女子生徒は、一体何者なのか。

 改めて、この疑問に行き当たる。
 
 優馬が所属するオカルト研究会は、部活動に昇格できないどころか廃部寸前の零細研究会で、しかも部員不足により廃部寸前という憂き目にあっている。当然、いくら活動に精を出したところで校内でも最も華やかな世界にそうそう触れられるわけがない。

 とはいえ、見覚えのない相手であることも間違いではなかった。一度見れば印象に残らないはずがないのに、である。

 と、そこへ不意に鼻の粘膜に生ぬるい感覚が伝った。

 優馬はパソコンの横に常設してある箱ティッシュから素早く二、三枚を抜き取ると、一枚を鼻の穴に押し当てた。残像が見えそうな早業で残りの紙を丸め、あてがっていたティッシュを外し代わりに挿し入れる。要した時間は、僅か五秒足らず。かれこれ十年ほどの時を重ねて研ぎ澄まされ、無駄のない動きは匠の域に達している。

「え、ちょっと、あんたなに鼻血出してんのよ」

 が、称賛の声とは程遠い批判じみた声を浴びせられる。

 まだ優馬の手に握られたままのティッシュには、濡れた光沢を帯びる鮮やかな赤色。ピュアパルプ100%使用、蛍光塗料を使わない自然な色合い(と箱の裏に書いてある)に強いコントラストを放っている。

「何? もしかして私のこと見て……変態!」

 女子生徒は汚いものでも見せられたように、忌々しげな感情をそのまま言葉にして吐き出した。
 
 無念な想いに目を閉じながら、優馬は両目のあいだ、鼻骨を強めにつまんだ。とはいうものの、この程度はもはや日常茶飯事。素早く立ち直り弁明を開始した。

「何だか知らないけど、たまに何の前触れもなく出るんだよ。鼻血」

 思い切り鼻声になるが、それも織り込み済みだ。

「ばっかじゃないの? そんな苦しい言いわけ……あ!」

 少女は両手を胸の前でぱん、と叩き、両目を丸く見開いた。

「あんた、もしかしてゆーたじゃない?」

「……いや、違うけど」

「違わないって! 鼻血だし、ヘタレっぽいし」

 ──ヘタレは余分なんだけどなあ。あと「ゆうた」じゃなくて「ゆうま」だし。

 中途半端に当たってる分だけ余計に腹が立つ。けれど、やる瀬ない思いを一体誰にぶつければいいのか。無念な思いは宙ぶらりんのまま漂い続ける。

「だっていきなり鼻血出すなんて、ゆーた以外いないもの」

「だからゆーたじゃなくてゆ・う・ま!」

「大して変わらないじゃない」

「いや、そういう問題じゃ」

 人の名前を間違えているというのに、女子生徒に反省の色は見られない。

「あーもうぐちゃぐちゃうるさいなー。じゃあ、ゆーまでいいよ!」

 ──呼ばれるのは僕の方なんですけど。

 などと思いつつ、優馬の疑問は相変わらず疑問のまま。そもそも、何故こうも自分のことを詳細に知っているのか。

「あ、そっか、名前言わなきゃ分かんないよね。私、七瀬よ。秋山七瀬。家の事情でこっちに戻ってきたの」

 優馬は既に傾げていた首をさらに深く傾けた。

「……もしかして、覚えてない?」

 七瀬はわずかに眉をひそめ、瞳に不安の色を浮かべる。優馬は顔を合わさないように視線を落とし、硬い動きでうなずいた。気まずい。圧倒的に気まずい。

「何よそれ。信っじらんない! 昔は散々私と遊んでたじゃない!」

 七瀬の目は恐ろしい角度で吊り上がり、顔は火のように赤く燃え上がる。固く閉じられた拳はぶるぶると震え、怒れる髪は今にも天を衝きそうだ。

 ──ホントに知らないし!

 傍から聞かれたらすごい誤解を受けそうな言葉に、優馬は思わず肩を縮ませる。けれどどう思い返してみても思い当たることなどないのだ。こんな少女に会ったことも、七瀬という名前にも。

「あ」

 が、七瀬はあっさり表情を和らげ、目尻を下げた。優馬に、周囲の気温まで一緒に下がっていくような錯覚を起こさせながら。

 にやにやといやらしい笑いを浮かべたまま、七瀬は優馬の表情を楽しむかのように再び身を屈めた。優馬の俯き加減な視線の先に七瀬が回り込む。

「『早く飛び込みなよ。もしかして怖いの?』」

 両者のあいだに訪れる、一瞬の沈黙。

「あぁーっ!」

 狭い部屋には十分すぎるほどの声を響かせ、優馬は思わず体を仰け反らせた。勢いの余り、体がパイプ椅子ごと後ろに転げ落ちそうになるのを窓枠下の壁に手を付いて何とかこらえる。ぷるぷると震える右手に力を込めながら、反動で元の位置まで起き上がりこぶし。

 ──そりゃ反則だよ!

 優馬の脳裏に走馬灯のように記憶が蘇ってくる。まだ小学生だった優馬がこの町に引っ越してきたばかりの頃に出会った、一人の女の子。髪は襟足がようやく首にかかるくらいのショートカットで、よく陽に焼けたその容貌は男の子と見間違えられてもおかしくない。

 優馬は何も知らないまま近所の子どもたちによって滝の轟音響く淵へと連れて行かれ、無理矢理高い崖から飛び込まされたのだ。

 何とか飛び込むまではできたものの豪快に腹打ちし、溺れかけたところを助けられた。さらに悪いことには、引き上げられた優馬の鼻は真っ赤な血で染まっていたのだ。

 間抜けな面が子どもたちの爆笑を誘ったのは言うまでもなく、付けられたあだ名が「ヘタレ」。不名誉なあだ名の呪いは、今もなお優馬を苦しめ続けている。

 おまけに、滝壺付近に自殺した若い女の幽霊が出るとか、気づいたら変なところに迷い込んでいた、などというありがたくない噂もあるおかげで淵に近づくことすらできずにいる。周りの子供たちが楽しげに過ごすのとは対照的に、優馬は夏が近づくたびに憂鬱な気分を味わう羽目となっていた。
 
 あの日、崖の上でみっともなく足を震わせる優馬をすぐ隣でからかっていた一人の少女。

 ──いた! 確かにこんな性格だった! 外見は……かなり違うけど。

 当時の少女を思い出してもなお、名前だけは漠として浮かんでこない。

「名前は聞いてなかったよ」

「あれ? 教えてなかったっけ?」

「だから聞いてないって。それに、あ、き」

「七瀬でいいよ」

「あ、うん。その……七瀬、はさ、知り合ってからすぐに引っ越してこの町からいなくなっちゃったよね。だから結局知らずじまいだったんだよ」

「そうだったかなー。ま、いいや。ところでこれ、何してるの?」

 七瀬はテーブルに散らばっている資料を指さした。机の上にはパンフレットや付箋を挟まれた郷土史の関連書籍、さらにそれらのコピー等が乱雑に重なりあい山となっている。

「新聞を作ってるんだよ。オカルト研究会だからオカルト新聞」

 七瀬は優馬が誇らしげに指さしているノートPCを横からのぞき込んだ。分厚い枠の液晶画面には、「徹底検証 龍神伝説の謎に迫る!」と大書きされた文書ファイルが画面一杯に開かれている。

「うわー、センス悪っ。もうちょっと何とかならないの? このタイトル」

「気に入ってたのに」

 心外だった。

 七瀬が部室に現れるのとちょうど同じタイミングで、優馬は出来上がったばかりの見出しを肴に会心の笑みを浮かべていたのだ。
 
 ──かっこいい。

 などと、心の中で呟いてみたりしていたのだ。なのに何とかならないのとはどういうことなのか。反論したい気持ちがないわけではない。

 が、気を取り直して壁に掲げられているパネルを見上げた。黄ばんだ和紙に、どこか楽しげな毛筆が踊っている。

「誰をも傷つけることなく、人を楽しませるべし」

「僕としてはあれを目指してるんだ」

 七瀬は感心した風に見つめていたものの、次第に表情を曇らせた。

「それはまあ分かったんだけど、あれ、何なの?」

「オカ研の部訓だよ。いつ誰が書いたかまでは知らないけど」

「何て言うか、あんまりオカルト研究会っぽくないね」

「その点については同意するけど、実際にやろうとすると結構難しいんだよ」

 優馬は、オカルト新聞の執筆者として、この言葉に込められているだろう想いを信じている。だからこそ、自分が思い描く理想として少しでも近づこうとささやかな努力を続けていた。

「ま、確かにそうかもね。とにかく面白おかしく書けばいいってもんじゃないだろうし」

 七瀬がうなずいているところへ、にわかに廊下が騒がしくなる。耳を澄ませてみると、どうやら数人の生徒たちが部室の扉を次から次へと開け閉めしながらこちらへ向けて近づいてきているようだった。

「ホントしつこいわね」 

 七瀬は忌々しげにつぶやきながら、先ほど自分が入ってきた扉を睨んだ。何が、と優馬が聞くよりも先に扉が開いた。