探しても探しても見つけられない苛立ちを逃がそうと窓の外に視線をやった時、外階段の踊り場に、一瞬影が見えた。
すぐに隠れてしまったけど、確信があった。──真田だ。
「……っ」
すぐに行かなくちゃいけない気がして、脳が走れと命令するよりも先に、地面を蹴って駆け出す。
外階段へと繋がる扉は常に開いている。
なんで真冬に開けっ放しなんだ、といつもは苦く思ってるけど、今回に限ってはまどろっこしくなくていい。
廊下の先に扉が見え、外気に肌を晒そうとした──ところで、全開だったアクセルにブレーキをかけた。
全身の血管が跳ねた。それくらいの衝撃だった。
だって、思いもよらなかったんだ。
気丈で、ちょっとだけ意地悪で、私なんかよりもずっと大人っぽくて、頼もしい。
そんな真田が──
「っうぁ……ぁっ」
声を上げて泣いてる、なんて。
「……っ」
氷のように冷たく強い風が、びゅうっと校舎内に吹き込む。
その冷たさにはっとして、慌てて気配を殺し陰に隠れた。
声を押し殺そうとして、それでも漏れ出る嗚咽を堪え切れない真田にかける言葉を、巧く探し当てることが出来なかったから。
この状況になって、ようやく悟る。
『すげぇじゃん、真田。俺が高校生の時、この範囲欠点ギリギリだったぞ』
『部活ばっかりしてるからだよ。──』
人気者のサトタツだけど、高校時代、何部に所属していて何に打ち込んでいたかは知れ渡っていない。
だけどテスト返しの時、全てを知っているような口ぶりだった真田。
それは、知れ渡っていない情報を知り得る時間が、ふたりの間にあったということ。
答案用紙に書かれていた少し乱雑なメッセージを手に、真田が頬を赤らめていた意味。
今こうして真田が肩を震わせ、寒空の下で頬を濡らす意味。
バラバラに散らばっていたパズルのピースが、1つずつ、確実に嵌っていく。
どうして……どうして、こんな状況になるまで気付けなかったんだろう。
「……っうぅ」
最後のピースがカチリと音を立てて嵌った。
サトタツが真田を好きだったんじゃない。
──真田が、サトタツを好きだったんだ。
生徒と教師という垣根を超えて、手の届かない存在になろうとしている相手を想ってこんなにもボロボロになってしまうまで。
「……っ」
好きという感情がなんたるかさえ知らない私が、一体真田にどんな言葉をかけてあげられるというのだろう。
私が待つ全ての語彙をかき集めてどんな言葉を並べてみても、中身がないことは歴然だろうに。
私には何も出来ない。
その無力さが悔しくて、だけど私が泣くのはずるいと思って、溢れ出そうになる涙を、唇を噛んで必死に堪えた。
サトタツの結婚報道は事実だった。
様々な憶測が飛び交った2日間の休みが明けた、最初の授業。
1時間目の始まりを報せるチャイムが鳴ったタイミングでいつものように姿を見せた彼は、教室に立ち入るなり男子からのド直球の質問を受け、それを認めたのだ。
「ったく……お前ら、どっから聞きつけたんだよ」
首に手をやり、困った様子で息を吐くサトタツだけど、どこかすっきりとした表情のように見える。
「相手誰? うちの学校の人?」
「入籍いつなのー?」
「お前らどうせ騒ぐから教えねぇ」
囃し立てるクラスメートの声を聞きながら、私の頭は真田のことでいっぱいだった。
授業が始まる直前、ホームルームを終えて職員室に戻ろうとした先生を捕まえ、体調不良を訴えた彼女が保健室から戻ってくる気配は一向にない。
2日前、教室に戻ってきてからの真田にいつもの覇気は見られず、当たり障りのない言葉を投げかけた私にも乾いたような笑みを浮かべるばかりだった。
昨日も1日ずっと上の空。
本人に聞いて確かめたわけじゃないけど……私の予想は的中していると思う。
真田がサトタツを好きだってこと。
真田とその類の話をしたことがなかったから、知らなかった。
……ううん。どんな状況であれ、きっと真田は言わなかったと思う。
そういう大切なことは、誰にも打ち明けず自分1人の胸に留めておく性分だろうから。
「ねぇ康介、変なこと聞くけど驚かないでね」
「お前が変なのはいつもだから驚かねぇよ。何?」
それぞれ部活を終えた私と康介は、冷たい風に揺れる街路樹を横目に帰路についている。
右肩に食い込むスポーツバッグがいつにも増して重く感じた。
「壊さないように大切にしてたものが、二度と手に入らなくなるかもしれないってわかったら……どうする?」
私の問いに、康介が怪訝そうに眉を寄せた。
「……変なドラマでも観たか?」
「別に観てないっつの! 真面目に答えてよっ」
ぽかっと右肩を叩いてやると、へらへら笑いながら謝罪の3文字を口にした康介。
絶対反省してない! 見てわかる!
「大切なものが二度と、ねぇ……」
バカにしたかと思いきや、康介の声のトーンが突然低くなった。
このまま流されるものだと思ったから、ちょっとびっくりした。
「俺なら……直前まで足掻くと思う」
あまつさえ、答えをくれるだなんて。
「足掻いて、それでも手に入んねーなら仕方ないって諦めもつくじゃん。ああしとけばよかったこうしとけばよかったって、後で後悔したくねぇもん」
「……足掻くことさえ、許されなかったら?」
言ってることはわかる。康介らしい答えだと思う。
でも真田の場合……足掻くということは、結ばれる2人の間に亀裂を入れるかもしれないのだ。
それは本当に正しいことなのだろうか?
私達2人の間を、強い風がびゅうっと通り抜けていく。
今会った風に、もう二度と会うことはない。今日はなんだか、それが少し寂しい。
「足掻くことが許されないなら、諦めるしかねぇよ。傷つくだけ傷ついて、痛みが和らぐのを待つだけだ」
頭上から降ってきたのは予想の地平にはなかった言葉で、私は弾かれたように顔を上げた。
康介の横顔は街灯に淡く照らされていて、胸がきゅうっと締め付けられる。
なんであんたが、そんなことを言うの。
「諦めるなんて……」
「だって、どうしようもねぇんだろ? 足掻くことは許されない。でも、行動しなければそれこそ何も変わらねーよ」
「そう、だけど……」
「手に入らないっつー運命は変えられないなら、割り切って諦めるしかないだろ」
矢継ぎ早に言葉を放つ康介に、反駁したい気持ちが迫り上がる。
答えを求めておいてこんなことを思うの身勝手だと思うけど……ちょっとショックだった。
康介の口から、“諦める”なんて文言が出てきたことが。
康介は絶対に諦めない人だと思ってたのに……。
「……ったく。そんな情けねぇ顔すんじゃねーよ」
「わっ」
呆れたように片眉を下げて、大きな手で私の頭をぐりぐりと撫でてくる。
前髪で前が見えなくなったところに、穏やかなトーンの声が降ってきた。
「お前が考えてることは大体わかるけどな。俺だって、諦めるなんて選択肢はないと思ってたよ。……つい最近までは」
でも、と言葉は続く。
「学んだんだ。世の中には、どうすることも出来ないことが存在するんだって」
「…………」
「まぁ、すっげー悔しいけどさ。その分、前を向くために諦めるって道もきっと存在するんだよ」
康介が、どうすることも出来なかったこと。
怪我をして、練習の成果を試合で発揮できなかったこと。
先輩の引退試合に花を添えられなかったこと。
悔しくて悲しくて、どうにかしたくてもどうにも出来なかった。
その事実を飲み込んで、康介は“諦める”ことに意味を見出したんだ。
諦めることは悪いことじゃないのかもしれない。──でも。
「ははっ、重症だな」
俯く私の頭をくしゃっと掻いて、康介は歩くスピードを少し速める。
悪いことじゃないってわかるけど、諦めろなんて真田に言えない。
私の心に居座ったままのモヤモヤを見透かした様子の康介に、何とも言えない悔しさが湧き上がった。
夜の間に沢山たくさん考えて、気付いたら窓の外が白みを帯びていた。
一睡もしないのはまずいと慌てて夢の中に足を踏み入れたけど、いつもの時間に起床できるはずもなく、完全に目が覚めた時には時計は3時間目の授業が始まる時刻を示していた。
部屋に広がる冷気に構うことなく、布団から飛び出す。
「や、やっちゃった……!」
また朝練欠かしちゃったし……! っていうか、無遅刻無欠席記録がーっ!
大急ぎで支度をして家を飛び出し、学校の門をくぐったのは4時間目の開始を知らせるチャイムが鳴ったのとほぼ同時だった。
職員室で遅刻届を書いてから、とぼとぼ歩いて教室を目指す。