幸福に触れたがる手(短編集)






 いや、支えられるかどうかじゃない。支えていきたいと、思えるか否か。

 まだ数日の付き合いだけれど、わたしはこのひとのおかげで、今までの人生で一番楽しい年末年始を過ごせた。

 だから、だから……。

「たまに出るよ、テレビ」

「……」

「新聞に名前が載ったりもする。それでも支えるって思えるか?」

 言われて、この数日間を改めて振り返った。
 たくさん笑って、話して、遊んで。娯楽がほとんどない場所でも楽しめるって教えてくれた。
 篠田さんは思っていることをストレートに伝えてくれて。それに習ってわたしも少しずつ、思っていることを話したり、行動できるようになった、気がする。
 まだまだ発展途上ではあるけれど、変われるきっかけを作ってくれたのは、紛れもなく篠田さんだ。


「……、……分かりました」

「なに?」

「それでもいいです。篠田さんがもし刑務所に入るくらい悪いことをしたとしても、支えていきたいって、今はそう思います。だから、一緒にいてください……!」

 篠田さんに詰め寄りながら言うと、彼はやっぱり呆れた顔で、でもようやくわたしの手を握ってくれた。

「お人好し過ぎていっそ清々しいな」

「はあ……」

「どうせそんな感じで元カレの浮気やドタキャンも許してたんだろ」

「許してたというか、わたしにも非はあったと思いますし。でも篠田さんも好きでもない女の子を抱いたりするんですよね」

「たまにな。それも許すのか?」

「良い気分はしませんが、仕事なんですよね……?」

「ああ」

「なら、仕方ないんじゃないでしょうか……」

 本当は嫌だけど。すごく嫌だけど。
 わたしの知らないところで、わたしの知らない女の子が、このひとと身体を寄せ合っているなんて。それを想像するとなんだかむしゃくしゃする。
 でも仕事じゃあ口出しはできない。……ていうか、女の子を抱く仕事ってなんだろう。ひとを殴ったり蹴ったりする仕事以上に想像できない。










 がくっと項垂れると、篠田さんはわたしの頬をつねって笑う。

「好きなのは、おまえだけだよ」

「……」

「抱きたいって思うのも、もっと知りたいって思うのも、おまえだけ」

「……ありがとうございます」

「だから拗ねんなって」

「拗ねさせてくださいよ。いま頭の中は、篠田さんに抱かれている数々の女の子のことでいっぱいなんですから……」


 まさかわたしが、こんな気持ちになるなんて思わなかった。
 周司のときは、ああ浮気したんだ、まあわたしも仕事が忙しくて連絡していなかったし、なんて納得していたのに。
 少しは変われているみたいだ。


「ほんと可愛いな」

「そんなこと言っても何も出ませんよ」

「おまえがいりゃあ充分だ。ああ、あとうまい飯とあったかい部屋と風呂」

「けっこうあるじゃないですか」

 くすくす笑うと、つねっていた頬を撫でて、ゆっくりとソファーに寝かされる。

 そういう雰囲気だった。さっき買ったばかりのコンドームがもう役に立ちそうだな、と思っていたら……。


「おまえの気持ちが分かったからネタばらしするけど、俺役者やってるんだ」

「……へ? んっ」

 告白と同時に唇を塞がれ、わたしは目をぱちくちさせながら彼の舌を受け入れた。

 おれやくしゃやってるんだ、って……。やくしゃは「役者」という変換でいいのだろうか……。

 役者? ひとを殴ったり蹴ったり斬ったり、新聞に名前が載る危ない仕事じゃなくて? 好きでもない女の子を抱く仕事じゃなく?

 …………あ! もしや演技でひとを殴ったり蹴ったり斬ったりして、新聞のテレビ欄やエンタメ欄に名前が載って、テレビに出て、ドラマや映画の中で好きでもない女の子を抱いてるってこと?
 間違ってはいないけれど! 騙されてはいないけれど! なんて紛らわしい説明なんだ!










 一仕事終えたあと、初めて篠田さんの部屋に招待された。

 落ち着いた色合いの家具が並ぶ大人っぽい部屋だったけれど、ソファーの上に洗濯物がたたまないまま置いてあって、生活感がある。
 かと思いきや、テーブルの上には台本らしき冊子があった。
 凝視していたら「今月から始まるドラマの台本」と説明される。……本当に役者なんだ。


 そりゃあイケメン、ていうか美人だし、スタイルも良いし、役者と言われれば納得できるけれど。
 途中まで危ない仕事をしているんだと勘違いして、刑務所に入ったとしてもとか何とか言っていたわたしが恥ずかしいじゃないか。


「元々は舞台に立ってたんだけど、最近ドラマや映画やバラエティーにも出してもらえるようになって。自惚れかもしれないけど、正直あの日おまえが駆け寄って来たとき、俺が役者だって知ってて声かけたんだと思ったよ。吐きそうになってる知らない男の背中擦りに来るなんて、普通しないだろ」

「……」

「でもそれならそれでいいやってくらい抱きたくなって。そのあと話してるうちに、テレビも映画も舞台も、雑誌すらろくに見ないやつだって知って。部屋ん中見回したらそれが本当だって分かったら、嬉しくてさ」

「……どうしてですか?」

「役者篠田亮太じゃなく、ただひとりの男として見てくれたからな。最近は役者が大前提で見られていたから、新鮮でいいなって思った」

 華やかな印象がある役者さんの世界でも、色々な苦労があるみたいだ。それもそうか。露出が増えると、自分を知っているひとも増える。どこへ行っても、役者篠田亮太として見られているのだ。
 まあ、わたしが役者さんに詳しかったとしても、街灯の灯りと背中だけで誰だか判断するのは難しいと思うけれど。


「俺がどんな仕事してても支えてくれるんだろ?」

「さ、支えたい、ですけど……」

「けど?」

「いいんですか? わたしで。わたし一般人ですよ? 役者さんの世界のことなんて、本当に何も知りませんよ?」

 言うと篠田さんはむっとして、わたしの頬を……。

「痛い! さっきと同じとこはやめてください! いたたたた!」

「おまえは役者の俺に惚れたのか? ただの俺に惚れたんだろ?」

「……はい」

「ならつべこべ言わずに惚れてろ」

「自信家ですねえ」

「自信なんてねえよ。いつおまえが、さっきの話はなかったことにー、とか言い出さないか不安になってる」

「言いませんよ、そんなこと」

「なら良かった」

「篠田さん」

「ああ」

「キスをします」

 頬にあった手を掴んで背伸びをしたら、篠田さんはふにゃっと笑って腰を折った。




 おまえといてもつまらない、張り合いがない、可愛げのないおまえとこの先ずっと一緒にいるメリットがない、と恋人に振られて一ヶ月。
 もう仕事を恋人にするしかない。しばらくはひとりでのんびりしよう、と思って半月。

 メリット云々じゃなく、心の底から支えたい、一緒にいたいと思えるひとに出会って、数日。

 元恋人に言われたこと全てを、すぐに直せるほどできた人間ではないけれど、このひとにはできるだけたくさんの感情を伝えたいなって。思うんだ。


 そうしてわたしの、人生で一番幸せなお正月休みが終わったのだった。








(了)

【幸福に触れたがる手】




 画面の中のキャラクターたちが殴ったり蹴ったり跳ねたり必殺技を出したりする度に聞こえる音と声。
 コントローラーのカチカチという操作音。
 愛猫にゃん五郎が構ってほしそうにあげるか細い鳴き声。

 もう小一時間、そればかりだ。

「……あの、碧ちゃんさあ」

「なんですか?」

「……楽しい?」

「楽しいですけど、楽しくないんですか?」

「いや、デートってもっとこうさ……美味しいもん食べに行ったり、娯楽施設に出かけたりするもんじゃないの、かな、なんて……」

 言うと彼女はげんなりした顔をして、コントローラーを置く。

「出不精の野上さんからそんな言葉が出るなんて思わなかったです」

「いや、ぼくは家にいてもいいんだけど、碧ちゃんはこれでいいのかなって……」


 せっかくのオフだった。付き合って初めてオフが重なって、じゃあデートでもしてみようかという流れになったのは昨日のこと。

 良い年頃の女の子だし、今までの経験上、やれショッピングモールだ、やれお洒落なカフェだ、やれ遊園地だ、と言い出すと思っていた。
 そのつもりでぼくも、ネットで「初デート 人気スポット」で検索をかけて、初デートに良い場所や心得を学んだりもした。

 が。蓋を開けてみれば「にゃん五郎に会いたい」と言ってぼくの部屋へ。

 ひとしきりにゃん五郎とじゃれた彼女は「このゲームしたいです」と言って、棚にあったゲームソフトを手に取った。それは少し前、舞台で共演した圭吾に「これ貰ったんだけど俺の部屋ゲーム機ないから」と言って渡された格闘ゲームだった。

 まさか彼女が数あるゲームの中から格闘ゲームをチョイスするとは思わなかったけれど、とりあえず始めてみた。
 彼女は不器用にコントローラーを持って、圭吾が声をあてたキャラクターを選んだ。

 結果がこれだ。








「わたしは何でもいいんですよ」

「部屋でごろごろでも?」

「はい。なんならお昼寝でも、掃除でも、洗車でも。台本チェックとかしてもらっても大丈夫ですよ」

「……それただの日常じゃん」

「違いますよ」

 よく意味が分からないけど……。首を傾げれば、彼女はにっこり笑って、ぼくの胸をトンと突く。

「野上さんと一緒なら、何をしようが楽しいんです」

「……」

 ぼくは彼女のことを、何にも分かっていなかったみたいだ。

 ぼくだって同じ。
 ぼくだって彼女と一緒なら、何をしていたって楽しくなると思う。

 にゃん五郎とじゃれている楽しそうな顔を見ているときも、隣に座ってただゲームをしているときも、幸せだった。


「にゃん五郎もそう思うよねー、ねー」

 ぎゅうと抱きしめられたにゃん五郎は、苦しそうな声を上げたけれど、この数時間ですっかり心を開いたようで、その表情は嬉しそうに見えた。


「ぼくも、碧ちゃんと一緒なら楽しいよ」

「ありがとうございます」


 彼女は照れくさそうに笑って、ごろんと床に寝転ぶ。
 ぼくも並んで寝転んで、愛猫に手を伸ばしたけれど、にゃん五郎はふいとそっぽを向いて、彼女の胸の上で身体を丸めた。
 数年間一緒に暮らしているぼくよりも、彼女を選んだみたいだ。フラれてしまった。

 それに気付いた彼女がこちらに手を伸ばしたから、ぼくはその小さな手を力いっぱい握った。



 もう少しこうしていたら、一緒にごはんを作ろう。
 彼女と一緒に食べるなら、きっといつも以上に美味しい。

 ああ。幸せだ。







(了)

【一秒ごとに奪われるね】





 圭吾くんあのね、ツイッターってリアルタイムでつぶやくものなんだよ。ブログはまあ日記だし、一、二ヶ月に一回書く程度でも仕方ないかなって思っていたけど。あなた全然つぶやかないじゃないですか。圭吾くんらしいかなとも思うけど、やっぱりツイッターの醍醐味ってリアルタイムでコミュニケーション取れることじゃない?


「よく言う。おまえだってもう何ヶ月もSNS上にいないくせに」

 わたしのベッドを占領してごろごろしていた圭吾くんは、正論を言った。

「わたしは仕事中に携帯触らないし」

「俺だって稽古中に携帯触らねぇよ」

「でも圭吾くん、仕事の合間とか移動中とかにつぶやけるじゃない」

「おまえ、そんなに俺が何してるか気になるの。今から便所とか、今便所出たとか、これが稽古場の便所だとか、これが劇場の便所だとかつぶやいてほしいの?」

「そういうんじゃなくて。ていうかなんで便所限定なの?」

 圭吾くんは眠たそうに寝返りを打って、ゆったりと息を吐く。わたしに背を向けたってことは、この話は終わり、寝かせろという解釈でいいはずだ。


 別に圭吾くんが普段どう過ごしているのか知りたいわけじゃないけど。
 なんていうのかな。仕事中たまに、圭吾くん今なにしてるかなぁとか思ったりするんだけど。お互いメールも電話も無精だし、役者さんだから生活も不規則だろうし、寝ているときに電話しちゃったら悪いなって思うと、無精に磨きがかかっちゃって。

 だからたまにつぶやいてくれたら、連絡するタイミングが掴めるかなぁって。

 ああ、つまりこれって、圭吾くんが普段どう過ごしているか知りたいってことか。
 束縛したいわけじゃないのに、結論が同じになっちゃう。どうしよう、言葉って難しい。


 わたしに背を向けたまま動かない圭吾くんは、てっきりもう寝ちゃったんだと思ったけど「まあ、そうだな」とぼそりと言った。起きていたみたいだ。

「なに?」

「明日からは、リアルタイムでやる、かもしれない」

「無理しないでね」

「かもだから」

「かもだね」

 ていうか圭吾くん、そこで寝たらわたしが寝る場所がなくなっちゃうじゃない。
 すごくナチュラルに毛布かぶって枕に顔埋めているけど、それ全部わたしのなんですけど。

「うるせえな、おまえも一緒に寝りゃあいいだろ。なんのために狭い部屋にセミダブルのベッド置いてるんだよ」

 それはシングルだと床におちそうでこわいからで、決して恋人と一緒に寝るためではない。が、確かに正論だった。

「圭吾くん細いっていうか薄いから、ふたりで寝ても余裕だね」

「薄いって言うな」

 もぞもぞとベッドに潜り込んで、圭吾くんの背中に自分の背中をくっつけたら、狭い、と言われた。これは理不尽だった。










 次の日、休憩中に携帯を開いて目を疑った。新着メールが三十六件。

 迷惑メールだと思って慌てて確認すると、どうやら違うみたいだ。いや、送信者は同じだったから、これもある意味迷惑メールなんだろうけど……。
 その送信者というのは、圭吾くん。

 三時間くらい前から、数分おきにメールが届いていて、その内容は「今から稽古」「道を歩いている」「今日は電車移動」「電車降りた」「稽古場まで徒歩十分」「歩いている」「稽古場ついた」「今から着替える」「今日の稽古着」「稽古着柳瀬と被った」……。そんな一言メールばかり。ご丁寧に、全て写真付き。稽古着が被ったという柳瀬さんの嫌そうな顔といったら……。

「……」

 ていうかこれをつぶやけよ! いや、月に一度くらいしかつぶやかない圭吾くんが、突然こんなリアルタイムでつぶやいたら、数千人いるフォロワーさんたちがびっくりしちゃうだろうけど!

 三十六件順番に開いていく最中、また圭吾くんから新着メール。
 今度は「香世ご所望の稽古場の便所」と。誰も所望してませんけど! トイレにこだわったのは圭吾くんでしょうが。

 休憩中なのにどっと疲れが出て、着信履歴から圭吾くんに発信する。
 メールが届いたばかりだから、きっと携帯の近くにいるはずだ。


 少しの間のあと「なんだよ」といつもの声。

「こっちの台詞なんですけど。なんなの、このメール」

「ああ? つぶやいてほしいって言ったの香世だろうが」

「メールでやれとは言ってない」

 圭吾くんとわたしの間に解釈の相違があったことは否めないが、あの圭吾くんが……ブログもツイッターも音沙汰なしの圭吾くんが、数時間で三十七回も今の状況を報告したのは、歴史的な大事件かもしれない。


「でもまあ、圭吾くんの私生活がちょっと知れて、嬉しかった、かも」

「かもじゃねぇだろ」

「かもだよ」

「素直じゃねぇかも」

 くっくっと笑う圭吾くんの声が耳に響いてくすぐったい。

 三十歳になっても相変わらず適当で自由な圭吾くんも、年相応に空気もひとの心も読めるから、実はわたしが寂しかったということに気付いているのかもしれない。

 本当はすごく会いたかったし、声も聞きたかったし、寂しかった。でも忙しいだろうなって、疲れているだろうなって、ひたすら空気を読むことに徹した。
 だからつぶやいてほしかった。

 結果的に、三十七件のメールと、電話もできたし。ちょっとじゃなくてすごく、すごーく嬉しかった。


「ああ、そうだ、香世。明日休みって言ってたよな」

「うん?」

「なら今晩うち来いよ」

「え、でも圭吾くん明日も稽古でしょ?」

「だからうち来いって」

「ん、うん?」

「十時過ぎくらいには帰る。呼ばれたから切るぞ」

「え、あ、はい」


 圭吾くんを呼ぶ柳瀬さんの声がした後、すぐに電話が切れて、ため息。いつも勝手なんだから。この前も「おまえ今日暇だよな。飯食い行こう、俺の実家に」って突然実家に連れて行かれたし。

 ため息をついたけれど、ふと気付けば頬が緩んでいて。

 そうなのだ、すごくすごーく楽しみなのだ。楽しみかも、じゃなくて、楽しみなのだ。
 今この瞬間も、一秒ごとに彼を好きになっているのだ。
 一秒ごとに、彼に奪われているのだ。









(了)

【シンコペーション】




 付き合い始めて初めてのクリスマスも、大晦日も、お正月すら会うことができず、せっかく誘ってもらっても仕事や先約があったり、意を決して誘ってみても今度はあちらに仕事や先約があって……。
 気付けばもう年をまたいで、二ヶ月会っていなかった。

 そんな話を学生時代の友人茉莉ちゃんにしたら、恋人の啓二くんと、買い物袋と大きな荷物を抱えて遊びに来てくれた。
 荷物の中身は雑貨や本や服。「千穂こういうの好きでしょ、あげるよ、使ってー」と言って茉莉ちゃんは平和に笑う、けど……。

「茉莉ちゃん、啓二くん。うちはリサイクルショップじゃないよ?」

 つい先週から同棲を始めたらしいふたりの荷物を、体よく押しつけられただけかもしれない。

「まあまあ。どれもまだ使えるし、捨てたりずっとしまっておくより良いじゃない」

 確かにそうかもしれない。食器も雑貨も新しいし、服はわたしの趣味に合わせてチョイスしてくれたようだし。有り難く使わせてもらおう。


「それにしても、クリスマスも大晦日も正月も会えないなんて。そんなに生活サイクルが違う相手と付き合ってんの?」啓二くんが呆れた声で言った。

「まあ生活サイクルは違うんだけどね」

「そんな人とどこで知り合ったの?」茉莉ちゃんは荷物の中から取り出したティーバッグセットを早速使うようで、キッチンに移動しながら問う。

「共通の友だちがいて」

「おお。よくあるやつだ」

「茉莉ちゃんと啓二くんだって、共通の友だちの紹介で知り合ったでしょうが」

「そうそう。だからよくあるやつだって」

 そのあとも茉莉ちゃんと啓二くんからの質問は続いて、年齢や身長や職業、芸能人に例えると誰に似ているか、を聞かれたけれど、彼――柳瀬さんが役者をしていることは話さなかった。
 長い付き合いの友人たち相手に曖昧なことを言うのは気が引けるけれど、前に会社でいとこの春くんが役者をしていることがばれて、ちょっとした騒ぎになったことがあった。だから申し訳ないけれど、もうしばらくは隠しておきたかった。


 ふたりはわたしの曖昧な返答に、顔を見合わせ苦笑する。

「でも生活サイクルが違うと、何ヶ月も会えないんだねえ」

「普通なら愛想つかして別れるパターンだよなあ。もしくは人肌恋しくて近場の相手で浮気するか」

「こら、啓二!」

 啓二くんの発言に、茉莉ちゃんが慌てて彼の口を押さえる。けど、はっきり聞こえた。浮気、と。

 柳瀬さんを疑うわけではないけれど、浮気されていたらどうしよう……。役者さんだし、周りに綺麗な女優さんも大勢いるだろうし……。

 思い返せば最近少し素っ気なかった。クリスマス近辺は元々仕事が立て込んでいるからと言われていたし、大晦日に「年越しそば食べに来ませんか」と電話したときも「無理。別の集まりに呼ばれてるから」とやけに不機嫌な声色で言われてしまったし……。


 すっかり重くなってしまった空気を変えるよう、茉莉ちゃんが傍らに置いていた買い物袋を持ち上げ、明るい声を出した。

「餃子作ろう!」










 キッチンに並んで立って、ひたすら餡を皮で包んだ。

 気分を紛らしたいときは無心で料理を作るのが一番、というのが、茉莉ちゃんの持論だった。

 だからこそ、無心で作業することができる餃子。学生時代から、むしゃくしゃしたり落ち込んだりすると、よくみんなで餃子を作った。
 無心で作った大量の餃子を食べながら、みんなで楽しくおしゃべりする。そのあとぐっすり寝るだけで、悩みなんてすぐに忘れてしまっていた。


 他愛のない雑談をして、大皿二枚を餃子で山盛りにした頃。チャイムが鳴ったから、リビングで寛いでいた啓二くんに出てくれるよう頼んだ。
 啓二くんは「勧誘ならびしっと断ってやるよ」と軽快に玄関に向かう。

「勧誘が来たとき、家に男の人がいるといいね」

「ほんとそう思う。この間すごく粘る勧誘が来たとき、ちょうど帰って来た啓二がうちの嫁さんに何か用? ってね」

「惚気惚気」

 平和な雑談はここまで。
 玄関の方から「うわっ!」という啓二くんの情けない悲鳴が聞こえたから「平気平気」と平和な声で言う茉莉ちゃんをキッチンに残したまま、包みかけの餃子を持ってそちらに向かう、と。

 啓二くんが胸倉を掴まれていた。
 掴んでいるのは、背の高い男性。髪をオールバックにして、黒いスーツ姿。夜だというのにサングラスをかけている。一見すると、柄の悪い、危ない仕事をしている人だ。

「け、啓二くん……!」

 わたしの声に、啓二くんは胸倉を掴まれたまま「ひらさわぁぁ」と情けない声を出した。

 でもなぜほんの一分でこんな状況になっているのだ。全く意味が分からない。

「おい千穂! 誰だよこいつ! お前浮気してやがったのか?」

 啓二くんの胸倉を掴んでいた、柄の悪い男性――柳瀬さんは、さすがは役者さんというドスのきいた声で言った。

 この騒ぎにさすがの茉莉ちゃんも駆けつけ「あんた何やってんの!」と、手にした餃子を柳瀬さんに投げつけた。
 柳瀬さんは啓二くんの胸倉を右手で掴んだまま、左手で上手に餃子をキャッチした。

「あの、とりあえずみんな落ち着いて! 説明しますから、柳瀬さんも手を離して中入ってください!」

 言うと柳瀬さんは不機嫌な顔のまま、啓二くんの服をぱっと離した。
 ようやく解放された啓二くんは、完全に危ない人を見るような怯えた顔をしていた。