「見ろよ、こいつ鼻血出してるぜ!」

「うわー、かっこわりぃー!」

「気持ち悪ぃ。きったねーっ!」

 子供たちの口汚い罵り声が、切り立った崖に響き渡った。さらはいくつもの笑い声まで入り混じり、意識が戻りきらないままでいる優馬を執拗に責め立ててくる。その上、真夏の太陽の日差しはろくに日焼けしていない優馬を容赦なく痛めつけた。

「ヘ・タ・レ! ヘ・タ・レ!」

 優馬をぐるり取り囲んでいた子どもたちのうちの一人が、手を叩いて調子を取り、一際よく響く声で叫び始めた。

「ヘ、タ、レ! ヘ、タ、レ!」

「ヘ、タ、レ! ヘ、タ、レ!」

 呼応するように周りの子どもたちも調子を合わせて連呼し、さらには頭を上下に振り両脚を高く上げ下げしながら優馬の周りをぐるぐると回り始める。

 無抵抗な獲物を見つけた子どもたちは残酷だった。

 目を大きく見開き、歯をむき出しにした表情は、普段決して得られることのない昂ぶりへの陶酔そのものだった。けれども、彼らは自らの中に巣食う悪意を自覚するには余りにも未熟だった。善も悪もない世界の中で、ただ本能と欲望のまま純粋に快楽を求めたにすぎない。ゆえに自分たちのやっていることがいじめの類であることすら、分からなかったに違いない。

 とは言え、都会からやってきた新参者に対する洗礼とでもいうべき彼らの手荒な歓迎は、人格そのものを大きく変えてしまうほどのインパクトで優馬を打ちのめしていた。 
 子どもたちのからかいは収まるどころか次第に妙な熱気を帯びつつあった。身体の動きには次第に大げさな身振りが加わり、嘲りと笑い声は一刻も早くこの地獄をやりすごしたいと願う心の奥底まで優馬を執拗に追いかけてくる。
 
 優馬は、心が押しつぶされそうになるのをどうしていいのか分からなかった。鉛のような何かが行く手を阻み、あらゆる角度から自分に向かって迫って来る。

「お前はいつまでもヘタレのまま閉じこもっていればそれでいい」とでも言われているようだった。

 そんな中、一人の少女が倒れている優馬に無遠慮に身を寄せ、顔を覗きこんできた。男の子たちと同様真っ黒に日焼けした上にショートカットなこともあって、水着姿でなければ男の子と見間違えられてもおかしくない風貌をしている。
 
 ──これは……七瀬?
 
 少女はなおも優馬を見つめていたが、肩を小刻みに震わせ始めた。
 
 何かと思った優馬が様子をうかがっているうちに少女の肩の震えは収まるどころか次第に大きくなり、こみ上げる笑いを堪え切れないとでも言うように緩みきった表情の顔を上げた。指先は、何のためらいもなく真っ直ぐに優馬の顔に向けられている。

「ぷっ……こいつ……気絶しながら鼻血出してやがんの。……かっこ悪っ」

 ついには押し殺した笑いを堪え切れず、お腹を抱えヒィヒィと品のない笑い声を上げ始めた。

 他の子どもたちも、同様に鼻血をわざわざ確認しては歓声を上げた。不快を口にする一方で、表情は完全に緩みきっている。

「ヘ、タ、レ! ヘ、タ、レ!」

「ヘ、タ、レ! ヘ、タ、レ!」

 優馬を誰一人として気づかうことのないまま、子供たちのボルテージはさらに上がっていく。声も体の動きも、ますます調子付き、大げさになっていく。
優馬はどこか違和感を感じていた。

「ヘ、タ、レ! ヘ、タ、レ!」

 とそこへ、少女が他の子どもたちの輪に入りはやしたて始めた。

 ──違う! 七瀬じゃない!
 
 確かにこの時期の七瀬は男の子たちの言葉遣いを真似ていたからこんな物言いをしたとしてもおかしくはない。それでも優馬には確信があった。
 
 ──そうだ。あの時の七瀬は少しも笑ってなんていなかったんだ。
 
 優馬はあの日の七瀬の行動をまざまざと思い出すのと同時に、自分が置かれている状況を理解しつつあった。
 
 確かに崖の上までは七瀬は優馬をからかい気味に挑発していた。

「もしかして怖いの?」

 そういって七瀬が意地悪く笑っていたことを、今でも強烈に覚えている。
けれども、優馬が飛び込んだ後は違っていた。後から冷やかし混じりに聞かされた話ではあったが、気を失ったまま浮かんでこなかった優馬を引き上げ、岸まで運び上げてくれたのは他でもない七瀬だったのだ。それどころか、ずっと傍を離れずに名前を呼び続けていてくれたらしい。

 このことは優馬もうっすらと覚えている。朦朧とする中、七瀬が自分を呼んでくれていたような気がしていたし、手遅れになる前に意識を回復できたのもこのためだったと思っている。

 だからこそ、七瀬が自分を罵倒することなど、仮に記憶違いがあったとしてもあるわけがなかった。何より、当時の優馬は七瀬の名前そのものを知らなかったのだ。
優馬は確信した。

 迷うことなど、もう何もなかった。

 改めてかつての自分を笑い物にする連中一人一人の顔をよく見てみれば、見覚えのないというよりも人間ですらない異形としか言いようのない何かだった。

 顔や体をかたどる輪郭が歪んでいて、左右の対照を保った部分が一つもない。顔も顔とて、パーツが足りないかそれとも過剰にあるか、仮に数が合っていたとしてもそれぞれの位置や大きさがでたらめだった。出来損ないの福笑いがいくつも並んでいるようだった。

 優馬は悲鳴を上げそうになるのをぐっとこらえ、異形たちを見返した。

「これは僕の記憶なんかじゃない。お前たちは偽物だ!」

 自分でも驚くくらいの語気で言い放った。異形たちはなおも品のない笑いを浮かべていたが、次第に形を歪めついには一人残らず消え去ってしまった。

 異形たちがいなくなってみると、滝も淵も崖も木々も、何もかもがなくなっていた。あとにはただ、永遠の時を煮詰めたような暗闇だけがあった。

 優馬はそこへ手をついてしゃがみこんでいた。

 一瞬目がおかしくなったのかと思いつつ周囲を見回してみても、改めて見えてくるものなど何もなかった。当然、自分がどのような場所にいるかなど全く把握できない。

 ──僕は七瀬を追いかけて洞窟に入って……そうか。

 洞窟に踏み込んだところまではいいものの、殆ど何もできなかった。七瀬を呼んでみたところで返事はなく、そうこうしているうちにアッパーカットを食らったような強烈な揺さぶりに膝から崩れ落ちてしまっていた。

 次に気付いた時には、既に異形に囲まれていたのだ。掌に感じるのは、先ほどまで足元にあった大柄な石や草の感触ではない。ざらざらとした無機質な感触が、明らかにここが淵とは違う場所であることを告げている。

 ──つまりここは化け物たちが作った世界ってことか。

 自分が抱く感覚、発想がそもそも物理的にあり得ないことくらいは優馬自身よく分かっている。が、ここ最近体験した通常であればあり得ないことの数々ですっかり慣れてしまっていた。若葉と会ったのも、彼女が作り出した独自の空間だった。そのせいで、今自分が置かれた状況についても「そんなものか」という程度でしかなくなっていた。

 ふと気付けば、鼻を圧迫する感覚がなくなっていた。触ってみると、いつの間に外れたのか詰めてあったはずのティッシュがなくなっている。そのためじわじわと滲み出た鼻血は顔から顎、さらにはシャツの胸辺りまでを生温かく濡らしていた。

 血の色を見るまでもなく、優馬は鼻血であることを理解していた。これまでに繰り返し鼻血を流し続けてきた優馬にとってどうというほどのことでもなかった。

 優馬は小さなため息とともにズボンポケットに忍ばせていたティッシュを数枚取り出し、顔に付いた血を拭きとった。さらに、残しておいた一枚を慣れた手つきで丸め、まだ血が収まりないでいる鼻にそっと詰めた。

 優馬は鼻血の処置を終えたところで立ち上がろうとしたものの、膝から手を離しかけたところでバランスを失い、尻もちをついた。暗闇の中にいるということは、目を閉じてたままでいるのに等しい。身体の平衡を取ろうにも目星になるものが余りにも少なかった。

 だからと言ってこのままただじっとしているわけにはいかなかった。

「七瀬! いたら返事してくれよ! 七瀬、七瀬!」

 改めて七瀬を呼びかけるも、声は反響するどころか暗闇に吸い取られるように発散し、何の反応も返ってこない。それでも優馬は根気強く呼び続け七瀬の反応を待った。

 ひょっとしたら、聞こえているにも関わらず敢えて黙っているのかもしれない。そんなことを考えたのだ。自分がこうして連れ戻しにやってきたのが気に入らなくて無視を決め込むくらいのことは、七瀬ならやってもおかしくないと感じていた。

 けれどもいくら呼びかけたところで、七瀬からの反応はなかった。優馬は肩で息をしながら、呼べば何とかなるかもしれないという考えを改めざるを得なかった。

 優馬が途方に暮れていると、胸ポケットの辺りが光を放ち始めた。といっても光はほんの微かで、周囲を照らすことは叶わない。優馬はポケットに手を入れ、光の元を取り出した。

 光の元は、優馬が出がけに持ち出した一枚の写真だった。写真はわずかに熱を持ちながら、優馬の手の中で仄かなオレンジ色の光を放っている。

 が、写真の裏面に滑りを感じた優馬は、嫌な予感を抱きながらくるりと写真を裏返した。予感した通り、写真はねっとりと生温かい液体に濡れていた。優馬が顔を近づけてみると、濃厚な鉄の臭いが鼻をついた。

 優馬は落胆せずにいられなかった。せっかく正明が遺してくれた貴重なヒントを、むざむざと血で汚してしまった。自分は肝心な時にいつも上手く行かない。淵で飛び込んだ時も、神社に調査に来た時も、いつだってそうだ。

 などと考えているところへ、写真が一際光を増したかと思うと優馬の手の中からふわふわと宙に浮かびあがった。

 何が始まるのか。

 優馬が呆然と見つめる中、写真は宙に浮いたまま紙面を揺らめかせ始めると長方形の輪郭を柔らかく波打たせ、ついには淡い光を放つ一羽の蝶となって暗闇の中を舞っていた。

 優馬は、自分でも気付かないうちに立ちあがっていた。

 小さな放物線を繰り返し描きながら、蝶は優馬の目の前を音もなく飛び続けている。

 鼻血と写真が合わさったことで写真が蝶になった。そこまでは辛うじて分かるものの、どんな仕組みによるのかは皆目見当もつかなかった。ただ、今はその蝶だけが唯一の手がかかりであることは間違いなかった。

 とにかく七瀬を助け出すためのヒントが欲しい。そんなことを思っていると、蝶は闇の中を一定の方向へ向けて飛び始めた。 

 ──蝶が行く先に七瀬がいる!

 そうとしか思えなかった。他でもない七瀬の両親の写真が示すのだ。加えて、鼻血は危険を知らせるレーダーのようなものらしい。だったら、行き先は一つしかない。優馬は物言わぬ蝶に励まされた気がした。今度は、蝶を目印にできる分だけ体勢を保つのはずっと容易に感じられた。

 優馬は、蝶の飛ぶ方向へ向かって走り始めていた。