矢島の言葉を思い出す。萩原さんは、矢島と同じ“中目黒”だと言った。
東横線か、日比谷線か。
もしも東横なら、駅の先もまだ一緒だ。
そんな事をグルグル考えている自分が情け無い。
「岩田さん。」
ふと見やった隣に、彼女がいない。
振り向くと、二三歩離れた後ろにいた。
「私、ここで失礼します。」
『ああ、うん。』
なんで?
そう、思わず口を出そうになったのを堪えた。
「あの、良かったらこれ。」
小走りに寄って来て手にしていたビニール傘を差し出す。
『いや、いいよ。もう降ってないし。それに萩原さんのがなくなるじゃん。』
「もう一本、あるんです。折りたたみ傘持ってる。」
小さな鞄を持ち上げて見せる。
『そっか・・・ってあれ?じゃあいま二本持ってたってこと?』
なんで?
だけど返事はなくて、ただ真っ直ぐ差し出されたので。イマイチ腑に落ちないまま、黒い柄のビニール傘を受け取った。
「じゃあ、遅くまでお疲れ様でした。」
頭を下げたら、また前髪がバラついた。左手で抑えて、やって来るタクシーにそのまま手を上げる。
何か言おうと。
そう思っているのに、言葉が出て来ない。
着々と立ち去る行程を進める彼女を、呼び止める事が出来ない。
手の中に、傘の感触。
意味が分からない。折りたたみ傘を持ってるというのに、なんでこのビニール傘?
この通り、普段はなかなかタクシーが捕まらないはずなのに。どうして今日に限って、こんなにあっさり止まってしまうのか。
夜の景色が君を連れて行く。
開いたドアに半分ほど体を隠して。
「また明日。」
そう、君が僅かに首を傾げた時。
反射的に、“嫌だ”と浮かんで。
帰したくないと。
まだ君の隣を歩いていたかった自分に気付く。
なんで?
理由なんて分からない。
だけど追わないと、君はこの夜に連れて行かれる。
『萩原さん。』
思わず、閉まりかけたタクシーのドアを掴んで止めた。