栞が戻ってみると、生徒会長の状況はさらに悪化していた。
優馬のところにいたわずかなあいだにシャツは鮮血で染まり、床下には身体を中心に血だまりができ始めている。肩に掛けられた毛布も血に塗れ、ところどころを赤黒く染めていた。栞の目には、ついに溢れだした呪いが生徒会長の残された命を残さず吸い尽くそうとしているようだった。
余りにも切羽詰まった状況に、周りにいる生徒会役員たちもどうしていいのか分からず互いの青ざめた顔をうかがうばかり。教師たちは救急車の対応や各所への連絡に追われ、出払ってしまっている。
栞は思わずその場に崩れ落ちそうになるのを何とか堪え、身動きできずにいる役員たちに懸命に指示を飛ばした。
「滝上会長には私が付いてるから、あなたたちは先生方の指示に従って」
最後に精いっぱいの笑顔を作ってみせると、彼らは生徒会長と栞に向けて一礼し足早にその場をあとにした。
「滝上会長、お気を確かに。私です、栞です」
「あぁ……君か」
が、顔を上げようとするも生徒会長の目にいつもの自信に満ち溢れた光はどこにもなく、洞穴のように虚ろな瞳は栞の姿を捉えていなかった。意味するところを察した栞は、思わず息を飲んだ。
「まさか目が」
「ああ。見えんらしい」
どこか他人事のように語る生徒会長の言葉と口調に栞は言葉を失った。つい先ほどあの七瀬とやりあったばかりだというのに、生徒会長はいつ死んでもおかしくないまでに衰弱しきっていた。
「しっかりしてください。もうすぐ救急車が来ます」
栞は床に力なく転がっていた生徒会長の手を取り、両手で握りしめた。
生ぬるく滑る感覚に視線を移すと、生徒会長の手は塗られたばかりのペンキに触れたように血に染まり、それどころか絡ませた栞の白い指先をも侵食し始めていた。さらに視線を移せば、床の上にできた血だまりも少しずつ広がりを増している。
栞にとって震えあがらんばかりの光景だった。いくら意識しないようにしてみたところで、平然となどしていられるわけがなかった。
──落ち着け、落ち着け、落ち着け!
栞は何とか自分を落ち着かせようと目を閉じ、深呼吸を繰り返した。一方で心の中はすさまじい嵐が吹き荒れていた。自分を取り巻く状況が冗談か何かであればどんなにいいか。そう思う一方で自分の手にこびりつき鼻腔に鉄臭い匂いを漂わせているのは紛れもなく本物の血に違いなかった。
栞は今にも逃げだしそうになる衝動を必死に抑え、先ほど生徒会役員たちに見せた以上の微笑みを浮かべ生徒会長を見つめた。
自分が生徒会長の目に映ってはいないことくらい、織り込み済みだった。つまり生徒会長に向けられたものではなかった。顔の表面に笑みを作りながら、奥歯が砕けそうなほどに顎を噛みしめていた。
このタイミングで感情に押し流されてしまえば立ち直れないことを栞はよく理解していた。誰にも見られることのない笑みは、何とかして自分を鼓舞したいという気持ちの表れと言ってよかった。
「もう少しの辛抱です」
栞は改めて生徒会長の手を両手で握り直した。すっかり血の気が引いてしまっている指先からは既に熱が失われ、人の身体としてあってはならないところまで冷えてしまっていた。医学の知識もない栞にとっては、生物学的な危機なのか呪いによってもたらされた危機なのかもしくはその両方なのかを判別することは叶わない。
──もう負けたくない。
それでも気持ちを保っていられるのは、極めて単純な気持ちが栞を突き動かし続け、絶望の淵へ転げ落ちるのを食い止めているからだった。闘うべき相手が呪いだろうと七瀬だろうと、どうでもよくなっていた。
「無駄だ。呪いの力が全身に回り切ってしまった。こうなっては……手遅れだ」
苦しげに語る言葉に抗うように、栞はできるだけやさしく生徒会長の背中に両腕を回し上半身を抱きしめた。季節にすこぶる似合わない、ひやりとした感覚に栞は思わず身震いした。
自分の身体の、生徒会長に触れている部分からみるみる熱が奪われて行くのがほんの僅かなあいだだけでもはっきりと感じられた。このまま続けていたら、むしろ自分の身体が持たなくなる。
この状況では、生徒会長の指先が冷たくなっているのはむしろ当然だった。生徒会長の身体はぞっとするほど冷え切り、生きた人の身体とは思えない感触を栞に伝えていた。
「やめろ……呪いがうつるぞ」
「私、滝上会長の側を離れません」
「やめろと言って」
生徒会長が言い終えないうちに、赤黒い血糊に塗れた唇を七瀬は自らの唇で塞いでいた。
光も感情も失っていた生徒会長の瞳が僅かに震えた。が、目を閉じている栞は気づかない。
「……これでも分かりませんか?」
栞は唇を離すと、生徒会長と同じく血に濡れた自分の唇を拭おうともせず挑むような目つきで生徒会長を見つめた。
「すまない」
「謝らないでください」
たった一言に込められた思いがいかばかりのものなのか。栞はこの期に及んでようやく生徒会長がひた隠しにしてきた思いの大きさ、強さに直に触れられた気がした。生徒会長の口からこぼれ出た言葉が、長いあいだ乾き続け、ひび割れていた栞の心を静かに潤していく。
「俺は君を」
生徒会長は言いかけたところで苦しげに顔を歪め、粘り気のある音と共に血を吐き出した。
「滝上会長!」
顔面に血を浴び、シャツが点々と血に染まっても栞は怯まなかった。それどころか、自分の上半身すら支えられず、重力任せにしなだれかかってくる生徒会長の上半身を肩で受け止め、丁寧に背中をさすった。
「止めてくれ……止めるんだ」
生徒会長は嗚咽を漏らすようにつぶやいた。
けれども、栞は生徒会長の声など聞こえないかのように手を休めることも身体を離すこともしなかった。
「死ぬのは俺だけでいい。なのに君を巻き込んでしまった」
口の中に溜まった血の塊をもはや吐き出すことすらできずに半開きになった口から零すと、無念の表情で目を閉じた。
「君を死なせたくない」
栞は驚きに大きく両目を見開いた。みるみる大粒の雫がたまり、溢れ出た涙は音もなく頬を伝い落ちる。
「よかった」
栞は頬を拭おうともせず、それどころかこれ以上幸せなことなどないかのように顔をほころばせた。
「私ずっと滝上会長から距離を置かれてるって感じていました。理由が分からなくて、辛くて。でもようやく理由が分かりました」
生徒会長の首筋に額を当て、栞はそっと目を閉じた。
「私、滝上会長のことが好きです。滝上会長のお側にいられることが、私にとって一番の幸せなんです」
栞の心は今や一点の曇りもなく晴れ渡っていた。ようやく生徒会長が自分への本心を明かしてくれた。今までの長く苦しい日々は決して無駄ではなかった。生徒会長に出会い、恋をした。諦めずにいたことを、心の底から誇らしいと感じていた。
けれども、生徒会長は栞の告白が済んでも返答することができなかった。眉間にしわを寄せ苦しげな表情を浮かべたまま呼吸をするのがやっとだった。だが、弱々しい呼吸を挟みつつも途切れ途切れに言葉を紡いだ
「たかだか生徒会……活動の範疇に過ぎんが……伝えられるものは……全て君に託した。後は……俺がいなくても君が」
「嫌です」
生徒会長が言い終えよりも早く、栞は半ばしがみつくように生徒会長を抱きしめる腕に力を込めた。
「私を置いていかないでください」
栞の必死の訴えに応えるように、生徒会長の両手の指先が震えるように動いた。苦しげに顔を歪めながら、なおも手を動かそうと試みた。
けれどもそれ以上指が動くことはなく、ましてや腕を上げるなどできるはずもなかった。生徒会長は諦めたように全身を脱力させると低く呻きながら息を吐き出し、見えることのない天を仰いだ。
「すまない」
生徒会長の弱々しい言葉に栞はただ首を振った。今の生徒会長にはたったそれだけの意思表示すら伝わらないと知りながらそうせずにはいられなかった。
「生きてください。それだけで十分です」
栞はより多く生徒会長の身体に触れるようにさらに身を寄せた。今にも息絶えそうな、冷え切った生徒会長の身体を自らの身体で温める。それだけが、致死の呪いに立ち向かうためにできるたった一つのことだった。
「人の身体は……温かいな」
呟きざま光すら失った生徒会長の両目から涙が溢れ、生臭いほどの血糊に塗れた頬を伝い落ちた。ずっと強張り続けていた生徒会長の表情からは力みが消え、悟りでも開いたかのように穏やかなものへと変わっていく。
そこでふと生徒会長はもはやどうでもいいことのように平坦な口調で語り始める。
「時々……意識が……ことがあった……あれは……やはり呪いか……だが今なら……人として……死ねる」
「嘘です!」
殆ど叫びに近いほどの声が廊下に響き渡った。
「せめて私の前では、本当のことをおっしゃってください!」
生徒会長は、栞が何を言っているのか分かっていないかのようにただぽかんと口を開けたまま栞の気配をうかがっていた。が、次第に生徒会長の顔は歪み始め、しまいには悔しげな表情を浮かべながら唇をかみしめた。
「……こんなところで」
生徒会長の顔が大きく歪み、口がわなわなと震えた。
「俺は……俺は死にたくない」
生徒会長はそう言って僅かに身を捩らせるのが精いっぱいで、後はもう栞に身体を支えられるしかなかった。
「いいんですよ」
栞は生徒会長の身体を受け止め、温かな微笑みを浮かべ抱きしめる。
「そんなことは、当たり前のことですから」
生徒会長は何も答えられなかった。代わりに顔を拭うことも隠すこともできず、滂沱の涙を流していた。
「優君、いえ、オカルト研究会の部長が神社へ向かっています。何をするつもりかは私には分かりません。ですがきっと彼が滝上会長の呪いを解いてくれるはずです。だから信じて待ちましょう」
「本気か」
「はい。あと伝言を預かりました。絶対に諦めるな、と」
生徒会長の顔に僅かながらに浮かんだのは驚きだった。けれどもほんの短い時間のことで、生徒会長はすぐにまた表情を変えてしまっていた。
「オカルト研め……往生際の悪い奴らだ……ならばせいぜい……足掻いて見せろ」
不敵な笑みを浮かべた表情は、栞がよく知っている生徒会長そのものだった。
栞は踊りだしたいくらいだった。呪いに抵抗できた。理不尽で残酷な死の宣告を押し戻すことができた。そう思った。けれども直後に全身から力が抜け、生徒会長は栞の腕の中へ崩れ落ちていた。
優馬のところにいたわずかなあいだにシャツは鮮血で染まり、床下には身体を中心に血だまりができ始めている。肩に掛けられた毛布も血に塗れ、ところどころを赤黒く染めていた。栞の目には、ついに溢れだした呪いが生徒会長の残された命を残さず吸い尽くそうとしているようだった。
余りにも切羽詰まった状況に、周りにいる生徒会役員たちもどうしていいのか分からず互いの青ざめた顔をうかがうばかり。教師たちは救急車の対応や各所への連絡に追われ、出払ってしまっている。
栞は思わずその場に崩れ落ちそうになるのを何とか堪え、身動きできずにいる役員たちに懸命に指示を飛ばした。
「滝上会長には私が付いてるから、あなたたちは先生方の指示に従って」
最後に精いっぱいの笑顔を作ってみせると、彼らは生徒会長と栞に向けて一礼し足早にその場をあとにした。
「滝上会長、お気を確かに。私です、栞です」
「あぁ……君か」
が、顔を上げようとするも生徒会長の目にいつもの自信に満ち溢れた光はどこにもなく、洞穴のように虚ろな瞳は栞の姿を捉えていなかった。意味するところを察した栞は、思わず息を飲んだ。
「まさか目が」
「ああ。見えんらしい」
どこか他人事のように語る生徒会長の言葉と口調に栞は言葉を失った。つい先ほどあの七瀬とやりあったばかりだというのに、生徒会長はいつ死んでもおかしくないまでに衰弱しきっていた。
「しっかりしてください。もうすぐ救急車が来ます」
栞は床に力なく転がっていた生徒会長の手を取り、両手で握りしめた。
生ぬるく滑る感覚に視線を移すと、生徒会長の手は塗られたばかりのペンキに触れたように血に染まり、それどころか絡ませた栞の白い指先をも侵食し始めていた。さらに視線を移せば、床の上にできた血だまりも少しずつ広がりを増している。
栞にとって震えあがらんばかりの光景だった。いくら意識しないようにしてみたところで、平然となどしていられるわけがなかった。
──落ち着け、落ち着け、落ち着け!
栞は何とか自分を落ち着かせようと目を閉じ、深呼吸を繰り返した。一方で心の中はすさまじい嵐が吹き荒れていた。自分を取り巻く状況が冗談か何かであればどんなにいいか。そう思う一方で自分の手にこびりつき鼻腔に鉄臭い匂いを漂わせているのは紛れもなく本物の血に違いなかった。
栞は今にも逃げだしそうになる衝動を必死に抑え、先ほど生徒会役員たちに見せた以上の微笑みを浮かべ生徒会長を見つめた。
自分が生徒会長の目に映ってはいないことくらい、織り込み済みだった。つまり生徒会長に向けられたものではなかった。顔の表面に笑みを作りながら、奥歯が砕けそうなほどに顎を噛みしめていた。
このタイミングで感情に押し流されてしまえば立ち直れないことを栞はよく理解していた。誰にも見られることのない笑みは、何とかして自分を鼓舞したいという気持ちの表れと言ってよかった。
「もう少しの辛抱です」
栞は改めて生徒会長の手を両手で握り直した。すっかり血の気が引いてしまっている指先からは既に熱が失われ、人の身体としてあってはならないところまで冷えてしまっていた。医学の知識もない栞にとっては、生物学的な危機なのか呪いによってもたらされた危機なのかもしくはその両方なのかを判別することは叶わない。
──もう負けたくない。
それでも気持ちを保っていられるのは、極めて単純な気持ちが栞を突き動かし続け、絶望の淵へ転げ落ちるのを食い止めているからだった。闘うべき相手が呪いだろうと七瀬だろうと、どうでもよくなっていた。
「無駄だ。呪いの力が全身に回り切ってしまった。こうなっては……手遅れだ」
苦しげに語る言葉に抗うように、栞はできるだけやさしく生徒会長の背中に両腕を回し上半身を抱きしめた。季節にすこぶる似合わない、ひやりとした感覚に栞は思わず身震いした。
自分の身体の、生徒会長に触れている部分からみるみる熱が奪われて行くのがほんの僅かなあいだだけでもはっきりと感じられた。このまま続けていたら、むしろ自分の身体が持たなくなる。
この状況では、生徒会長の指先が冷たくなっているのはむしろ当然だった。生徒会長の身体はぞっとするほど冷え切り、生きた人の身体とは思えない感触を栞に伝えていた。
「やめろ……呪いがうつるぞ」
「私、滝上会長の側を離れません」
「やめろと言って」
生徒会長が言い終えないうちに、赤黒い血糊に塗れた唇を七瀬は自らの唇で塞いでいた。
光も感情も失っていた生徒会長の瞳が僅かに震えた。が、目を閉じている栞は気づかない。
「……これでも分かりませんか?」
栞は唇を離すと、生徒会長と同じく血に濡れた自分の唇を拭おうともせず挑むような目つきで生徒会長を見つめた。
「すまない」
「謝らないでください」
たった一言に込められた思いがいかばかりのものなのか。栞はこの期に及んでようやく生徒会長がひた隠しにしてきた思いの大きさ、強さに直に触れられた気がした。生徒会長の口からこぼれ出た言葉が、長いあいだ乾き続け、ひび割れていた栞の心を静かに潤していく。
「俺は君を」
生徒会長は言いかけたところで苦しげに顔を歪め、粘り気のある音と共に血を吐き出した。
「滝上会長!」
顔面に血を浴び、シャツが点々と血に染まっても栞は怯まなかった。それどころか、自分の上半身すら支えられず、重力任せにしなだれかかってくる生徒会長の上半身を肩で受け止め、丁寧に背中をさすった。
「止めてくれ……止めるんだ」
生徒会長は嗚咽を漏らすようにつぶやいた。
けれども、栞は生徒会長の声など聞こえないかのように手を休めることも身体を離すこともしなかった。
「死ぬのは俺だけでいい。なのに君を巻き込んでしまった」
口の中に溜まった血の塊をもはや吐き出すことすらできずに半開きになった口から零すと、無念の表情で目を閉じた。
「君を死なせたくない」
栞は驚きに大きく両目を見開いた。みるみる大粒の雫がたまり、溢れ出た涙は音もなく頬を伝い落ちる。
「よかった」
栞は頬を拭おうともせず、それどころかこれ以上幸せなことなどないかのように顔をほころばせた。
「私ずっと滝上会長から距離を置かれてるって感じていました。理由が分からなくて、辛くて。でもようやく理由が分かりました」
生徒会長の首筋に額を当て、栞はそっと目を閉じた。
「私、滝上会長のことが好きです。滝上会長のお側にいられることが、私にとって一番の幸せなんです」
栞の心は今や一点の曇りもなく晴れ渡っていた。ようやく生徒会長が自分への本心を明かしてくれた。今までの長く苦しい日々は決して無駄ではなかった。生徒会長に出会い、恋をした。諦めずにいたことを、心の底から誇らしいと感じていた。
けれども、生徒会長は栞の告白が済んでも返答することができなかった。眉間にしわを寄せ苦しげな表情を浮かべたまま呼吸をするのがやっとだった。だが、弱々しい呼吸を挟みつつも途切れ途切れに言葉を紡いだ
「たかだか生徒会……活動の範疇に過ぎんが……伝えられるものは……全て君に託した。後は……俺がいなくても君が」
「嫌です」
生徒会長が言い終えよりも早く、栞は半ばしがみつくように生徒会長を抱きしめる腕に力を込めた。
「私を置いていかないでください」
栞の必死の訴えに応えるように、生徒会長の両手の指先が震えるように動いた。苦しげに顔を歪めながら、なおも手を動かそうと試みた。
けれどもそれ以上指が動くことはなく、ましてや腕を上げるなどできるはずもなかった。生徒会長は諦めたように全身を脱力させると低く呻きながら息を吐き出し、見えることのない天を仰いだ。
「すまない」
生徒会長の弱々しい言葉に栞はただ首を振った。今の生徒会長にはたったそれだけの意思表示すら伝わらないと知りながらそうせずにはいられなかった。
「生きてください。それだけで十分です」
栞はより多く生徒会長の身体に触れるようにさらに身を寄せた。今にも息絶えそうな、冷え切った生徒会長の身体を自らの身体で温める。それだけが、致死の呪いに立ち向かうためにできるたった一つのことだった。
「人の身体は……温かいな」
呟きざま光すら失った生徒会長の両目から涙が溢れ、生臭いほどの血糊に塗れた頬を伝い落ちた。ずっと強張り続けていた生徒会長の表情からは力みが消え、悟りでも開いたかのように穏やかなものへと変わっていく。
そこでふと生徒会長はもはやどうでもいいことのように平坦な口調で語り始める。
「時々……意識が……ことがあった……あれは……やはり呪いか……だが今なら……人として……死ねる」
「嘘です!」
殆ど叫びに近いほどの声が廊下に響き渡った。
「せめて私の前では、本当のことをおっしゃってください!」
生徒会長は、栞が何を言っているのか分かっていないかのようにただぽかんと口を開けたまま栞の気配をうかがっていた。が、次第に生徒会長の顔は歪み始め、しまいには悔しげな表情を浮かべながら唇をかみしめた。
「……こんなところで」
生徒会長の顔が大きく歪み、口がわなわなと震えた。
「俺は……俺は死にたくない」
生徒会長はそう言って僅かに身を捩らせるのが精いっぱいで、後はもう栞に身体を支えられるしかなかった。
「いいんですよ」
栞は生徒会長の身体を受け止め、温かな微笑みを浮かべ抱きしめる。
「そんなことは、当たり前のことですから」
生徒会長は何も答えられなかった。代わりに顔を拭うことも隠すこともできず、滂沱の涙を流していた。
「優君、いえ、オカルト研究会の部長が神社へ向かっています。何をするつもりかは私には分かりません。ですがきっと彼が滝上会長の呪いを解いてくれるはずです。だから信じて待ちましょう」
「本気か」
「はい。あと伝言を預かりました。絶対に諦めるな、と」
生徒会長の顔に僅かながらに浮かんだのは驚きだった。けれどもほんの短い時間のことで、生徒会長はすぐにまた表情を変えてしまっていた。
「オカルト研め……往生際の悪い奴らだ……ならばせいぜい……足掻いて見せろ」
不敵な笑みを浮かべた表情は、栞がよく知っている生徒会長そのものだった。
栞は踊りだしたいくらいだった。呪いに抵抗できた。理不尽で残酷な死の宣告を押し戻すことができた。そう思った。けれども直後に全身から力が抜け、生徒会長は栞の腕の中へ崩れ落ちていた。