ベターハーフ(短編集)



【だって嬉しくて、】





 これはまずい。物凄くまずい。
 どのくらいまずいのかと言うと……ちょっとすぐには良い例えが見つからないけれど、とにかくまずい。

 仕事帰りに大ちゃんの部屋に行って夕飯を作っていたら「トイレットペーパー切れてたの忘れてた、買って来る!」と、部屋の主が慌てて飛び出して行った。
 でも大ちゃんが帰って来る前に夕飯の支度が終わってしまって、手持ち無沙汰なわたしは、リビングに脱ぎっぱなしになっていた彼の服を手に取った。
 シャツと靴下は洗濯機。スーツやネクタイはちゃんとハンガーにかけておかないと皺になってしまう。営業であちこち歩き回る彼の服がしわしわだったら、取引先の人に悪印象を与えてしまうかもしれない。

 ちょっと寝室に失礼して、ハンガーを探してクローゼットを開けた、ところで、今世紀最大のまずさを味わうことになってしまった。

 クローゼットの中、右半分にはスーツや服がかけてあり、左半分には収納ボックスや空き箱がいくつか重ねられている。その収納ボックスの上には、明らかに指に付けるアクセサリーが入っているであろう小箱と、明らかに役所からもらってきたであろう書類、そして付箋だらけの結婚情報誌……。

 結婚情報誌なんて、誰と結婚するつもりでこんなにチェック入れてるのよ! なんて冗談も言えないくらい、明らかに明らかな状況。明らかに明らかな、やっちまった感。

 大ちゃんは……大ちゃんは……、プロポーズしようとしているのだ。
 他でもない、わたしに……。


 付き合って三年。結婚を意識していなかったといえば嘘になる。
 ただ、今のこの状況が状況だけに、どうしていいのか分からない。

 とりあえずクローゼットを閉めて、見なかったことにした。

 ハンガーは諦め、スーツと共にリビングに戻ってソファーに沈む。






 どうしよう。急用ができたことにして帰ってしまおうか。いやいや、急な呼び出しも急な出張もない部署に勤めているわたしに、どんな急用があるというのだ。親や兄弟を急病にしたてあげたとしても、わたしの父や兄とは飲み友達、母とはメル友という大ちゃんには、すぐバレてしまうだろう。わたしの友人もしかり。

 むしろ、気まずいからという理由だけで、大ちゃんに嘘を吐きたくはない。

 それなら大人しく、何も見なかったことにして、大ちゃんからのプロポーズを待つしかない。

 ただしここでもひとつ問題が。
 この緩む頬を、隠し通す自信がない。


 自然に上がる口角を揉み解し、深く息を吐く。

 彼はいつ、どんな風に、どんな顔で、どんな声で切り出すのだろう。何と言ってくれるのだろう。
 きっと素直な大ちゃんのことだから、飾らない、ストレートな言葉だろう。

 夜景が綺麗に見えるレストランで、なんて。慣れないことを考えてはいないだろうか。無理なサプライズを計画していないだろうか。

 そんなことを考える度、揉み解した口角がまた上がっていく。
 いけない。こんなことじゃあ、大ちゃんの計画を無駄にしてしまう。

 でも……。


 だって……、だって嬉しくて仕方がない……!
 大ちゃんの顔見たら絶対、いつプロポーズされるのかなあってどきどきしちゃうもの! にやにやしちゃうもの! ていうか今すでにしてるもの! だって嬉しいじゃない! 大ちゃんが密かにそんな計画を立てているなんて! こっそり指輪買って、こっそり役所で書類もらってきて、こっそり結婚情報誌で情報収集してるなんて! 可愛くて愛しくて、ますます好きになっちゃうもの!



 少しして、トイレットペーパー片手に帰って来た大ちゃんは、わたしの顔を見て「何か良いことあった?」と首を傾げた。
 わたしはもう一度緩む口角を揉み解し「そそそんなことよりご飯食べよう」と、激しくどもりながら立ち上がった。

 こんなんじゃ、ばれるのは時間の問題。今はただ、一刻も早く大ちゃんが計画を実行に移してくれるのを待つばかり。






(了)


【単純なこと】





 同棲を始めて三年目。
 ふたりで居ることにも慣れ、そこに居ることが当たり前になってきて、最近は若干のマンネリを感じ始めてきた。

 最初の頃はお互い気を遣って、部屋着としては上等過ぎる服を着てみたり、手持ち無沙汰でひたすらカーペットにコロコロかけてみたり。彼女も毎朝早起きして俺の弁当を作って、朝も夜もレシピ本片手にあれこれ作って。

 だけど最近、部屋着はだるんだるんだし、コロコロはおろか掃除機すらかけていなくて、弁当も週に一、二度になって、飯のメニューも変わり映えしなくなっていた。


 そろそろ、関係を変えてみてもいい頃かもしれない。
 結婚するか、マンネリを解消するため一旦離れてみるか。最悪全て終わりにするか。

 でも、どういう結論を出すにしろ、決め手がない。


 そんなとき、ポケットの中の携帯が震えた。メールだ。
 差出人は彼女。メールの内容は『歯向かってきて』。


 それを見てふっと噴き出したあと、なぜだか急に気持ちがそっちに向いた。彼女と結婚しようと思った。


 そりゃあマンネリは感じている。彼女だって同じだと思う。付き合う前はメール一通に時間をかけて内容を確認していたのに、今じゃこの体たらく。絶対確認しないで送信したのだろうと想像がつく。

 もう一度ふっと笑って、歩き出した。
 早く帰って、そっちに向いたこの気持ちを伝えなければ。

 きっかけはとても単純なことなんだ。
 例えばきみが言いたいことがすぐに解ったり、きみの姿を簡単に想像できたり。きみが出す暗号なら、どんな難解なものでもすぐ解る自信があるから、俺はこの気持ちを全て、きみに伝えたい。

 とりあえずはスーパーに寄って、ハムを買ってから。そしたら、きみが送信した間抜けな変換ミスを、笑い話にしよう。







(了)

【アンロマンチスト】





 仕事帰りに京平の部屋に行って、まだ帰宅しない部屋の主の帰りを待ちながら、ソファーでごろごろする。

 京平の部屋のソファーは座り心地も寝心地も良い。
 リサイクルショップで、びっくりするほど安価で買ってきたらしい。良い買い物してるね、と言ったら「あはー」と平和に笑っていた。

 そんな座り心地も寝心地も良いソファーで横になると、仕事の疲れも相まってすぐに眠ってしまうわけで。あっという間に夢の中。

 夢の中で京平はオムライスを食べていた。それはもう美味しそうに、ぱくぱくと。彼はいつも、わたしが作った料理を美味しそうに食べてくれる。それが嬉しくて、わたしは彼のためにレパートリーを増やす。
 そういえばオムライスはしばらく作っていなかった。よし、今日はオムライスに決定だ。


 そんな夢の最中、ひや、と額に冷たいものが置かれて、現実世界に帰って来た。

 目を開けると、目の前に京平。今度は本物だ。

「おはよー」

「……京平さん、これ、退けてもらっていい?」

「飲みかけだから落とさないでね」

「ふざけるな」

 わたしの額に乗せられたのは缶コーヒー。しかも京平の飲みかけらしい。今はちゃんとバランスを取れているけれど、少しでも動いたらわたしの顔とこのソファーはコーヒーまみれになってしまう。

「……京平、あんた夕飯抜きにするよ」

「あはーそれは困る」

 へらっと平和に笑った京平は素直に缶を退けて、わたしを抱き起してくれた。






「俺お腹空いたよ」

「はいはい、今作るよ」

「オムライス食べたい」

 おや。デジャヴ。
 夢と現実、両方でリクエストされたオムライスを作って、「お腹と背中がくっつくー」と駄々をこねたから、スープはインスタントで我慢してもらって、ふたり揃って食卓につく。

 いつも通り京平は、美味しそうにぱくぱくとオムライスを口に運ぶ。

 今日はこんなことがあったよー、なんて他愛のない雑談をしながら、いつも通りの夕食風景。

 ただひとつ、いつもと違っていたのは……。


 ふ、と。京平が手を止めて、思い出したようにポケットを漁る。

 そして何かを取り出して、ぶっきらぼうにテーブルの上に置いたのだった。

「これあげる」

「……は?」

 それは、きらきら光る宝石がついた、指輪。見るからに高そうな指輪だった。

 え、なにこれ。なんなの、急に。こういうものって上等な箱に入っているものじゃないの? 普通にポケットから出てきましたけど。どうしてポケットにそのまま入っているの?

 困惑しながら京平と指輪を交互に見て、首を傾げる。


「あの、京平さん、これは……」

「指輪だけど」

 京平はいつも通り、平和な笑顔。

「指輪、ですね……」

「結婚しようか」

「……は?」

「結婚しよう」

 もう一度にっこり平和に笑うと、京平はまたオムライスをぱくぱくと口に運ぶ。


 あれ、もしかして今「結婚しよう」って言った? ならこれは、婚約指輪?
 ていうか、プロポーズ? 世に言うプロポーズって、なんかもっとこう……ロマンチックな、真剣で深刻で神聖な雰囲気のものじゃないの?


「あれ、もしかしてノーだった?」

 再び手を止め、きょとんとした顔で京平が言う。
 なんという自信家。こんなに突然のプロポーズでも、失敗するはずがないと思っていたのか。いや、自信家というより楽天家なのかもしれない。何よりこんな軽いプロポーズが、京平らしい、と思ってしまった。

 これが、わたしの恋人。これが、わたしが好きになった京平だ。


「結婚、しよっか」

 そう言って左手を差し出すと、京平は置かれた指輪をわたしの指にはめる。いつの間に調べたのか、サイズはぴったりだった。
 そしてふたり同時に、食事を再開した。

 プロポーズも、こんな平和な雰囲気も、京平らしくて、わたしたちらしい。
 それはきっと、「恋人」から「夫婦」へと肩書きを変えても、変わらないだろう。









「ねえ、今日からうちに住みなよ」

 夕飯の後片付けを終える頃、京平がそんなことを言った。

「実は布団一組買ってあるんだー。ピンク色のやつ」

「わざわざ買わなくてもいいのに」

「だっていつも同じ布団狭いって言ってたから」

 確かにシングルサイズの布団にふたりで入るのはちょっと狭い。だから京平の部屋に泊まるとき、わたしは夜中にこっそり布団を抜け出して、ソファーで寝ていた。
 なんならこれから先もソファーで良いくらいだ。なんたって寝心地が良い。

 それを言うと、京平はきょとんとして首を傾げ、……。

「でもあのソファーには先客がいるし」

「……え?」

「あれ? 見えないの? そこのソファーに座ってる、パジャマを着た男の子」

「……」

 結婚に、一抹の不安がよぎった。
 そして決めた。二度とあのソファーでは寝ない。一緒に住むならもっと広い部屋に引っ越して、家具を一新する。リサイクルショップにびっくりするくらい安価で売っているものには手を出さない、と。

 もしかしてこの指輪もリサイクルショップで見つけたものじゃないかと疑ったけれど、本人曰く「違うよー、給料三ヶ月分だよー」とのことらしいから、それは信じておこうと思った。








(了)

【目を開きながら見た夢】





「ねえ、聞いてる?」

 彼が怪訝な顔でわたしの顔を覗き込んで、はっとした。

「ああ、ごめん。寝てた」

「いや起きてたでしょ。目ぇ開いてたじゃん」

「ううん。夢見てた」

 目を開けたままだとしても、これは夢なんだ。夢に違いない。現実のはずがない。だって……。


「どんな夢?」

「プロポーズ、される夢」

 言うと彼は表情を崩して笑って、こう言った。

「それ夢じゃない。オレ今プロポーズした」

「……へ?」

 現実のはずがないのだ。
 だってこんな、わたしの部屋のリビングで、いつも通り夕飯を食べにやって来た彼が、永遠の言葉を囁くわけないもの。

「結婚してください」

 一人暮らしを始めた頃から何年も使っている円卓に、きらきら光る宝石がついた指輪が置かれるわけないもの……。

「……」

「い、いででででで……!」

 夢じゃないかと疑って、試しに彼の頬を引っ張ってみたら、尋常じゃないくらい痛がったから、どうやらちゃんと現実らしい。

「……もう一回、言って?」

 頬を擦りながら彼は笑う。笑いながらもう一度、本日三回目の言葉を囁く。

「結婚、してください」

「……はい」


 夢じゃなくて良かった。ちゃんと現実で良かった。

 三度のプロポーズに応えるよう「はい、はい……」と頷いて、思いっきり引っ張ってしまった彼の頬に手を伸ばした。

 彼はその手を取って、わたしの指に、テーブルに置かれていたそれをはめたのだった。
 きらきらした宝石が光るその指輪は、ひんやり冷たくて、なぜだかとても重い。

 その冷たさも、重さも、喜びすらも、すべてすべて現実だった。








(了)

【初恋は色鮮やかに輝く】





 ソファーで仰向けに寝転んで、左の手のひらをかざす。

 母指球にうっすらと見える黒い点。これは十五年前、わたしが確かに初恋をしたという証。これを見ると、いつでも初恋を思い出すことができる。


 元々は大嫌いなクラスメイト。髪を引っ張られたり教科書に落書きをされたり名前を馬鹿にされたり……。
 些細な嫌がらせだったけれど、それでも嫌いになるには充分だった。同じクラスになってたった数ヶ月で、もう顔も見たくないくらい、修復不可能なくらい最悪の関係になったのに。ある日、事件が起こった。


 その日は買ってもらったばかりのふで箱を持って行っていた。友だちはみんな羨ましがって、わたしも気分が良くなっていたというのに。いつものようにあいつがやってきて、いつものように馬鹿にしたのだ。

 いつもは聞き流せるのに、その日ばかりはやたらと腹が立って、やつの頬に平手打ちをした。そしたらやつも激怒して大乱闘。突き飛ばされた拍子にふで箱が落ち、散らばった鉛筆の上に倒れたら、左手に激痛が走った。
 削ったばかりの鉛筆の芯が突き刺さっていた。


 騒然とする教室で、痛みに耐えながらやつを見上げた瞬間、はっとした。
 いつも嫌味っぽい笑みを浮かべていたのに、今は違う。悲しそうな、苦しそうな、切なそうな、変な顔をしていた。
 不思議なくらい目が離せなくなって、ああこんな顔もできるんだ、と思ったら、急にやつを好きになった。


 痛い思いをした結果初めての恋をするなんて。当時のわたしはマゾヒストだったのかもしれない。







「また手のひら見てんのか」

 掲げた左手越しに、呆れた表情の男が見えてふっと笑う。

「いいじゃない。大事な初恋なんだからたまには思い出したって」

「俺が嫌なんだよ」

「別に槙村の迷惑にならないでしょ」

「ちょっと目ぇ離すと左手見て十五年も前のこと考えてるなんて。今の恋人に失礼だと思わんのかおまえは」

「はいはい。十五年も前のことを思い出していても、わたしは槙村一筋だから心配しなくていいよー」

「棒読みやめろ、ハラマキ女」

「ちょっと、ハラマキって言うのやめてよ。原真希、はら、まき。恋人の名前を馬鹿にして、失礼だと思わんのかきみは」


 あれから十五年。
 手のひらに鉛筆の芯は残っていないけれど、色はしっかり残っている。これがある限りわたしはあの初恋を忘れないし、むしろ十五年も思い出し続けていたのだから、きっともう一生忘れないだろう。

 槙村は嫌そうな顔でため息をついて、掲げたままだったわたしの左手を乱暴に掴む。何事かと思ったら、ポケットからおもむろに何かを取り出し、それを無理矢理左手の薬指に押し付けた。確認するまでもなく、指輪だった。

「もう初恋なんて忘れて、結婚するぞ」

 ムードの欠片もないプロポーズだった。槙村らしいと言えばらしいし、この人がもし街の夜景を見渡せるレストランでプロポーズしようものなら、わたしがムードをぶち壊して爆笑してしまうだろう。

 でもさすがの槙村も照れているのか、頬を赤く染めて口を尖らせている。普段は涼しい顔で余裕ぶって、やたらと暴言を吐いてくるくせに。この人のレアな表情をずっと見ていられるわたしは、すごく幸せなのかもしれない。

 いつの間に用意したのか、薬指にぴったりはまった指輪に目をやり、ふっと息を吐いた。