お前が呼んだくせに、と洲は苦笑いを浮かべてあたしの隣に並ぶ。

背中をツウ、と汗が伝う。湿気を閉じ込めたみたいに蒸し暑い。空の雲は、どんよりとした灰色だった。


「なんで来たの…?電話した時、もうすぐ明日のライブのリハーサル始まるって言ってたじゃん…」

「…お前から呼び出すとか、なんかあったんじゃねぇかって思ったんだよ」


茶色い頭をくしゃくしゃと掻き混ぜるようにして洲が言う。
そしてしゃがみこむと、そっとあたしの顔を覗き込んだ。


…泣きそうだった。少しでも気を抜いたら、涙がこぼれてしまいそうだった。

ぎゅっと拳を握りしめ、手のひらに爪を立てる。


「別に…たいしたことじゃないよ。ライブのリハーサルって大事なんでしょ?戻りなよ。あたし、ただ洲がヒマならって思って…」

「…桃」

「そうそう、あと洲には悪いけどさ!"桜の園"のこと、ライブハウスの件、やっぱりキャンセルしてほしいんだ」


洲の目が大きく見開かれる。その中であたしが、グラグラと不安定に揺れる。
転がった缶から残りのコーヒーがこぼれて、足元は黒い海になっていた。


「…諦めるのか?」


低い声が、あたしの肩に落ちた。手のひらがジンジンと痛む。血の滲む、そういう痛みだった。


「…ん〜、諦めるっていうか…興味なくなっちゃった。だいたい、話も面白くないでしょ。100年前の話、しかもロシアの。なんかみんなが勝手に盛り上がっちゃっただけで…それなのに誰も本気でお芝居しようと思ってなくてさぁ」


ペラペラと、思ってもないことが口から滑り落ちる。あたしはいつから、こんなに簡単に嘘が並べられるようになったんだろう。

演劇の稽古で違う人物になりきるうちに、本当の自分を隠す術を身につけてしまったのならとても皮肉なことだな、と思った。


なんとも思っていないような表情を貼り付けて。その奥では情けなくて泣きそうなのに。


「…あのなぁ…お前はなんでいっつもそう強がるかな」


洲はため息をついて、しゃがんだままあたしを見上げた。握りしめたあたしの手をそっと包む。


洲の手のひらの温かさが伝わったその途端…強く握っていた力が緩んで、涙がこぼれた。



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