「で、どう説明するつもりだ?」
神社での一件から三日後、優馬は生徒会長の滝上正樹と対峙していた。
それも一対一の差し向かい。他の役員たちは全員出払っている。
場所は新校舎の生徒会室。さすがと言うべきか、オカ研とは違い空調が行き届いている。そんな快適空間にいれば、既に梅雨明けしたのではと思わせる外の熱気がまるでうそのよう、となるはずだったのだが。
優馬は落ち着きなく体を揺すらせていた。
何やらうすら寒いのだ。
外は町が溶け出しそうなくらいの炎天下で、運動場は白く乾ききり、時折吹く風に砂埃を舞い上げている。にもかかわらず部屋の中は吐いた息が白く曇りそうなほどなのだ。制服の白い半そでシャツが何とも場違いで頼りなく、優馬のやせっぽちな体から容赦なく熱を奪い取る。
とは言うものの、「部屋が寒いです」などと言えるはずもなく、俯いたままだんまりを決め込んでいる。傍から見ればその姿はいじめられっ子そのもの。コーナーに追い込まれたまま繰り出されるパンチをただ食らい続けているようにしか見えない。
「答えられんのか」
少し鼻に抜けた声の響きは問いかける、というにはほど遠い。むしろ答えられないことを十分に分かった上でなお無抵抗な相手をいたぶり反応を楽しむ。そんな、いくら拭っても落ちないようなしつこい粘り気に満ちている。
──そんなこと言われたって説明しようがないじゃないか!
そうなのである。
いくら言ってみたところで、穏やかに済ませられる内容ではない。
けれども、あまりにも突込みどころが多すぎて到底理解されるような話ではない。
それが分かっているからこその沈黙、である。
そういう意味では、ただやられっぱなしだった前回とはやや趣が違っている。ヘタレなりの進歩があった、と言えないこともない。が、廃部寸前とは言え部長であるからには一国一城の主、歯がゆいものは歯がゆいのだ。
悔しさを隠しきれない優馬は、唇をぎゅっと噛みしめる。
そんな優馬の秘めたる葛藤など知るはずもなく、生徒会長は顎を突き出し片方の眉を上げ気味にしたまま目を細めている。
優馬をばかにしきった表情の頬には相変わらずの絆創膏。けれども今日は位置が違う。以前貼られていた場所には何事もなかったかのように傷跡ひとつない。と思いきや今度は反対側の頬に張られている。しかも相変わらずの長そでシャツ姿なのだ。
──防寒対策?
仮にそうだとしても、空調を止めればいいだけのこと。わざわざ長そでを着ることに一体何の意味があるのか。優馬には掴めない。
「まあいい。今後、秋山君の退院を待って詳しく事情を聞かせてもらう。話の次第によっては即刻廃部もありうるが、異存ないな?」
「そんな」
「言い逃れできるなどと思うなよ? そもそもこれはお前たちが言い出した賭けの中で起きた問題だ。その上、やらかしたのはこともあろうに神聖たる神社の境内だ。今回の不祥事のために生徒会が手助けできることなど、一切ないと思い知れ」
──手助けなんて端からする気もないくせに!
と言うわけにもいかず、優馬はなおもだんまりを決め込んでいる。
そんな優馬の反応が物足りないのか、生徒会長はなおもしつこく絡みつく。
「聞いたところによると、警察が駆けつけた時には秋山君は気を失っていたそうじゃないか。か弱い女一人相手に何をしようとしていたのかは知らんが」
生徒会長は一旦言葉を区切り、優馬を睨みつける。それがよほど楽しいのか、口角は指で押したように上へ向かってつり上がり、逆に目尻は逆三日月を描くように両端を垂らしている。
視線を避けるように俯いた姿勢のまま、優馬は体を震わせていた。目を合わせないまでも、ただごとではない何かを感じる。
優馬には心当たりがあった、というよりもまだ残り火のように肌に残っている。神社の奥で出くわした、あの感覚だ。ただ、あれに比べれば遥かにまし、とも言えた。あちらが絵の具の原液ならば、生徒会長は筆洗バケツの濁り水だ。
──けど何で生徒会長が?
絆創膏といい、生徒会長については分からないことばかりが並ぶ。
「神隠しだか祟りだが知らんが、警察はろくに調査もしなかったらしいな。だが、俺の目はごまかせんぞ。いずれにせよ、ろくなことはしていないだろう。つくづく下衆な連中だな、お前らは。かくなる上は、廃部は元よりお前らの処遇についても考えなければなるまい。やはりオカルト研は百害あって一利なし、ということだ。俺の最後の仕事はオカルト研に関するもの全ての一掃、ということになるだろうよ」
──好き勝手言ってくれるよなあ。
胸に秘めたる怒りはふつふつと煮えたぎり、熱く体内を駆け巡る。
が、哀しいかなそこはヘタレと呼ばれる優馬のこと。やはり口に出せるわけもなく。
生徒会長は追及の手を緩めないどころか、さらに追い打ちをかけてくる。
「おい、何か言ってみろ。これだけ言われたら言いたいことの一つや二つ、ない方がおかしいというものだ。普通の人間であればそうだ。俺はこう見えて寛大なところもある。釈明したいことがあるのなら遠慮はいらん、言ってみろ。場合によっては、そうだな、お前たちの処遇についても猶予してやらんこともない。どうだ?」
もちろん、言いたいことなど山ほどある。聞きたいことも。が、ここは取りあえず黙秘する。巣穴から引きずり出され辱めを受けるよりは、ただ閉じこもる方を選ぶ。
「ありません」
「なんだと?」
突然、生徒会長の体は破裂したかのように膨れ上がった。少なくとも、優馬の目にはそう見えた。風圧のような何かに圧され、思わず上半身を仰け反らす。
だが、それだけでは済まなかった。
優馬を強い眩暈が襲ったのだ。とても立っていられない感覚に優馬は思わず机にしがみつく。視線を上げた優馬は、目に映った余りの様相に、自分の目と感覚とを疑わずにはいられなかった。
生徒会室は音もなく溶け始めていた。
教室を構成する直方体は整った形状を失い、生徒会長を中心とした渦を巻きながら捻じれていく。机も椅子も優馬の体も、渦に溶け合いながら捻じれていく。全身を引き伸ばされるような感覚に、正解かどうかも分からないまま優馬は目を閉じ歯を食いしばる。
それでも世界は、回転を緩めないどころかさらに勢いを増していく。
──潰される!
声にならない叫びを上げたその時、
「失礼します」
どこからか聞こえてくる、よく澄んだ声が生徒会室の空気を震わせた。と同時に、万力に挟まれ捩られたかのようだった優馬の体がふっと軽くなる。恐る恐る目を開けると、いつもと変わらない普段通りの生徒会室だった。
「入っていいぞ」
入って来たのは一人の女子生徒だった。肩までのボブカットは柔らかに仕上げられ、額の左横で髪を留める黄色いヘアピンがワンポイントになっている。知性を感じさせる目は穏やかな光に満ち、目の前に座る生徒会長を真っ直ぐに捉えて離さない。人目を引く整った顔立ちは、七瀬とは異なるタイプではあるものの秀麗な部類であることに違いはない。
優馬は女子生徒に見覚えがあった。というよりもむしろよく見知っている。幼なじみの姫野栞だ。
栞は生徒会副会長であり、生徒会のみならず教職員からも信頼されている。次期生徒会長候補筆頭との呼び声も高い。七瀬と優馬にとっては、小学校時代からの幼馴染みでもある。特に、優馬は小学校から今までずっと同じ学校に通い続けている。
栞は生徒会室に入りかけたところで優馬をちら見した。ほんの一瞬ではあったが、優馬の目には栞が自分に向けて微笑みかけたように見えた。
──なわけないか。
が、すぐに自分の感覚を否定する。
高校に進学して以降、優馬は栞に対して親しいどころか近寄りがたく思っていた。七瀬がいた頃こそ一緒に遊ぶ機会もあったものの、それも小学校までのこと。中学校に上がってからは次第に疎遠となり、高校からはろくな会話もない。
もともとの素質がいいせいか、優馬との距離が離れているあいだに栞は見違えるほどきれいになっていた。さらに成績上位で性格も申し分ない上に生徒会役員とくればもはや雲上人、零細研究会の部長ごときには完全に手が届かない別世界の住人となっている。
──栞が自分に向けて笑いかけるなんてこと、あるわけない。
だからこそ、変にいつもと違うものを見つけるよりは精神の平衡を選び踏み込まない。ヘタレと呼ばれる優馬の本領発揮であり、なけなしの処世術であった。
「滝上会長、部活動に関する来年度の予算配分について教頭先生よりお伺いしたいことがあるとのことです」
「分かった、すぐ行く。場所は?」
ついさきほどまでのことは一体何だったのか、生徒会長は何事もなかったかのように立ちあがるとそのまま扉に向かって一直線。
「職員室です。ご自身の席にいらっしゃいます」
「そうか。では鍵を預けておく。俺が戻らない場合は部屋を閉めておいてくれて構わない」
「いえ、お待ちしております」
「ん? 別に待っていなくていいぞ」
手のひらに鍵を受け取った栞は動くことも答えることもせず、ただ強い光を秘めた瞳で生徒会長を見上げた。
数秒にも満たない時間、二人は無言のまま見つめ合う。両者のあいだにどんなやり取りがされたのか。そんなことは優馬には分からない。生徒会長は諦めたように脱力すると、根負けとでも言うようにふーっと息を吐きだした。
「まあいい、好きにしてくれ。そうだな、ただの留守番もつまらんだろうから書類整理を頼む。回覧済みの書類が戻ってきているはずだ」
「ありがとうございます」
たったそれだけのそっけないやり取りを終え、軽く頭を下げるその横顔はけれどもどこか楽しげだった。
「おい、お前」
「は、はいっ」
そんな栞の横顔に半ば見惚れていた優馬は、慌てて顔を上げ「気を付け!」とばかりに直立する。
「まだ話は終わっていないが、今日のところはここまでだ。後日改めて話を聞かせてもらう。いいか、忘れるなよ」
先ほどとは打って変わって、穏やかな笑みを浮かべたまま生徒会長は背中を向ける。
──あ!
優馬は、寸でのところで声に出すのを踏みとどまる。扉へ向かう生徒会長の首筋。そこにゴルフボールくらいの黒い痣があった。シャツの襟から半分はみ出すような格好で顔をのぞかせている。だが、仮に病気だとしても聞いたことがない。しかもあれだけ大きければすぐに誰かが気づくはず。
──いや、これも何かの見間違いだろう。
優馬は瞼を強く閉じ、首をふるふると振った。一昨日から昨日にかけての疲れがまだ抜けてないらしい。そう思いながら優馬は指先でこめかみを軽く擦った。
神社での一件から三日後、優馬は生徒会長の滝上正樹と対峙していた。
それも一対一の差し向かい。他の役員たちは全員出払っている。
場所は新校舎の生徒会室。さすがと言うべきか、オカ研とは違い空調が行き届いている。そんな快適空間にいれば、既に梅雨明けしたのではと思わせる外の熱気がまるでうそのよう、となるはずだったのだが。
優馬は落ち着きなく体を揺すらせていた。
何やらうすら寒いのだ。
外は町が溶け出しそうなくらいの炎天下で、運動場は白く乾ききり、時折吹く風に砂埃を舞い上げている。にもかかわらず部屋の中は吐いた息が白く曇りそうなほどなのだ。制服の白い半そでシャツが何とも場違いで頼りなく、優馬のやせっぽちな体から容赦なく熱を奪い取る。
とは言うものの、「部屋が寒いです」などと言えるはずもなく、俯いたままだんまりを決め込んでいる。傍から見ればその姿はいじめられっ子そのもの。コーナーに追い込まれたまま繰り出されるパンチをただ食らい続けているようにしか見えない。
「答えられんのか」
少し鼻に抜けた声の響きは問いかける、というにはほど遠い。むしろ答えられないことを十分に分かった上でなお無抵抗な相手をいたぶり反応を楽しむ。そんな、いくら拭っても落ちないようなしつこい粘り気に満ちている。
──そんなこと言われたって説明しようがないじゃないか!
そうなのである。
いくら言ってみたところで、穏やかに済ませられる内容ではない。
けれども、あまりにも突込みどころが多すぎて到底理解されるような話ではない。
それが分かっているからこその沈黙、である。
そういう意味では、ただやられっぱなしだった前回とはやや趣が違っている。ヘタレなりの進歩があった、と言えないこともない。が、廃部寸前とは言え部長であるからには一国一城の主、歯がゆいものは歯がゆいのだ。
悔しさを隠しきれない優馬は、唇をぎゅっと噛みしめる。
そんな優馬の秘めたる葛藤など知るはずもなく、生徒会長は顎を突き出し片方の眉を上げ気味にしたまま目を細めている。
優馬をばかにしきった表情の頬には相変わらずの絆創膏。けれども今日は位置が違う。以前貼られていた場所には何事もなかったかのように傷跡ひとつない。と思いきや今度は反対側の頬に張られている。しかも相変わらずの長そでシャツ姿なのだ。
──防寒対策?
仮にそうだとしても、空調を止めればいいだけのこと。わざわざ長そでを着ることに一体何の意味があるのか。優馬には掴めない。
「まあいい。今後、秋山君の退院を待って詳しく事情を聞かせてもらう。話の次第によっては即刻廃部もありうるが、異存ないな?」
「そんな」
「言い逃れできるなどと思うなよ? そもそもこれはお前たちが言い出した賭けの中で起きた問題だ。その上、やらかしたのはこともあろうに神聖たる神社の境内だ。今回の不祥事のために生徒会が手助けできることなど、一切ないと思い知れ」
──手助けなんて端からする気もないくせに!
と言うわけにもいかず、優馬はなおもだんまりを決め込んでいる。
そんな優馬の反応が物足りないのか、生徒会長はなおもしつこく絡みつく。
「聞いたところによると、警察が駆けつけた時には秋山君は気を失っていたそうじゃないか。か弱い女一人相手に何をしようとしていたのかは知らんが」
生徒会長は一旦言葉を区切り、優馬を睨みつける。それがよほど楽しいのか、口角は指で押したように上へ向かってつり上がり、逆に目尻は逆三日月を描くように両端を垂らしている。
視線を避けるように俯いた姿勢のまま、優馬は体を震わせていた。目を合わせないまでも、ただごとではない何かを感じる。
優馬には心当たりがあった、というよりもまだ残り火のように肌に残っている。神社の奥で出くわした、あの感覚だ。ただ、あれに比べれば遥かにまし、とも言えた。あちらが絵の具の原液ならば、生徒会長は筆洗バケツの濁り水だ。
──けど何で生徒会長が?
絆創膏といい、生徒会長については分からないことばかりが並ぶ。
「神隠しだか祟りだが知らんが、警察はろくに調査もしなかったらしいな。だが、俺の目はごまかせんぞ。いずれにせよ、ろくなことはしていないだろう。つくづく下衆な連中だな、お前らは。かくなる上は、廃部は元よりお前らの処遇についても考えなければなるまい。やはりオカルト研は百害あって一利なし、ということだ。俺の最後の仕事はオカルト研に関するもの全ての一掃、ということになるだろうよ」
──好き勝手言ってくれるよなあ。
胸に秘めたる怒りはふつふつと煮えたぎり、熱く体内を駆け巡る。
が、哀しいかなそこはヘタレと呼ばれる優馬のこと。やはり口に出せるわけもなく。
生徒会長は追及の手を緩めないどころか、さらに追い打ちをかけてくる。
「おい、何か言ってみろ。これだけ言われたら言いたいことの一つや二つ、ない方がおかしいというものだ。普通の人間であればそうだ。俺はこう見えて寛大なところもある。釈明したいことがあるのなら遠慮はいらん、言ってみろ。場合によっては、そうだな、お前たちの処遇についても猶予してやらんこともない。どうだ?」
もちろん、言いたいことなど山ほどある。聞きたいことも。が、ここは取りあえず黙秘する。巣穴から引きずり出され辱めを受けるよりは、ただ閉じこもる方を選ぶ。
「ありません」
「なんだと?」
突然、生徒会長の体は破裂したかのように膨れ上がった。少なくとも、優馬の目にはそう見えた。風圧のような何かに圧され、思わず上半身を仰け反らす。
だが、それだけでは済まなかった。
優馬を強い眩暈が襲ったのだ。とても立っていられない感覚に優馬は思わず机にしがみつく。視線を上げた優馬は、目に映った余りの様相に、自分の目と感覚とを疑わずにはいられなかった。
生徒会室は音もなく溶け始めていた。
教室を構成する直方体は整った形状を失い、生徒会長を中心とした渦を巻きながら捻じれていく。机も椅子も優馬の体も、渦に溶け合いながら捻じれていく。全身を引き伸ばされるような感覚に、正解かどうかも分からないまま優馬は目を閉じ歯を食いしばる。
それでも世界は、回転を緩めないどころかさらに勢いを増していく。
──潰される!
声にならない叫びを上げたその時、
「失礼します」
どこからか聞こえてくる、よく澄んだ声が生徒会室の空気を震わせた。と同時に、万力に挟まれ捩られたかのようだった優馬の体がふっと軽くなる。恐る恐る目を開けると、いつもと変わらない普段通りの生徒会室だった。
「入っていいぞ」
入って来たのは一人の女子生徒だった。肩までのボブカットは柔らかに仕上げられ、額の左横で髪を留める黄色いヘアピンがワンポイントになっている。知性を感じさせる目は穏やかな光に満ち、目の前に座る生徒会長を真っ直ぐに捉えて離さない。人目を引く整った顔立ちは、七瀬とは異なるタイプではあるものの秀麗な部類であることに違いはない。
優馬は女子生徒に見覚えがあった。というよりもむしろよく見知っている。幼なじみの姫野栞だ。
栞は生徒会副会長であり、生徒会のみならず教職員からも信頼されている。次期生徒会長候補筆頭との呼び声も高い。七瀬と優馬にとっては、小学校時代からの幼馴染みでもある。特に、優馬は小学校から今までずっと同じ学校に通い続けている。
栞は生徒会室に入りかけたところで優馬をちら見した。ほんの一瞬ではあったが、優馬の目には栞が自分に向けて微笑みかけたように見えた。
──なわけないか。
が、すぐに自分の感覚を否定する。
高校に進学して以降、優馬は栞に対して親しいどころか近寄りがたく思っていた。七瀬がいた頃こそ一緒に遊ぶ機会もあったものの、それも小学校までのこと。中学校に上がってからは次第に疎遠となり、高校からはろくな会話もない。
もともとの素質がいいせいか、優馬との距離が離れているあいだに栞は見違えるほどきれいになっていた。さらに成績上位で性格も申し分ない上に生徒会役員とくればもはや雲上人、零細研究会の部長ごときには完全に手が届かない別世界の住人となっている。
──栞が自分に向けて笑いかけるなんてこと、あるわけない。
だからこそ、変にいつもと違うものを見つけるよりは精神の平衡を選び踏み込まない。ヘタレと呼ばれる優馬の本領発揮であり、なけなしの処世術であった。
「滝上会長、部活動に関する来年度の予算配分について教頭先生よりお伺いしたいことがあるとのことです」
「分かった、すぐ行く。場所は?」
ついさきほどまでのことは一体何だったのか、生徒会長は何事もなかったかのように立ちあがるとそのまま扉に向かって一直線。
「職員室です。ご自身の席にいらっしゃいます」
「そうか。では鍵を預けておく。俺が戻らない場合は部屋を閉めておいてくれて構わない」
「いえ、お待ちしております」
「ん? 別に待っていなくていいぞ」
手のひらに鍵を受け取った栞は動くことも答えることもせず、ただ強い光を秘めた瞳で生徒会長を見上げた。
数秒にも満たない時間、二人は無言のまま見つめ合う。両者のあいだにどんなやり取りがされたのか。そんなことは優馬には分からない。生徒会長は諦めたように脱力すると、根負けとでも言うようにふーっと息を吐きだした。
「まあいい、好きにしてくれ。そうだな、ただの留守番もつまらんだろうから書類整理を頼む。回覧済みの書類が戻ってきているはずだ」
「ありがとうございます」
たったそれだけのそっけないやり取りを終え、軽く頭を下げるその横顔はけれどもどこか楽しげだった。
「おい、お前」
「は、はいっ」
そんな栞の横顔に半ば見惚れていた優馬は、慌てて顔を上げ「気を付け!」とばかりに直立する。
「まだ話は終わっていないが、今日のところはここまでだ。後日改めて話を聞かせてもらう。いいか、忘れるなよ」
先ほどとは打って変わって、穏やかな笑みを浮かべたまま生徒会長は背中を向ける。
──あ!
優馬は、寸でのところで声に出すのを踏みとどまる。扉へ向かう生徒会長の首筋。そこにゴルフボールくらいの黒い痣があった。シャツの襟から半分はみ出すような格好で顔をのぞかせている。だが、仮に病気だとしても聞いたことがない。しかもあれだけ大きければすぐに誰かが気づくはず。
──いや、これも何かの見間違いだろう。
優馬は瞼を強く閉じ、首をふるふると振った。一昨日から昨日にかけての疲れがまだ抜けてないらしい。そう思いながら優馬は指先でこめかみを軽く擦った。