一階のエントランスを出たところで、プライベート携帯が鳴った。
取るつもりはなかったけれど、目が合った彼女が「どうぞ」と身振りを返すので。
久しぶりの家族からの着信に、曖昧な反応を返して電話を切った。
雨は止んでいた。紫色の湿度が首筋を通り抜ける。
初夏より手前の夜風が心地良い。こんな夜なのに、隣人に話しかけるネタがない。
勿体無い気がして、妙に焦る。
会話の出だしを見つけられないまま、駅を目指して信号待ちで並ぶ。彼女がふと、口を開いた。
「関西出身ですか?」
『え?』
「さっきの、関西弁ですか?」
ああ・・・さっきの、兄貴との会話か。
『そうだよ、京都。』
「そうなんですね・・・知りませんでした。普段全然関西弁出ないから。」
『そう?時々、今訛ったなぁって思うけど。』
“普段全然出ないから”
俺の普段をよく知ったような口ぶりに、思わず跳ねた心を抑えつける。
自惚れるな。
自惚れるな?
萩原さんの出身はどこ?
そう聞いてしまえばよかったのに、おかげでタイミングを逃した。
「全然訛ってないですよ。実家に帰ったら、関西弁で話すんですか?」
『うん。地元ではバリバリ関西弁だね。』
「面白い関西弁も、話しますか?」
オモシロイ?
聞き間違いかと思って目をやると、どこか期待に満ちた瞳だったので。
何のことだろ?首を傾げかけたところで、信号が変わった。
『面白いって何?』
「関西弁って、時々面白いのあるじゃないですか。」
『いや、全然分かんないんだけど。何?』
アスファルトの窪みに、大きな水溜り。彼女のヒールの足元の方が気になった。
「ほら、例えば・・・」
『例えば?』
「・・・ワテ、とか。」
『言うかっ!笑』
思わず、突っ込んでしまった。
素に引き戻された。
それはもう、恐ろしく自然な吸引力で。
まずい、口調強かったかも。
つい、友達と話すような勢いで言葉を吐いてしまった。
萩原さんとはそんな仲じゃないのに。
そっと彼女の表情に目線をやって___________
撃ち、抜かれた。
指先で口元を隠すようにして。
あまりにも綺麗に、笑っていたから。
慌てて目をそらす。
まずい。
なんだこれ。
萩原さんって、こんなに綺麗だったっけ。
俺はこんなにこの人から。
目が離せなかったっけ。
彼女の笑い声が消えても、鈴のような余韻が変わらず鼓膜を痺れさせた。
そこから先は、もう何も言葉が出てこなかった。彼女も、笑い済んだら他に何も言わなくて。
無言で、次の信号待ちが明ければ歩き出す。
俺は、周りの喧騒に意識的に耳を傾けながら。時折風に乗る、花のような香りが彼女だと気づいてしまわないように。
ただ、視線の先に駅を探した。