初めての恋を、わたしはもう充分に味わったな、と素直に思えた。

恋をする喜び、片想いの甘酸っぱさ、失恋の痛み、諦められない苦しさ、どうしようもない嫉妬、そして恋が終わる瞬間。恋の全部を味わい尽くした。

わたしの初恋はこれで終わり。

初恋は実らない、とよく聞くけれど、本当だ。そう考えたら、わたしだけではないんだな、と思えた。世界中の人が、きっと今日も恋に落ちたり、失恋したりしている。

すごくすごく苦しかったけれど、いい恋をしたと、胸を張って言えた。

大きく深呼吸をして、降り注ぐ光を全身で受け止める。

冬の陽射しは、なんて透明で優しいんだろう。

天音に会いたいな、と思った。

今日のことを話したい。そして、お礼を言いたい。




「天音! こっちこっち」

駅の改札から出てきてきょろきょろとあたりを見回している天音に声をかけながら手を振る。

すぐに気づいた彼は、微笑みを浮かべながらこちらへやって来た。

「おはよ。寒いね」

天音が白い息を吐きながら頷く。

「なんか変な感じだよね。いつもあかりでしか会わないから、外で会うと新鮮だね」

彼がまた頷いた。

外で会うと、ノートに字を書くのが難しいので、天音は自分の言葉を伝えられなくなってしまうのだということに今さら気がつく。街に呼び出したりして悪かったかな、と少し申し訳なくなった。

今日は土曜日。普段は土日は会わないけれど、今日は特別に駅で待ち合わせをして買い物に行く約束をしていた。

どうしてそんな経緯になったのかというと、きっかけは一週間前に遡る。

いつものように放課後あかりで待ち合わせて、天音のおかげで遠子や香奈たちとの揉め事が無事に解決して、関係が修復できたことを報告していた日のことだった。

天音が落とした生徒手帳を拾って、せっかくだからと顔写真を見せてもらうと、その横に生年月日が書いてあった。そして、彼の生まれたのが十二月末で、もうすぐだ誕生日ということを知ったのだ。

そこでふいに思いついて、今回のことのお礼もかねて誕生日プレゼントを送りたいから、欲しいものを教えてと訊ねた。

でも彼は『お礼をもらうほどのことはしてない』と困ったような顔で受け入れてくれず、それでもしつこく食い下がっていたら、『遥の誕生日はいつ?』と問い返された。わたしの誕生日は三月なのでまだまだ先だと答えると、『僕も何か贈る。プレゼント交換しよう』と言い出した。

それじゃお礼の意味がないとさんざんごねたけれど天音は聞いてくれず、結局お互いに誕生日プレゼントを贈るということで決着した。

ただ、どちらも同年代の異性にプレゼントをあげた経験がなくて、何をあげたらいいか分からないという話になり、最終的に、『期末テストが終わったら、一緒にお互いへの贈り物を買いに行って、欲しいものを選ぼう』ということになったのだ。

そして、わたしの学校のテストが金曜日に終わったので、ついに今日、約束を果たすことになった。


「やっとテスト終わったねえ。天音どうだった?」

近くのショッピングモールに向かって歩きながら訊ねると、天音は微笑みながら小さく頷いた。

「えー、その顔は、手応えあるんだなー?」

彼は少し眉を上げておどけたような表情をして笑い、また頷いた。

「そっかー、いいなー。わたしなんか、相変わらず数学が全っ然解けなかったよー、破滅的な点数が目に見える……テスト返却が恐怖だよ……」

がっくりと肩を落としてみせたとき、ちょうど目の前の歩行者信号が赤に変わった。二人で立ち止まる。

すると、信号待ちの間に天音がコートのポケットからノートとペンを取り出した。

何か慰めの言葉を書いてくれるのかと思って、期待に胸を膨らませながら覗きこんだら、そこにあったのは、

『自業自得』

の文字。数学のテスト前日の夜に、勉強からの現実逃避でスマホをいじっていたら寝落ちしてしまった、というのを彼には話していた。

それにしたって、冷たい答えだ。

「それ、わざわざ書くほどのこと!?」

いじけた顔で見上げると、天音はおかしそうに肩を揺らして笑った。それから、また何かを書く。

『テストお疲れ様』

意地悪なことを言った後に、こうやって優しいことを言うんだから、睨もうにも睨めなくなってしまう。絶対わざとだ、悪いやつ。飴とムチってこれか、と感心してしまった。

「天音も、テストお疲れ様。お互い頑張ったね」

彼はにこりと笑った。そこで信号が青に変わったので、再び目的地に向かって歩き出す。

隣の天音は、当たり前だけれど私服を着ている。普段は制服で会っているので、なんだか新鮮だ。最初に出会った時は確か制服ではなかったけれど、泣いていたのと驚いたのとで混乱していたので、あまりちゃんと見ていなくて記憶がおぼろげだ。

今日の天音は、白いシャツの上に黒いコートをはおって、デニム地のジーンズをはいていた。シンプルな格好だけれど、ほっそりとして色白な彼にはよく似合う。無彩色の服のおかげで、金色に透ける髪と緑がかった薄茶の瞳の鮮やかさが際立っていた。

わたしは白のブラウスと黒のスカートを着て、ベージュのダッフルコートと焦げ茶色のブーツを組み合わせている。雑誌で見て可愛いなと思った格好を真似してみた。

天音の飾らない格好に比べて、なんだか気合いが入りすぎているようで恥ずかしい。失恋以来ずっとふさぎこんでいたせいで街に出るのは久しぶりだったので、張り切ってしまった。

大通り沿いの並木道を歩いていたとき、前のほうに一眼レフのカメラを持った男の人と、書類のようなものの束を持った女の人がいるのを見つけた。行き交う人々を真剣な目で見ている。

何してるんだろう、と思いながら横を通りすぎようとすると、ぱっとこちらを見た女の人が、急に駆け寄ってきた。

「あのっ、君、ちょっと待って!」

わたしと天音は反射的に立ち止まった。

カメラを持った男の人も隣にやってくる。

「急に呼び止めちゃってごめんなさいね。私たち、こういう者なんだけど」

彼女はわたしたちに名刺を差し出した。天音が戸惑ったような顔をしているので、とりあえずわたしが受け取ってみる。そこには、十代の女子に人気の雑誌の名前が書かれていた。

「この雑誌、知ってる?」

彼女がにこにこ笑いながらわたしに話しかけてきた。

「あ、名前だけは。すみません、読んだことはないんですけど」

「ううん、いいのよ気にしないで。ねえ、あなた、この子の彼女さん?」

女の人は、天音を指差して首を傾げながら訊ねてきた。

「いえ、友達です」

「あら、そうなの? とってもお似合いだったから、てっきりカップルかと思ったわ」

「あ、いえ……」

どう答えればいいか分からなくて、もごもごと答えた。ちらりと見上げると、天音も困ったような顔をしている。

「あのね、私たち今、雑誌にのせる写真を撮ってるところなの」

天音に向かって話しているけれど、彼はもちろん答えられないので、わたしが「そうなんですか」と適当に相づちをうつ。

「街で見つけた素敵な男の子とかカップルを撮らせてもらって、簡単に紹介するっていうコーナーなんだけど」

「へえ、そうなんですか……」

なんだか嫌な予感がしてきた。


「ねえ、彼、本当に綺麗な顔してるわね」

やっぱりそういうことか、と思う。

「かっこいいからすごく目を引いて、すぐに声かけさせてもらったのよ」

彼女は天音をじっと見つめながら言った。彼はさらに困ったような顔になる。

確かに天音はすごく目立つ容姿をしている。こうやって立ち話をしている間にも、通り過ぎる人たちがみんな振り向いて彼のことを見ているのが分かった。

でも、天音の表情を見ていると、そういう視線を受けて明らかに居心地悪そうにしているし、声をかけられたことにも困っているのが分かった。

どこかで断ってあげなきゃ、と思って口を開きかけたけれど、彼女がどんどん言葉を続けるので、なかなかきっかけがつかめなくてまごついてしまう。

「色白だし、目も髪も色素が薄いのね。目鼻立ちもはっきりして整ってるし、もしかして外国の血が入ってる? ハーフさんかな」

彼女がその言葉を口にした瞬間、天音の顔色が一気に変わった。

あ、これはよくない、と反射的に思った。

彼のこんな表情を見るのは初めてだった。きっと彼にとっては、触れられたくない部分なのだと、事情は何も分からないけれど直感した。

「あのっ!」

気がついたときには鋭く声を上げていた。三人が驚いたようにこちらを見る。

「あの……すみません、彼は、写真とか得意ではないので。申し訳ないですけど、お断りさせてください」

勇気を出して、きっぱりと断った。

でも、彼女たちは慣れた様子で笑い、「大丈夫、大丈夫」と受け流した。

「そんなに構えなくても、本当にちょっとパシャッと撮るだけだから。お時間はとらせないし、別にプロのモデルさんみたいにポーズ決めてってお願いするわけじゃないしね。ただそこに立ってカメラのほう見てくれるだけでいいのよ。ね、ちょっと撮らせて」

彼女は、天音が断るとは微塵も思っていないようだった。

天音の気持ちも考えないで、と怒りが湧いてくる。

ちらりと見ると、彼はひどく傷ついたような顔でうつむいていた。その姿を見て、やっぱりだめだ、と確信する。

わたしは天音の手首をがっしりと握った。そして、彼女たちを真正面から見つめて、はっきりと声に出す。

「無理です」

止められるまえに、天音の手を引いて駆け出した。

「えっ、ちょっと!?」

唖然としてこちらを見ている彼らに頭を下げつつも足は止めず、ショッピングモールの方向へとダッシュする。

しばらくして、だんだん息切れして足が重くなってきたので、スピードを緩めた。

振り返って見ると、天音がまだ驚いたような顔をしていた。

「ごめんね、急に走っちゃって」

彼はふるふると首を横に振ってから微笑み、唇を『ありがとう』と動かした。

「わたし、早とちりとかお節介じゃなかった?」

天音がおかしそうに笑いながら、また首を振る。

「そっか、よかった」

一安心して息をつき、わたしは今度はゆっくりと歩き出した。

ショッピングモールに着いたら、予想外の出来事があったせいかなんだかどっと疲れが来て、わたしたちはとりあえずカフェに入ることにした。

店内はまだ空いていて、お好きな席にどうぞと言われたので、大きな窓の側で外がよく見えるテーブルを選んで腰かけた。

注文を終えて、いつものようにとりとめのない話をする。なんとなく話したくなって、わたしは学校の話をした。

「昨日ね、香奈が宿題終わってなくて、写させてって遠子に頼んだんだけど、遠子ったら『ずるはだめだよ』って真面目に注意して、香奈が『遠子のくせに生意気!』って言い返したら、遠子、『いじめられてたから仕返し』って笑ってね、もうおかしくって笑い止まらなかった。ネタにできるなんて、遠子も強くなったなーって。こないだまでぎすぎすしてたのに、もうすっかり元通りっていうか、元より仲良くなったの。ほんとよかった」

笑いながら言ったときだった。天音がふいにペンを出して、ノートに何かを書いて見せてきた。

『遥、明るくなったね』

意表を突かれて、わたしは口をつぐんで彼を見る。

『前までは、そんなふうに声あげて笑ったりしなかった。いつもにこにこしてたけど、寂しそうだった。本当はそんなに明るいのに、悩んでて笑えなくなってたんだね。仲直りできてよかったね』

「ええ~……そっか、わたしそんなふうだったか。なんか、恥ずかしいな」

『そんなことないよ。誰だってそういうときはあるよ』

その言葉に、思わず「天音も?」と訊きたくなったけれど、呑み込んだ。知りたくても訊いたらいけないことはある。

微笑みだけで彼の言葉に答えて、話題を変えることにした。

「でもね、遠子たちのことが解決したのはよかったんだけど、今度は進路のことで悩んでて」

天音が目を瞬いて、先を促すように頷いた。

「わたしね、夢とか全然なくて……やりたいこともなりたいものもなくて、進路が全然決まらないの。先生はね、具体的な仕事じゃなくてもいいから、趣味とか好きなことに関係するような仕事をとりあえず書けって言うんだけど、わたし趣味とか特技でさえないの」

こういう話をしたのも、天音が初めてだ。情けなすぎて、親にも友達にも言えない。

「休みの日とかも、暇つぶしに本とか漫画とか雑誌読んだり、音楽聴いたり映画観たり、たまにスマホでゲームしたりするけど、どれも全部趣味っていえるほど熱中してるわけじゃなくて、気が向いたときにしてるだけ。仕事にしたいってほどじゃないんだよね」

ふうっとため息が出た。