『………よし』
そう言って、僕は立ち上がった。
もちろん、僕の意思で立ち上がったわけではない。
どこへ行くのだろうか?
僕は、ゆっくりと階段を下りた。
足音を立てぬよう、ゆっくり、ゆっくり………。
まるで、誰かに気付かれてはいけないように……。
僕は、ある部屋の前で立ち止まった。
その部屋の扉からは、うるさいテレビの音と、クチャクチャと何かを食べているような音が聞こえる。
その音も、やけにリアルで、僕の耳は少し痛くなった。
『……』
僕は、扉をじっと見つめた。
その眼差しには憎しみがこもっていた。
どうやら今の僕は、この扉の向こうにいる人物のことを相当嫌っているようだ。
僕は、また足音を立てずに、移動した。
移動した先は、倉庫のようなところだった。
ほこりがあちこち舞っていて、鼻がムズムズする。
僕は、倉庫の隅にあった工具箱から、ハンマーを取り出した。
僕は、一体これで何をする気だろう?
ハンマーを手に持った僕は、またゆっくりと歩き出し、あのテレビがうるさかったさっきの部屋まで移動した。
音を立てずに、扉を開ける。
そこには、丸々と太った四十代前後の男がいた。
髪はボサボサで、髭は生え放題。
何日も風呂に入っていないのか、何だか臭う。
しかも、酔っているらしく、体臭と酒の臭いが混じって最悪だ。
イカっぽい臭いがするので、男が食べているのはおそらくスルメかなんかだろう。
テレビは、低俗なバラエティー番組が映っている。
部屋は荒れ放題で、そこら中にカップラーメンのゴミや、脱ぎ捨てられた靴下や、タバコの吸殻なんかが捨てられている。
(ゲッ…食べ物のゴミと衣類を一緒にするなよ…。汚いなあ)
『ギャハハハハハハハ』
下品な声を出して笑う男。
僕は、そんな男を見下ろしていた。
これが、今の僕が嫌っている男。
今の僕の家にいるということは、この男と今の僕はなんらかの繋がりがあるに違いない。
この男と知り合いか、血縁関係にあるか。
友人………ということはなさそうだ。
僕は、男に気付かれぬようにゆっくりと近づき、そしてハンマーを振り下ろした。
(なっ……!?)
男は、悲鳴を上げる隙もなく、あっけなくその場に倒れこんだ。
男の頭からは、ドクドクと血が流れていく。
(死……んだ………?)
「夢の中で殺人を犯した?」
次の日の昼休み、僕は人気のない生物実験室で、水鳥に昨日の夢のことについて話していた。
「ああ…そうなんだ。
僕は、この手で、ハンマーを振り落として、人を殺したんだ!!」
「落ち着いて、貴之。
あくまでそれは夢の話であって、貴之が本当に人を殺したというわけではないわ」
「そう、そうだけど……」
あのとき、ハンマーで殴ったときに手に伝わった感触……。
それが、今の僕の右手に残っている。
「うっ………」
僕は吐き気に襲われた。
「貴之っ、大丈夫!?
保健室へ行きましょう」
僕は水鳥に連れられ、保健室へ行った。
「失礼します」
水鳥が、保健室の扉をノックした。
「あら、川澄さん。
どうかしたのかしら?」
「岡村君が、具合悪そうなので……」
「まあ、本当。
顔色がずいぶん良くないわ。
とりあえずベッドで横になって、あとこれをワキに挟んで」
そう言って、保健の先生は、僕に体温計を渡した。
僕は、受け取った体温計を自分のワキに挟み、ベッドに倒れこむようにして寝転んだ。
「しばらく、ここで休んでいるといいわ。
もうすぐ授業が始まるから、川澄さんは教室に戻ってなさい」
「はい、わかりました。
次の休憩時間、来るからね。
それまでゆっくり休んでいてね、貴之」
水鳥はそう言うと、保健室から出て行った。
ひどい吐き気と目眩に襲われていた僕は、眠ることにした。
一度眠ればスッキリするだろうと思ったからだ。
目を開けると、そこには頭から血を流して倒れた男がいた。
これは……僕が昨日の夢でハンマーで殴った男だ。
『うぅ……』
男は、呻き声をあげている。
よかった、どうやら死んでなかったみたいだ。
(大丈夫ですか!?)
と、声をかけようとするが、僕はここでは自由に身動きがとれないことに気付いた。
このままでは、この男が死んでしまう。
『チッ……まだ生きてやがるか』
彼を殴った僕ではない僕が、吐き捨てるようにして言った。
(僕ではない、別の誰か……お前は一体誰だ?
どうして、この男をハンマーで殴った?)
問おうとしても、僕の声は彼には届かない。
僕は、男をズルズルと引きずり、ハンマーがあった倉庫へ運び出した。
そして、近くにあったロープで、僕は男の体を縛り、ガムテームでその口を塞いだ。
男は、抵抗する様子を見せない。
おそらく、気絶しているのだろう。
男が動かないことを確認すると、僕は倉庫に鍵を閉め、出て行った。
そして、さっき男がテレビを見ていた部屋へ行く。
テレビにはさっきも映っていた低俗なバラエティー番組がまだ流れていて、大物芸能人が新人アイドルをからかい、スタジオはレベルの低い笑い声に包まれている。
『うるさいな…』
と、夢の中の僕は言い、ゴミの中からリモコンを探し出し、テレビを消したところで、僕は目を覚ました。
ザーザーという雨の音が外から聞こえてくる。
時計を見ると、五時間目が終わった頃だった。
「あら、目を覚ましたようね」
保健の先生が、僕に話しかけてきた。
「さっき、体温計をみたけれど…三十八度近くもあったわ。
今日はもう帰りなさい」
「でも…僕、今日傘持ってきていなくて……」
「それなら、職員室に貸し出し用のビニール傘があるわ。
とってくるから、ちょっと待ってらっしゃい」
そう言って、先生は保健室を出ていき、三分ほどで傘と僕の荷物を持ってきてくれた。
「お家にはこちらから電話しておくから。
一人で帰れるかしら?雨も降っているし……。
よかったら車で送るけれど」
「大丈夫です。
徒歩で帰れる範囲内ですから。
ありがとうございました」
僕は先生に礼を言うと、学校を出た。
外はかなり雨が降っていた。
横殴りな雨の降り方で、傘をさしているのにも関わらず、全身に雨が当たってくる。
そんな雨に、僕は既視感を覚えた。
この雨が当たる感触も、肌が寒くなっていく感覚も、僕は知っている。
ここ最近、雨なんて降っていないのに…どうしてだろう。
家に帰ると、僕はパジャマに着替えて、そのまま自室のベッドに寝転んだ。
「はぁ………」
さっきの夢のことが、僕は気になっていた。
あの後、あの男は倉庫に閉じ込められてしまったが…果たして無事なのだろうか?
そして、夢の中の僕は、何故あの男をハンマーで殴り、倉庫に閉じ込めたりしたのだろうか?
不安と疑問で、胸が苦しくなる。
保健室で寝ていたお陰で、少し熱が下がったのか、随分体がラクになっていた僕は、リビングへ行き、テレビをつけた。
何か面白い番組でもやっていないかな。
僕は、適当にリモコンでチャンネルを変える。