7月に入ると、僕らは夏休み前の試験やら、前期のレポート提出やらとにわかに忙しくなる。

 そんな中、僕が働くバイト先でも変化があった。

 僕は自分が住む街のカフェでバイトをしている。

 この街には、大きな大学病院がある。そして近くにはビルが立ち並ぶオフィス街が望める。でも、一歩大通りを逸(そ)れ公園側に向かうと、その雰囲気は一変する。

 公園から来る木々の香りと、風が吹くと葉がざわめく声がして、都会にいるのを忘れさせてくれる。 
 
 それが僕の故郷の雰囲気に似ているからかもしれない。だから僕はこの街に住み、このカフェでバイトを始めた。

 料味「りょうみ」(料理をして味を楽しむこと)をすることは、どちらかと言えば好きだったから、始め厨房作業を希望していた。でも配属されたのは、お客様と直接接するフロアだった。フロアでも賄(まかな)いは出たからそれに従った。

 「おはようございます」

 夜でも昼でも店の中では「おはようございます」初めは違和感があったが今はもう慣れてしまった。

 「あら、おはよう亜咲君。今から」

 「あ、そうっす」返事をしながら制服に着替える。「今日はちょっと混んでいるから頑張ってね」

「はい、解りました」


 話しかけたのは、フロアのチーフパーサー鳥宮 恵梨佳(とりみや えりか)。


 彼女はこの店のフロア責任者。そしてカフェを運営する会社の社員。

 大学を卒業してから、この店に配属されて4年になる。歳は二十六歳、少し長めの髪をクイッと後ろでまとめ、この店の制服を着こなす姿は、彼女のスタイリッシュな体つきと合わさり、思わず目を追わせてしまう。

 そして、彼女の行うサービスはとても素晴らしかった。

 いつどんな時も、どんなに忙しくても嫌な顔一つ見せず、物腰柔らかく優しく接していた。

 そんな彼女も、僕の憧れの人だった。

 その日は彼女が言った通り、ホールは何時(いつ)になく客の姿が多かった。外に設置してあるオープンテラスも満席だった。

 「亜咲、6番テーブルだ」

 「はい」

 厨房から上がった料理をトレーに乗せて、ホールに向かおうとした、その時だった。


 きゃっ、ガシャーン。それはテラスの方から訊こえてきた。


 トレーを台に置き、足早に音のした方へ向かった。

 オープンテラスの一番奥の方、そこに目を遣ると、女性と一緒に来ていたチンピラ風の男が、彼女の前に立ち襟口をネクタイごと鷲摑(わしづか)みしていた。

 「お客様、他のお客様の御迷惑になります。どうか、この手をお放しください」

 「ぬぁんだとうぉ。これ以上俺の顔にドロを塗ろってんのか」

 「そ、そんな事はありません。確かにお客さまのご注文に、大変お時間を頂いているのはお詫び申し上げます。ですが、本日は大変込み合っております。そのことをご理解頂きたいのです」

 彼女は一切言葉を乱さず、その男に話している。それは謙(へりくだ)る事をせず、凛として自分の仕事をしていると言った感じだった。 

 次の瞬間その男は彼女の襟口を掴んだまま横に振り払った。それと同時に彼女の体はバランスを崩しテラスの床に倒れ込んだ。

 居た堪れなくなり、僕は彼女の所へ向おうとしたその時、肩に重い手が乗った。振り返ると、その手は支配人だった。

 彼は僕に少し険しい表情を残して、僕の前を通り過ぎる。

 デッキの床に倒れ込んだ恵梨佳さんに手を差し伸べ「大丈夫」とそっと彼女に問いかける。

 小さく頷く彼女を立たせ、その男に向かった。

 「お客様。これ以上は、お店にとってもお客様にとっても不利益になります。もし、お客様がこの様な行動をお続けになるのなら、此方(こちら)としても見過ごすわけには行かなくなります。そうなれば、お客様にとっても大きな痛手となるのではありませんか」

 支配人は、臆する事なくゆっくりと、その男の目を見ながら話した。

 その男は、グッと息をのんで、何も話せなかった。 

 「ねぇぇ、ちょっとぉ。私飽きちゃった。もっと別なところ行かない」

 連れの女が気だるそうに言う。

 「解った、解ったよ」そう言って女の手を掴み、罰が悪そうに店を出て行った。

 男が店を出るのと同時に恵梨佳さんは、ふうっと横にいる僕へと倒れこんだ。

 「大丈夫ですか」

 彼女を抱きかかえ、ゆっくりと近くにあった椅子に座らせた。

 彼女は下を俯き、震えるような声で

 「申し訳ありません支配人。騒ぎを大きくしてしまって。も、申し訳ありません」

 震える小さな声で恵梨佳さんは、支配人に謝っていた。 

 「大丈夫ですよ、恵梨佳さん。あなたは立派にあなたの仕事をしてくれました。何も謝ることことはありません。それよりその怪我、病院で診てもらってください」

 「大丈夫です。大した怪我じゃありませんから、仕事に戻ります」

 そういう彼女を手で止め。近くにいた僕へ

 「亜咲君、済まないんだが彼女を病院に連れて行ってくれないかな。それから、彼女を家まで送ってもらえると助かる。君もそのまま直帰してもいいから」

 「解りました」と返事をして更衣室へ着替えに戻った。

 店を出る時、恵梨佳さんは

 「支配人、申し訳ありません」また、謝りの言葉を放した。

 「恵梨佳さん。僕は、そして会社はいつもあなたの味方ですよ」

 そう一言言って僕らを送り出した。

 僕らは歩いて行ける近所の救急病院へ向かった。

 恵梨佳さんの診察は、検査などを含めおよそ2時間ほどかかった。

 待合ホールに戻ってきた恵梨佳さんは、額の横にガーゼの絆創膏を貼り、左手首に包帯を巻いていた。

 「お待たせ、亜咲君。時間掛っちゃって」

 「怪我大丈夫ですか」

 「うん、大袈裟なのよね。額にちょっとたんこぶと左手首の捻挫だって。私意外と石頭だから大丈夫」

 彼女は鞄からスマホを取り出し電話を掛けた。おそらく店へ、支配人へであろう。

 「もしもし、私です。恵梨佳です。はい、今診察が終わりました……」

 僕はそっと恵梨佳さんから離れ、会話を訊かない様にした。でも、時折訊こえる恵梨佳さんの声と彼女の表情から、とても親しい人と話しているように感じ得た。多分彼女の電話の相手は、支配人のはずなんだが。

 電話を終え僕の方へやってきた恵梨佳さんは、今まで後ろで止めていた髪を解き放した。

 「うん、これで額の絆創膏目立たないでしょ」

 店を出た時とは違い、すっかり落ち着きを取り戻した。いつものあの恵梨佳さんが戻っていた。

 いや、髪を降ろした性だろうか、僕が知る恵梨佳さんとは違い、しっとりとした大人の女性といった感じを漂わせていた。

 「ねぇ亜咲君、ご飯食べに行かない。お腹すいたでしょ。迷惑かけたから私のおごりで」

 「え、でも。いいですよ、そんな気を使わなくても」

 「遠慮しなくてもいいから、それにあなたはまだ拘束時間内なんだから、私の言う事を訊きなさい」

 それを言われると、僕には何も言えない。

 「じゃぁ、恵梨佳さんのアパートの近くでなら」

 彼女はふっとため息をついて

 「相変わらず優しいのね。亜咲君は」少し呆れた様に言い放った。