驚いたように、君は俺を見上げる。

焦る。話なんて、もうないのに。



『やっぱりこの傘、持って帰りなよ。明日の朝、また降るかもしれないし。』


くだらない。こんなネタで繋ぎ止めようとする自分に、ますます焦る。


『明日も今日くらい降ったら、折りたたみ傘なんかじゃ防げないよ。』


君の表情が、驚きから怪訝に変わる。
そりゃそうだよな。引き止めておいて、そんなことどうでもいいわって感じだよな。


情け無い俺は。痛いほどそう分かっていても、今更引けなくて。


『だから、この傘は持って帰っ、』

「あの。」


タクシーから伸びてきた手が、俺が差し出す傘を押し返す。


前髪は、耳朶にキチンと収まっていた。
おかげで、何にも邪魔されずに目元が見えた。必要以上の装飾がない、誰にも不快感を与えない。




「明日も雨です。今朝の予報で、今週はずっと雨だって言ってました。」


とても、綺麗な目元だと思った。


『・・・それならやっぱり、』


どこからかクラクションが聞こえた。
それでも目が離せなかった。
矢島の言っていた、「吸い込まれる」という言葉を思い出した。





「だからこそ持って帰ってください。」

『は?』

「だから、岩田さんが持って帰って。」







出しますよ、と。
運転手の苛立った声が聞こえた。


「ごめんなさい、待ち合わせしてるんです。」


失礼します、という君の声は閉まるドアに塞がれて最後まで聞こえなかった。
あっさりと走り出したタクシーを見送りながら。
俺は、突きつけられた難問の回答にただ立ち竦む。



“良かったらこれ。”

“もう一本、あるんです。”

“明日も雨です。”



頬が燃える。



“だから、岩田さんが持って帰って。”








もうずっと遥か向こう、君を乗せた赤い光が見えなくなっても、この場を動けない。

問題は、その相手が俺だったってこと。
下世話な話、彼女にとって俺が全くの対象外であることは明白で。
そんな俺に対しても、彼女が“そうであった”ということ。


当たり前に、自分よりも人を思い遣る。
それが例え、赤の他人であったとしても。




彼女は、可愛いんじゃなくて。
綺麗なんじゃなくて。

美しい、んだ。






彼女の一番美しい部分を目の当たりにしてしまって。





やられた。

意識が君に墜落していく。









容姿とか薄っぺらな相性とか、そういうものだけが尺度だった世界が。

君を知って色を変えた。




可愛い、綺麗は何回となく味わってきたけれど。
人に美しさを感じたことはこれが初めてだった。



それから、君は知れば知るほど美しかった。


こんな風に人を好きになる事なんてなかった。

その分、どの君も消えずに深く刻まれていく。