スイート・ルーム・シェア -御曹司と溺甘同居-



「何を笑ってる」


不服そうに胸の前で腕を組んだ識嶋さんは、ようやく私を見てくれた。


「いえ、何でもないです」


答えれば、広い車内で彼はどこか居心地が悪そうに足を組みなおし、今度はきちんと私の目を見て話す。


「ストーカーはいつからなんだ?」

「確か、去年の夏くらいからでしょうか」


思い出しながら答えると、識嶋さんはさらに「警察には行ったのか?」と質問してきた。


「届けましたけど、特に本格的に動いてくれてはいないです。なので、今は自分で対処してるんですけど、メアド変えてもまたメールくるし……」

「なら、知り合いの中にいるんだろ」


言い切った彼に、私は狼狽えてしまう。


「そ、そうとも限らないじゃないですか」


思わずどもったのは、一度はそれを疑った自分がいたからだ。

何度変えても来る無言電話、気持ちの悪いメール。

ただの嫌がらせでたまたま私の番号やメアドを知ったのなら変えれば終わると思っていた。

でも、終わらなかった。

それは、相手が知り合いだという可能性があるということを示すもの。

だけど、そんなわけがないと信じたかった。

関係のない友人や同僚、上司、先輩に後輩たちを、家族を、疑いたくないのだ。

それを口にしたら識嶋さんは笑うだろうか。

綺麗ごとだと、甘い考えだと否定するだろうか。




でも、それでもかまわない。

人を疑い続けながら生きていくよりも、胸を張って綺麗ごとを声にする。

そんな生き方をしていく方がずっといいと思うから。

ただ……それでも、誰かの口から疑いを口にされれば、心が不安に揺れてしまうのは事実。

心を強く持ち続けることの難しさを痛感し、今度は私の方が視線を外して黒い絨毯へと落とす。

赤信号に、車がゆっくりと停車したところで、識嶋さんは小さく息を吐いた。


「そう思いたくないんだろうが、問題が近くにあるのなら手早く対処するべきだろう」


それが自分の為だと告げられ、真っ当な意見に私は落としていた視線を上げる。


「相手が誰であろうとその行為は犯罪だ。許されるものじゃない」


真っ直ぐな目と言葉に、私は「はい」と頷き肯定した。

昼間のミーティングでも思ったけど、基本的に識嶋さんは間違ったことは言ってないのだ。

ただ、言い方に問題がある。

無駄を省きたがる上に結論を急ぐし、何より思いやりがない……というより、見えにくいという方が正しいだろうか。




「警戒心が無さすぎて話にならないな」


これもきっと、助けてくれた流れから考えるなら警戒心を持って用心しろって言いたいんだろうけど、攻撃的で解りづらい。

私にМっ気があればそれでもOKなんだろうけど、あいにくノーマルだ。

なので、許容できず……


「あの、もう少し言葉を選んだ方がいいと思いますよ」


口出ししてしまった。

というか、相手を不快な気持ちにさせない言葉を……という話なのに、よく考えたら私も識嶋さんを不快な気持ちにさせてるのではと気付く。

だけど意外にも嫌な顔をせず、識嶋さんは涼し気な顔で「遠回しに言っても伝わらないこともあるだろう」と唇を動かした。

いや、確かにそれもそうですけど。

ああもう、この人あれだ。

真面目過ぎて不器用な人なんだ。


「警戒心がないといえば同居の話もそうだ。相手が俺だからいいものの、他の男なら簡単に犯されるだろうな、お前は」

「なっ、そんなことありませんよ! 私は社長を信頼して頼ったんですから! そして私は”お前”ではなく、高梨美織という名前がありますので」

「とにかく、もう少し警戒心を持て。でないと足元すくわれるぞ」


名前の件は華麗にスルーされてしまったけれど、かけられた言葉は存外思いやりを感じるもので。

私は一瞬口をつぐんでから、ひとつ、頷いてみせた。

言い方はちょっと頭にくるけど、この不愛想で不器用な御曹司さまに迷惑をかけないようにしようと、心の中で誓いながら。















休日のお台場は人で溢れている。

買い物に繰り出す人だけでなく観光で訪れる人もいて、近隣の駐車場も満車マークが目立つ。

そんなにぎやかな街中を、今さっき購入したばかりのドーナツが入った手提げ袋を手にして歩く私。

時刻は午後二時を過ぎたところで、向かう場所は居候先であるタワーマンションだ。


識嶋さんのところで生活を始めて一週間。

いまだに家の広さと豪華さには慣れないし、この辺りを歩くのもまだ少しぎこちない。

それにしても、この辺りはショップが沢山あって、少し出掛けるだけでも魅力的な物が目に止まってしまい困る。

縁あってお台場というリッチな場所に住むようになったけど、私のお財布の中身が変わったわけじゃない。

財布の紐をうっかり緩めたりしないようにと、私は気を引き締めながらマンションを目指した。


暖かな春の陽気に頬を撫でる心地の良い風。

こんな穏やかな休日に、大好物のドーナツを素敵なお家のリビング食べれるなんて幸せ……なんだけど……

リビングという空間に、私の脳が、識嶋さんに助けてもらった帰宅後のリビングでの出来事を思い出させた。




あの日、帰宅した私たちは村瀬さんが用意してくれていた夕食を一緒にとった。

その最中、居候していることを内緒にしてほしいとお願いしてみたのだけど……


「なぜ俺がお前の都合に合わせなければならないんだ」


お気に召さなかったようで、識嶋さんは不機嫌そうに眉根を寄せて私を見た。

けれど、負けるわけにはいかないので、私は食い下がったのだ。


「私にも私の立場があるんです。変に誤解されるのは識嶋さんも困るでしょう?」


問いかけると、識嶋さんは手にしていたワイングラスをテーブルに置いて。


「確かに、それは困るな」


きっぱりと言い切った。

……なぜだろう。

自分で振ったんだけど、イラッときてしまった。

同意してもらってありがたいのに、微妙な気持ちになるのは識嶋さんの態度がふてぶてしいせいだ。

絶対そうに違いない。

断じて「俺は困らない」とか言って欲しかったわけではないと自分を否定つつ、私は頷いてみせた。


「それならぜひ内密にお願いします」


今度はいい返事をもらえるだろう。

半ば確信して頼んだのだけど、何故か識嶋さんは「……いや、待て」とテーブルに肩肘をついて私を見つめていた。

そして、わずかに口角をつり上げたかと思えば。


「いいだろう。とりあえずは黙っていてやる。ただし、役に立ってもらおう」


交換条件を口にしたのだった。

この後、内容を聞いても時が来たら言うとだけで教えてはもらえず今に至る。

気になるけど、しつこく聞けば厳しい言葉を浴びせられるだろうと追及はしないでいた。




タワーマンションのエントランスに着くと、借りているカードキーを柔らかなレザーで作られたお気に入りのショルダーバッグから取り出す。

そして、カードリーダーに翳して自動ドアを開けた時だった。

オーバーシルエットジャケットのポケットに入っていたスマホが震えるのを感じて。

もしかしてと思いつつスマホを手に取れば、相手はやはりストーカーだった。


『最近どこに帰ってるの? まさか彼氏のところ?』


君は僕のものだよね。

そう言いたげな文章が、家を出てもなおこうして変わらずに送られてきている。

どこに帰ってるの、だなんて……

完璧に行動監視されてる。

会社もバレてるみたいだし、識嶋さんの言う通り、もっと警戒しないとダメだ。

もう一度警察にかけあってみようかな。

そう考えながら玄関の扉を開けると、部屋の奥の方から識嶋さんの話声が聞こえてきた。

相手の声は聞こえないから電話だろうと予想しリビングに入れば、案の定ソファーに腰を沈めスマホを耳に当てた識嶋さんがいた。




何かあったのか、識嶋さんは苛立たしげに目を細め、深く息を吐いて通話を切る。

その不機嫌な様子に声をかけていいのか悩みながら、ダイニングテーブルにドーナツが入った袋を置けば。


「さっそく出番だぞ」


いきなり意味のわからないことを言われて私は瞬きを繰り返した。


「もう忘れたのか。役に立ってもらうと言っただろう」

「ああ! え、何をすればいいんですか?」


ソファーに背を預けたままの識嶋さんに問うと、まあ座れと促されて。

私はジャケットを脱いでそれを手にしたまま彼の向かい側のソファーに座った。

すると識嶋さんは少しだけこちらに身を乗り出すようにして「まず」と口にし始める。


「断ることは許されない。断るならここから出て行ってもらう」


……え。

待ってよ。


「そ、それはこの前言われてないですよ!?」


出て行けなんてそんな話じゃなかったはずだ。

いや、迷惑だというなら出ていくけれど、一応約束を交わしたわけだし変えるのは反則でしょうと思っていると、識嶋さんは真剣な顔で再び唇を動かす。


「お前も困ってここにいるんだろう? それなら、俺が困っていることをお前が助けるのも当然だと思うが」


た、確かにそうだけど。




「でも、この前の話では黙っている代わりにって」

「じゃあ追加だ」


ええええぇっ!?

フェアじゃないんですけどっ!

社長も強引なところあるけど、遺伝?

むしろワガママプラスで遺伝して──


「俺の恋人になれ」

…………


「……はい?」


今、何と?


「必要な時だけで構わない。会社ではその必要はないと思うが、万が一必要になった場合は会社には隠していると伝えれば問題ない」

「え? ん? 待って待って、待ってください」

「なんだ」

「なんだ、じゃないですよ。恋人って何ですか!」

「だからそのままの意味だ。もちろん偽装だが」

「偽装? 嘘の恋人ってことですか?」

「そうだ」


当然のように答えた識嶋さんが説明してくれたのは、縁談の話だった。

どうやら最近になって識嶋さんのお母様が縁談の話を持ち掛けてきたらしい。

けれど識嶋さんは今結婚することにメリットがないと感じていて、断りたいのだと。




「それなら断ればいいじゃないですか」

「断るだけで納得するように人じゃない。だから不服だが、お前に頼んでいるだ」


不服って!

そりゃ、私は極上の美人でもアイドルのようにキュートでもないですよ。

特出したものはない平凡な女ですよ。

そう、平凡なんです。


「無理ですよ。立場が違い過ぎて虫よけには役不足です」

「そこは適当に誤魔化せる。問題ない」


ありありですけど!

でも、ここで断ればまたあの家に戻るわけで。

引っ越し金が貯まるまで恐怖と闘い続けなければならなくなる。

怯え、精神をすり減らしながらの生活を送るのか。

それともどう転ぶか予想もつかない偽装の恋人となるのか。


「……必要な時だけ、ですよね?」

「ああ。だが、偽装だとバレないようにある程度は普段から努力する必要はあるだろうな」


その努力の内容がちょっと不安だけど、ストーカーと闘い続けるよりかはきっとマシなはず。