僕は目の前に置かれたベッドの枕元に目をやった。
そこにはまだ「渕加奈子(フチ カナコ)」と書かれたプレートが残されたままになっていた。
僕はその無駄に整った字を見つめながら、彼女の名前を心の中で反芻する。
呼び慣れていなかっただけに、胸がざわつく気がした。
すると不意に廊下のほうから賑やかな声が聞こえてきたので、僕は我に返った。
そこでようやく、自分が彼女と過ごした時間に思いを馳せていたことに気付く。
悔しいけれど、彼女は僕が唯一「友達」と言える存在だった。
賑やかな声の主たちは、間もなく室内へと足を踏み入れてきた。
その中に、というよりもその中心に、彼女はいた。
彼女は一瞬驚いたような目で僕を捉えたが、すぐに屈託のない笑顔を向けてきた。
そして一言、この僕に向かって、初対面の挨拶を投げかけてきたのである。
僕は仕方なく、初めまして、とおうむ返しに答える。
それが自分の思っていたよりもかなり暗い声色だったらしく、彼女は不安そうにこちらを見てきた。
分かっている。
彼女には何ら悪気はない。
そこまで考えて初めて、僕の脳はようやく現実を理解し始める。
彼女は本当に記憶を失ったのだ、と。