「それにしても洲くん、まさかバンドデビューで東京に行っちゃうなんてねぇ」

お母さんは感嘆のため息を漏らしながらそう言って、あたしについだばかりのご飯を手渡す。

お茶碗から手のひらへ、じんわり伝わる温かさ。

まさかですよね、と洲はよそ行きの笑顔で笑った。

「…日にち、決まったの?」

「うん。23日の朝、出発する」


ほっぺたの中に含んだ唐揚げの塩辛さが、じわぁっと舌の奥に染み込む。


…そうだ。洲はもう1ヶ月少しで東京に行ってしまうのだ。

ほんの2ヶ月前まではあたしも生きていた場所なのに、どうしてかずいぶん遠い場所な気がしてならなかった。


もう二度と、会うことができないような…手の届かない、遠い場所。



晩御飯を食べ終えた頃には、時計の針は8時を回っていた。

垂れ流しになったままのテレビの音が、耳元を通り過ぎていく。


「洲、今日バンド練習だったの?」

「いや?違うけど…なんで?」

「ううん、サックス持ってきてるから」


洲の足元に重みをたたえる黒い箱。

それはまるで飼い主に従順な犬のようにそっと洲に寄り添っている。


「ああ、これからストリートやりにいこうと思って」

「…夜もやってたんだ」

「お前に見られた時、そういや昼間だったもんな」


洲は立ち上がると、よっとサックスのケースを肩にかけた。あたしも帰ってきてそのままだった制服を着替えようと席を立つ。


リビングのドアに向かうと、制服のスカートの裾がクン、とイスに引っ張られた。

…まるで、まだここにいたいとだだをこねてるみたいだ。


「お前も来ねぇ?」


背中に投げかけられた言葉。間抜けな顔をして振り向くと、洲はニッと口元を歪めた。

茶色い髪は、電球の穏やかな黄色い光に溶け込むように輝いている。


「…へ?」

「バイオリン、弾けばいいじゃん」