「篠村さんは、何で美大に行こうと思ったの?」


 狭い歩道をゆっくり歩きながら、大月は言う。


住宅街の中、歩いているのは帰宅途中の数人のサラリーマンのみだ。

「うーん、なんとなく。昔から絵を描くのが好きで」


「へえ、いつぐらいから描いてるの?」


「落書きみたいなのは、小さい頃からよく描いてたんですけど。実際にデッサンの練習を始めたのは高校三年の五月くらいからで」


「そんな短期間で美大受かったんだ!才能あるんだね」


「いや、才能ないですよ」


「いやいや、俺が今から一年以内で美大受けろって言われても無理だもん。すげーよ」


「そうですかね」


「そうだよ。ねえ、よかったら今度絵見せて下さい」


「ええ?それは恥ずかしいんで無理ですよ」


「そっか。残念だったな」

「うまく描けたら見せるんで」


「まじか。じゃあ、楽しみにしてる」


慣れてきたためか、少しずつではあるが口調がフランクになり始めている事に佑香は気がついた。


「あ、じゃあ、私こっちが家なので」


「さすがに、最後まで一緒って訳にはいかないよね。じゃあ、お疲れ様」


優しい笑みを浮かべ、大月は去っていく。


自転車で走り去る後ろ姿をしばらく見たあと、佑香も自分の家に向かって自転車を走らせた。

 
家に到着し、コバルトブルーの油絵具を買い忘れた事に気がつく。


「……明日でもいっか」


リュックサックの中からメモ帳を取り出し、再びキャンバスの目の前に座った。


乾ききっていないキャンバスを外し、先日かったまだ何も描かれていないF50サイズのキャンバスを目の前に立てる。


深呼吸を一つして、黒炭を手に持った。


今まで家にいる際にイメージが湧かなかった事が嘘のように頭の中にイメージが溢れ出している。



自転車、男の子、笑顔、夜空、涼しい風。



全てが佑香の中で消化され、手から新たな物として生まれ変わっていった。


下書きを書き終えると、母親に夕食を食べないのかと尋ねられたが断り作業を続ける。


大月に見せられる日がくるのだろうか。


脳裏によぎった考えが、佑香の中で再び手のひらを通してキャンバスに塗られていく。


キャンバスに重ねられていく色をヘラで修正した。


平面だけではない。


平面の中の立体をどれだけ活かせるのだろうか。


こんなに夢中になって作品を作るのはいつぶりだろう。


「やっぱ、コバルトブルー足りないや」


夜中の一時。途中まで完成した絵を眺めながら、佑香は呟いた。