「……行くよ」
七瀬はそんな優馬の逡巡などには一切構わず、淵へと足を踏み入れた。水の色が急に濃くなる手前まで進んだところで全身を浸すと、七瀬は淀みのない動きで手を交互に出し、わずかな水音を辺りへ響かせながら対岸へ向けて進んで行った。
ついに対岸まで行きつくと再び勢いよく水を滴らせながら立ち上がり、先ほどのことなど何もなかったかのように優馬に向かって大きく手を振って見せた。
頬杖を突きながらぼんやりと眺めていた優馬は、釣られるように力なく片手を振り返す。
「夏休みだよー! 何もしないまま終わっちゃっていいのー? あのムカつく生徒会長にやられっぱなしでいいのー? このままでいいのー?」
いかにも七瀬らしい、張りのある声が切り立った崖に凛々と木霊する。
「いいわけないだろ」
「えっ? なに? 聞こえなーい」
優馬が地面に向かって吐き捨てるように呟くと、七瀬は追い打ちをかけるように声を張り上げた。
「そんな格好で危ないだろ!」
「なんか言ってることちがくなーい?」
図星を突かれた優馬は思わず息を飲むと、返す言葉を見つけられないまま苦い表情で後頭部を力なく掻いた。いくら優馬が誤魔化そうとしても、七瀬はそれを鋭く見抜いてしまう。
優馬は、本人すらまだ気づいていないであろう天才的な勘のようなものを、七瀬から感じずにはいられない。
「いいから大人しくしててくれよ!」
「だいじょーぶだってー。私、ちょっと探検してくるー!」
辛うじて言い返した、というよりも同じことを繰り返しただけの優馬に鼻歌でも歌いだしそうな軽い調子で答えると、七瀬は鱗のように折り重なる岩の上を慣れた調子で跳びはねて行ってしまった。
「何だ、中身は全然変わってないよ」
七瀬の様子に苦笑いを浮かべていた優馬は、体に溜まった熱を吐き出すかのように長いため息を吐くと脱力しながら表情を和らげた。
七瀬は優馬のことを振り返る素振りすら見せず、なお刺激を求めるかのように巨岩がそそり立つ岩場へと踏み込んで行く。少しずつ小さくなっていく姿を放心気味に眺めていた優馬は、自分が重要なことを忘れてしまっていることに気が付いた。七瀬にすっかりペースを乱され、頭から抜けてしてしまっていた。
「七瀬! 危ないから戻って!」
慌てて声を張り上げるも、七瀬は戻って来ない。
それどころか、返事すらない。
果たして声は届いたのか。
優馬の背中を冷たい汗が伝い落ちる。
──滝壺の近くには若い女の幽霊がいる。
──突然変な場所へ迷い込む。
あの話を思い出したのだ。
つい先ほどまでの甘酸っぱい気分は完全にどこかへ飛んでしまっていた。今や一刻の猶予もならなかった。
とはいうものの、怖いものは、やはり怖い。優馬はレジャーシートの上を落ち着かない様子でペタペタと歩き回り、「何が大丈夫だよ。全然懲りてないよ!」 七瀬が自身の鞄の上においてあったタオルとパーカーをリュックに放り込むと、サンダルも履かずに飛び出した。
勢いで出てきてしまった優馬ではあったが、元いた場所へ戻ろうとはしなかった。少しでも早くいかないと大変なことになるんじゃないか。そういった切羽詰まった危機感が優馬を走らせていた。淵の末端を取り囲むように連なる岩を飛び移りながら対岸へと渡ると、勢いのまま岩をよじ上った。
崖を上り切った先に、七瀬はいた。
「あ、優馬も来たんだ」
森の空気を味わうかのように両手を広げ深呼吸していた七瀬は、優馬に向かって振り向いた。緊張感の欠片もない様子に、優馬は全身から力が抜けるのを感じながらその場に膝を突き、地面に向けて大きくため息をついた。
「あれ、どうしたの?」
そんな優馬を、七瀬は上からのぞき込む。
「どうしたのじゃないよ。何の用意もなしにうろついたら危ないだろ。しかもそんな格好で」
「え、なに? もしかして心配してくれたわけ?」
自分を見返すことができずにいる優馬を、七瀬はにやついた表情で見下ろしている。
「当たり前だよ。ここがどういうところか全然分かってないよ!」
「何のこと?」
「とにかく! とっとと引き上げるよ」
有無を言わさず、優馬は七瀬の腕を掴んだ。とっさのことだった。一瞬遅れて、意識が追いついてくる。目でとらえた状況を裏付けるように、確かな感触が手のひらの中にあった。
「やだ、引っ張んないでよ」
七瀬の抗議じみた声に優馬は焦った。何を言われるか分かったものではない。
ところが、優馬は身構えようとするよりも先に驚きの余りその場に立ち尽くしていた。優馬たちは森の中にある崖の前にいた。崖には一本の洞窟があり、奥を見通すことはできない。洞窟の入り口に真新しい注連縄が張られている代わりに祠がないという以外は、光を浴びたあの場所とよく似ていた。
けれども何故こんなところにいるのか。つい先ほどまで淵から少し奥に入ったところにいたはずなのに。確かに森の中ではあった。けれども間違いなくこことは違う場所だったはず。
ここは一体どこなのか。優馬は、自分の目に見えるものが信じられなかった。七瀬も同様だった。
七瀬はそんな優馬の逡巡などには一切構わず、淵へと足を踏み入れた。水の色が急に濃くなる手前まで進んだところで全身を浸すと、七瀬は淀みのない動きで手を交互に出し、わずかな水音を辺りへ響かせながら対岸へ向けて進んで行った。
ついに対岸まで行きつくと再び勢いよく水を滴らせながら立ち上がり、先ほどのことなど何もなかったかのように優馬に向かって大きく手を振って見せた。
頬杖を突きながらぼんやりと眺めていた優馬は、釣られるように力なく片手を振り返す。
「夏休みだよー! 何もしないまま終わっちゃっていいのー? あのムカつく生徒会長にやられっぱなしでいいのー? このままでいいのー?」
いかにも七瀬らしい、張りのある声が切り立った崖に凛々と木霊する。
「いいわけないだろ」
「えっ? なに? 聞こえなーい」
優馬が地面に向かって吐き捨てるように呟くと、七瀬は追い打ちをかけるように声を張り上げた。
「そんな格好で危ないだろ!」
「なんか言ってることちがくなーい?」
図星を突かれた優馬は思わず息を飲むと、返す言葉を見つけられないまま苦い表情で後頭部を力なく掻いた。いくら優馬が誤魔化そうとしても、七瀬はそれを鋭く見抜いてしまう。
優馬は、本人すらまだ気づいていないであろう天才的な勘のようなものを、七瀬から感じずにはいられない。
「いいから大人しくしててくれよ!」
「だいじょーぶだってー。私、ちょっと探検してくるー!」
辛うじて言い返した、というよりも同じことを繰り返しただけの優馬に鼻歌でも歌いだしそうな軽い調子で答えると、七瀬は鱗のように折り重なる岩の上を慣れた調子で跳びはねて行ってしまった。
「何だ、中身は全然変わってないよ」
七瀬の様子に苦笑いを浮かべていた優馬は、体に溜まった熱を吐き出すかのように長いため息を吐くと脱力しながら表情を和らげた。
七瀬は優馬のことを振り返る素振りすら見せず、なお刺激を求めるかのように巨岩がそそり立つ岩場へと踏み込んで行く。少しずつ小さくなっていく姿を放心気味に眺めていた優馬は、自分が重要なことを忘れてしまっていることに気が付いた。七瀬にすっかりペースを乱され、頭から抜けてしてしまっていた。
「七瀬! 危ないから戻って!」
慌てて声を張り上げるも、七瀬は戻って来ない。
それどころか、返事すらない。
果たして声は届いたのか。
優馬の背中を冷たい汗が伝い落ちる。
──滝壺の近くには若い女の幽霊がいる。
──突然変な場所へ迷い込む。
あの話を思い出したのだ。
つい先ほどまでの甘酸っぱい気分は完全にどこかへ飛んでしまっていた。今や一刻の猶予もならなかった。
とはいうものの、怖いものは、やはり怖い。優馬はレジャーシートの上を落ち着かない様子でペタペタと歩き回り、「何が大丈夫だよ。全然懲りてないよ!」 七瀬が自身の鞄の上においてあったタオルとパーカーをリュックに放り込むと、サンダルも履かずに飛び出した。
勢いで出てきてしまった優馬ではあったが、元いた場所へ戻ろうとはしなかった。少しでも早くいかないと大変なことになるんじゃないか。そういった切羽詰まった危機感が優馬を走らせていた。淵の末端を取り囲むように連なる岩を飛び移りながら対岸へと渡ると、勢いのまま岩をよじ上った。
崖を上り切った先に、七瀬はいた。
「あ、優馬も来たんだ」
森の空気を味わうかのように両手を広げ深呼吸していた七瀬は、優馬に向かって振り向いた。緊張感の欠片もない様子に、優馬は全身から力が抜けるのを感じながらその場に膝を突き、地面に向けて大きくため息をついた。
「あれ、どうしたの?」
そんな優馬を、七瀬は上からのぞき込む。
「どうしたのじゃないよ。何の用意もなしにうろついたら危ないだろ。しかもそんな格好で」
「え、なに? もしかして心配してくれたわけ?」
自分を見返すことができずにいる優馬を、七瀬はにやついた表情で見下ろしている。
「当たり前だよ。ここがどういうところか全然分かってないよ!」
「何のこと?」
「とにかく! とっとと引き上げるよ」
有無を言わさず、優馬は七瀬の腕を掴んだ。とっさのことだった。一瞬遅れて、意識が追いついてくる。目でとらえた状況を裏付けるように、確かな感触が手のひらの中にあった。
「やだ、引っ張んないでよ」
七瀬の抗議じみた声に優馬は焦った。何を言われるか分かったものではない。
ところが、優馬は身構えようとするよりも先に驚きの余りその場に立ち尽くしていた。優馬たちは森の中にある崖の前にいた。崖には一本の洞窟があり、奥を見通すことはできない。洞窟の入り口に真新しい注連縄が張られている代わりに祠がないという以外は、光を浴びたあの場所とよく似ていた。
けれども何故こんなところにいるのか。つい先ほどまで淵から少し奥に入ったところにいたはずなのに。確かに森の中ではあった。けれども間違いなくこことは違う場所だったはず。
ここは一体どこなのか。優馬は、自分の目に見えるものが信じられなかった。七瀬も同様だった。