次の日。


佑香はアルバイト先に行き辞める事を伝えた。



辞める必要はないと周囲に反対されたのだが、このまま一緒に大月といればきっと恋心の方が勝ってしまうと思ったからである。


大月のせいではない。


大月と一緒にいることで、意志が弱くなる自分のせいなのだ。



佑香がやらなくてはいけない分のシフトは、今度新しく入るらしい新人のアルバイト生にやらせるからいいと店長に言われ、佑香は頭を下げる。


「本当にすいません……」


「本当だよ、困るよ」


本当に困った様子で店長は佑香を見た。


最近の若い子はすぐ辞める。


と佑香がドアを出る直前に呟いているのが聞こえた。


アルバイトをしている最中は物腰の柔らかい人だと思っていたが、実際そうでもなかったのかもしれない。



自宅に帰ってから昨晩真っ白に塗り直したキャンバスに触れる。


まだほんのり湿っている為、新しい色を上塗り出来ない。


スケッチブックに何となく色鉛筆で色を重ねて行く。


何時間同じ紙に色々な色鉛筆で色を重ねていただろうか。


外は既に真っ暗になっており、居間の方から母親が夕飯の支度をしている音が聞こえた。


母親は佑香がアルバイトを辞めた事に何も言わなかった。


カチャカチャと心地の良い音が佑香の耳をくすぐる。


これでよかったんだ。


と頭の中で考えていると、携帯電話が着信をつげるバイブを鳴らす。


表示されているのは、見た事のない番号だった。


「もしもし……?」 


恐る恐る電話に出る。相手は大月だった。


「ごめん。店長に頼んで電話番号聞いた。今ちょっと大丈夫かな?」


「……うん」 


まだ八時前なので、コンビニに行くと言えば外に出ても何も言われないだろう。


佑香は昨日大月と一緒にいた公園で待ち合わせをした。


公園には徒歩で行く。


何故かあの自転車を使う気にはなれなかった。


目的地に到着すると、大月は先にベンチに座って待っている。


ベンチの傍には、佑香とお揃いの自転車が止まっていた。


「昨日は大丈夫だった?」


心配そうな表情で、大月は言う。


「心配しなくて大丈夫ですよ」


笑みを浮かべて佑香は答えた。


父親に注意された事、アルバイトを辞めた事を大月のせいにしたくはなかった。


「でも……俺と遅くまで話してたせいで、バイト辞めなくちゃいけなくなったんじゃ……」


申し訳なさそうな口調で言う大月に、佑香は笑って彼を制す。


「そんなんじゃないですよ。絵画コンクールまで後一カ月切っていて、そっちに集中したいなって思ってまして」


あくまで明るく言う佑香に対し、大月の表情は曇ったままだ。



「そうだったね。そういえば美大だったっけ」


「はい。そろそろ真剣にやりたくて」


長い沈黙だった。


先に沈黙を破ったのは、大月の方で


「じゃあ、もう一緒に話す事はないのかな?」


と言った。


「そうかもしれないですね……」


アルバイト先でしか接点のない二人が、またあえて二人で会う理由を彼らは見つける事が出来なかった。


友達でもなく、恋人でもないこの不思議な関係は酷く脆い。


真剣に将来の事について語る佑香に、仮に大月が想いを寄せていたとしても、それを口に出すことは間違っているといった雰囲気だった。


「そっか……」


静かに溜息のような声を大月は漏らす。


「あの……一緒にアニメの話が出来て楽しかったです」


心の底からの気持を佑香は大月に伝えた。


「俺も。すごい楽しかった」


小さく大月が手を振る。佑香も小さく手を振った。


「……」


「作品。入選するといいね」


大月の言葉に佑香は頷く。


「じゃあ」


「うん、じゃあ」


背を向け歩きだす。


大月が自転車を止めていたストッパーの金具を外す音が聞こえた。


本当にこれで終わりなのだろうか。


頭の中で大月との想い出を反芻させる。


歩き続けて公園を出た。振り返る事は許されないような気がした。


ポツン。と頭の上に水滴が落ちる。


「……雨だ」


佑香が発した言葉と同時に土砂降りの雨が彼女に降りかかった。


なんだか情けない気持ちになって、佑香の瞳からも涙が溢れる。


激しい豪雨と共に、佑香も激しく泣いた。


好きだった。一緒にもっといたかった。


手を繋いでデートをしたり、他愛ない事でもっと一緒に趣味の話をしたりしたかった。


見えない将来を手に入れる為に自分で終わらせてしまったその恋は、酷く甘く、切なく、ほろ苦い。



篠村佑香。初めての恋だった。