「夕雨」

「ん?なに?」

「夕雨はさ…なんで雨が好きなの?」


彼女は僕の方をちらりとみると、教えてほしい?なんて、意味ありげに微笑む。


「え、そんなに深い理由?」

「それはね……」


―――…バシャッ


「わっ」


彼女の口が、理由を紡ぎだす直前、車が水を跳ねてきた。

驚いて咄嗟に避けたけれど、彼女の言葉に全神経を注いでいた僕は少し反応が遅れて、靴の端が濡れてしまった。

…地味に冷たい。


「大丈夫?濡れてない?」


彼女が差し出そうとする綺麗なハンカチを手で制した。

気遣うような視線が少し照れくさい。


「うん、大丈夫。ちょっと濡れたけど」

「急ごっか、もうちょっとだし」

「あぁ、うん…」


そして気がつけば、先ほどの話は流れていた。




「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりでしょうか」


3分ほどで到着した喫茶店は、オープンしたばかりということもあって程よく混んでいた。

ただ年齢層が少し高めなせいか、混んでいても騒がしさは感じない。

皆それぞれのやりたい事をしているような雰囲気。

静かなジャズが流れる店内は、コーヒーの匂いに包まれていた。

カウンターでは、マスターらしき人が豆を挽いている。

入店して早々、僕たちは顔を見合わせて微笑んだ。

ここは僕たちのお気に入りになりそうだ。

僕たちは丁度空いていた窓際の2人用の席に収まった。



「じゃあ…ブレンド」

「ダージリンのストレートください」


ちらりと見ると、じろりと見返された。

……本当に頼むんですね…?

確かに彼女は紅茶好きだから、別に何を咎める訳では無いけれど、やっぱり変わっている。

危うく頬が緩みそうになって、慌てて引き締めた。


「追加で、シフォンケーキ」


そんな僕には気づかずに、嬉々とオーダーを決める君。

その片頬にえくぼ。

…うん、絶好調だね。

店員がオーダーを確認して、引き上げて行った。


「よしっ、想太くん、今日何冊ある?」

「3冊あるよ」


カバンから文庫本3冊を取り出した。

今朝、最近買った単行本の続きをどこかで読もうかと入れかけたけれど、持ち運びに向かないその大きさに伸ばした手を引っ込めた。

適当に1冊貸して、と綺麗な右手が伸びてきた。

迷った末、書店のカバーが掛かってどの本なのかが分からないのを利用してランダムで選んだ。

このテキトー過ぎる選択に、彼女は少しおかしそうに笑ってから、ありがとうとハニかんだ。

かくして、僕たちの静かな読書タイムが始まった。

お互いの間にあるのは、黒いシックなテーブルと、途中で運ばれてきたコーヒーと紅茶、シフォンケーキ、静かなジャズに紛れて聞こえる雨音、そしてページをめくる音。

この独特な感覚が僕は大好きで、本に集中しているのに、意識の一部はこの距離を楽しんでいる。

水族館だとか、遊園地だとか、夢の国だとかは確かに楽しいけれど、それは夕雨がいるからで、僕にとって重要なのは隣に彼女がいることだから。

どこか気分が浮ついた場も、記念日も、滅多に来れない場所も、落ち着いた代わり映えのない空間も、彼女がいればそれだけで特別だから。


でも、そんなふわふわとした思考を冷ましたのは、どこか不安定な彼女の声だった。


「ごめん、想太くん」

「…どうしたの?」


謝りながら、先ほどまで読んでいた僕の本を返そうとする。

顔を覗きこめば、申し訳なさそうに眉をハの字にした彼女が目を泳がせていた。

じっと見つめれば、どこか表情も固く、前髪が微かに震えていることに気がついた。

今までにない出来事に、僕まで心に波紋が広がる。

僕も彼女も無類の読書好きで、ホラーや官能などは避けても、ミステリーや恋愛、スポ根、ライトノベル、ファンタジー、時には新書にも手を出す。

慌てて彼女に貸した本を確認すると、孤独なヒロインが、心優しい少年に出会って少しずつ人の温もりに触れていく、感動系の恋愛モノだった。

ホラーでも官能でもない、そもそも僕はどちらも買わないけれど……一体どうしたのだろう。


「どした、具合悪い?」

「ううん、大丈夫。他のも見せて」