スイート・ルーム・シェア -御曹司と溺甘同居-



歴史の重みを感じられるような部屋の雰囲気に、緊張で背筋がピンと伸びっぱなしの中、飲み物が運ばれてくる。

向かいの席に胡座をかいて座る社長が、熱いお茶に少しだけ口をつけてから「会社で困った事はないか?」と尋ねてきた。


「会社では特に……」


仕事もやり甲斐があるし、人間関係も問題ない。

そう思い、素直に口にした言葉だったのだけど。


「ということは、社外ではあるのか」


社長の声に、私はハッとした。

確かに私の言い方だとそう聞こえる。

特に意識してなかったけど……どうやら、ストーカーの存在は私の心を麻痺させていたらしい。

ちょっとした会話の中にも疲れを見せてしまうなんて。


「若いから色々あるんだろう。恋愛か?」


からかうような口振りに私は苦笑いを浮かべた。


「いえ、そんなロマンチックなものじゃないですよ」


恋愛の悩みならまだ楽かもしれない。

そう思いながら返すと、社長は今度は眉を寄せて険しい表情を作る。


「もしかして、借金か」

「違います!」


借金だなんて、そんなだらしない生き方してないし、する予定もない。


「じゃあ何だ? 何か協力できるかもしれんし、話してみないか?」


ニコニコと優しい笑みを浮かべて私を見つめる社長。

こんなこと、本当はあまり人に話してはいけないのかもしれない。

気持ちの良い話しじゃないし。

だけど、誰かに聞いて欲しい気持ちもあって。


「……実は……」


私はポツポツと、ストーカーのことを話した。

そして、逃れる為には引っ越しも視野に入れている、と。




「ストーカーなんて、じめっとしたことする奴の気が知れんな。しかし引っ越しまで考えるほどひどいのは……ん? 待てよ?」


憤った顔を見せたかと思えば、何か閃いたように思案しながら顎に生える短い髭に触れる社長。

運ばれてきた懐石料理には手をつけず、「これはある意味……」と、ぶつぶつと漏らしたかと思えば。


「美織ちゃん」

「はい」


社長は少しだけこちらに身を乗り出すようにしながら口を開く。


「もし君さえ良ければ、暫く住むところを提供しよう。しかもボディーガードつきだ」

「えぇっ!?」


住む場所だけでなく、ボディーガードまで!?

な、な、なんですかこの展開!

そんな奇跡のような話があっていいの?

あまり好条件過ぎると怖くなるんですけど!

いや、それよりもそんなに良くしてもらえるような関係ではないわけで。


「そんな、とてもありがたいお話ですけど、ご迷惑はかけられませんっ」

「迷惑なもんか。むしろ願ったり叶ったりだ」

「え?」


なぜ、願ったり叶ったり?

首をかしげるも、社長は「とにかく、今はストーカーから逃げるのが先決。私に任せてくれないか?」と、ようやく箸を手にした。

私はそんな社長に続いて箸を手にしながら考える。




住むところを提供してもらえるなんて、本当にありがたい。

だけどやっぱり、そこまで良くしてもらうのは悪いと思うものの……

正直、ストーカーから早く逃げたい気持ちが勝る。

プラス、厚意を無下にもできず。


「美織ちゃんを助けたいんだよ」

「社長……ありがとうございます」


結局、押し切られる形で甘えることになったのだった。

美味しい食事に嬉しい提案。

私は、自分の心が軽くなるのを感じ、自然と口元を綻ばせた。














私には一生縁がないと思っているものがいくつかある。

それは、世界一周旅行を年に一度は行くことだったり、テレビで特集されるような大家族になることだったりと様々だ。

そして、高級マンションの最上階に住むというのもそのうちのひとつ……だったんだけど……


「ここだ、ここだ」


縁というのは人生に突如として飛び込んでくるようで。

私は今、都内の高級タワーマンションの最上階である47階に立ち、玄関扉の横に備え付けられているインターホンに手を伸ばす社長の隣で胸を高鳴らせていた。

どうやらここが、私が暫くごやっかいになるお家らしい。

中には先日社長が話していたボディーガードだろうか、男の人がいるようで、社長と2人、重厚感のあるダークブラウンに染め上げられた玄関扉が開くのを待った。

ほどなくして、ドアのロックが解除された音がし、三分の一程扉が開く。

私からは姿は見えないけど、対面している社長は「よっ」と軽く手を挙げながら笑みを浮かべた。


「本当にきたんですか」


エントランスのインターホン越しでは聞こえにくいかったけれど、呆れたようなその声はクールだけどどこか優しさがある。


「あったり前だ。ほら、この子が美織ちゃんだ。よろしく頼むぞー」


紹介しながら私を自分の前に押し出すように立たせた社長。

必然と、私の視界には男性が映ったのだけど──


「あっ!」


その姿を見て、驚いた。




「貴方、あの時の……」


私の様子に社長が首を傾げる。


「なんだ、知り合いだったのか?」

「いえ、初対面です」


答えたのは私ではなく彼だ。

どうやら彼の方は覚えていないらしい。

斜めに分けられた前髪から覗く瞳が訝しげに私を見ていた。

でも、それが普通だろう。

私が覚えていたのは、彼のルックスレベルが高いから故だ。

涼やかな顔立ちと、それに似合うショートレイヤーにカットされた清潔感のある黒髪。

思わず見惚れてしまうその容姿は、正しく。


「あの、道でぶつかってしまったことがあって」


薄紅の花びらが舞う桜並木の下、私の不注意で迷惑をかけた相手だ。


「ほうほう。運命の再会か」


冗談なのか本気なのか。

社長は楽しげに笑うと、あとは若い2人に任せるよと言い残し、廊下の向こうへと去って行ってしまった。

いきなり放置されてしまい戸惑ったものの、きちんと挨拶をしていない事に気付いた私は、手にしていた大きめの鞄を持ち直すと、彼に改めて向き直る。


「高梨 美織です。以前は不注意でぶつかってしまいすみませんでした」

「だから覚えていない」


軽く頭を下げて私に、彼は興味なさそうな声色で告げた。




もしかして、なんだけど。

私、歓迎されてない?

金持ちでもないやつの護衛とかだるいとか思われてるのでは。

い、いや、悪く考えるのはよそう。

ほぼ初対面だし、人見知りされてるのかもしれない。

ここは別の話題を振ってみようと、顔に笑みをのせた。


「えっと、社長からボディーガードがつくって伺ったんですけど、もしかして貴方がそうなんですか?」


この質問なら彼の自己紹介が始まるはず。

そこから少しでも友好度を上げたいと目論んだものの。


「俺はここの家主だ。ボディーガードはあの人が勝手に俺のことを言っただけだろう」


彼からの冷淡な視線を浴びせられながら説明を受けた私。

予定外の展開に、私はただ首を傾け眉根を寄せてしまう。


「ということは、貴方のお家に私が居候……させてもらうんでしょうか?」


自分でも確かめるように声にすると、彼はそうだと少し面倒そうに小さく頷いた。


なんということでしょう。

てっきり使ってない家にボディーガードの人と住むのかと思っていた私。

けれど蓋を開ければ、すでに家主がいて居候の身としてお世話になるという事実。

これでは確かに彼の態度が素っ気ないのも納得だ。




「す、すみません! そんな話とは知らなくて! あの、お世話になる話はなかったことにしていただいて──」

「理由は聞いている」


焦って居候の件をキャンセルしようとした私の言葉を、鋭い声色で断ち切った彼。


「ストーカーに困っているんだろ?」

「はい……」


素直に頷くと、彼は中途半端に開いていた玄関扉に寄りかかり腕を組んで。


「本来なら絶対に断る話だが、あの人の頼みだ。特別に、引越しが可能になるまでは置いてやる。ただし、俺が無理だと思うようなことがあればすぐに追い出す。いいな」


淡々と、けれど威圧するように言い放った。

綺麗な顔からは想像もつかないきつい態度に、つい頬が引きつる。

なんだかもう帰りたい気分になってきたけど、有無を言わさないような感じで「とにかく入れ」と促され、断ることも出来ないまま、私は広い玄関ホールへと足を踏み入れた。

色味の抑えられた高級感溢れる玄関ホールは落ち着いた雰囲気で、彼には似合っているなと思った直後、ハタと気付く。

まだ彼の名を聞いていないのだ。


「すみません。私まだお名前を伺ってなくて」


もしかしたら社長から聞かされてるから紹介は必要ないと考えてるのかもしれない。

そう思って30畳近くはありそうな広いリビングダイニングに入ったところで言ったら、彼は振り向いて二重の瞳を僅か丸くする。


「知らないで来たのか?」

「も、申し訳ないです……」





本当、よく考えたら私ってば社長から細かいことは何も聞かされてなかった。

というか、聞いても「詳しくは行ってから」としか答えてもらえなかったし。

もっとしっかり聞くべきだったと反省していると、彼はこっちだと言いリビングの向こうに伸びる廊下へと進んでいく。

慌てて追いかければ、一番奥、突き当たりの部屋の扉を開けた彼。


「この部屋を貸す。ベッドや家具は好きに使ってかまわない」

「は、はい。ありがとうございます」

「俺はこれから出掛ける。帰りは遅くなるから、適当に過ごしてくれ。家のカードキーはダイニングテーブルに置いておく。それじゃあな」


半ば強引に会話を終わらせた彼は、リビングへと踵を返す。

すれ違いざま、シトラス系の爽やかな香りが鼻孔をくすぐって。

振り返る雰囲気が微塵もない彼の背中を見送ってから部屋に入った。

手にした鞄を部屋の奥の方に設置された大きなベッド脇に置き、改めて部屋を見渡す。

壁には東京の景色を見渡せる仕切りのない大きな窓。

部屋の中央には丸いガラスのコーヒーテーブルと、一人がけ用の赤茶色した革ソファーが二つ。

そして、何故かここに入ってきた扉以外にも扉が二つある。

確かめてみれば、一つは三畳程のウォークインクローゼットと、もう一つは。


「バスルーム! ゲストルーム用ってこと!?」


ほとんどの一般人には馴染みがないだろう、お客様用のバスルームがあった。




「トイレもちゃんとあるし、洗面台も大きい……」


なんかもう、食べ物さえあればこの部屋からほとんど出ないで生活ができそうだ。

居候だけど、これならあまり顔も合わせないだろうから、気を使う機会は減りそうでありがたい。

さっきまでお断りする気持ちが大きくなってたけど、ちょっと前向きに考えられそうだ。

そう思ったら少しだけ肩の力が抜けて、私は荷物を解く前に広いベッドに身体を投げ出した。
スプリングが心地よく私の体を受け止めてくれて、大の字で瞼を閉じる。


「……名前、聞きそびれちゃったな」


こんな高級マンションに住んでいて、社長と知り合いならそれなりの人なんだろう。

何をしている人なのか。

社長とはどんな関係なのか。

答えは得られることはなく、家の中で再び彼と会うこともなく、居候生活初めての朝を迎えることとなったのだった。