「いっくよー!」
七瀬ははしゃいだ声を上げると、空中で一回転しながら水中へ飛び込んだ。
豪快な水音とともに派手な水しぶきが上がるのを眺める優馬は、真夏の日差しを避けるべく木陰に敷かれたブルーシートに腰かけている。
七瀬の退院から数日後、優馬と七瀬は神社の下流にある滝へやってきていた。
辺りをぐるりと取り囲むようにそびえる崖の上から豪快に流れ落ちる滝は二十メートル程の落差を誇り、豊かな水の流れがその直下にある直径三十メートルほどの丸い淵へと注いでいる。
淵は夏休みともなれば近所の子どもたちにとって格好の遊び場ではあったが、小学校の登校日を選んだこともあって優馬たち以外に訪れる者の姿はない。辺りに響くのは岩場を叩くいかにも涼しげな水音と、隙間を縫うように聞こえてくる蝉しぐれである。
優馬はトランクスタイプの黒い水着とTシャツという格好で、体操座りのまま動こうとはしない。一方の七瀬はというと、全くおかまいなしで岩場からの飛び込みに興じている。
なぜこんなことになっているかと言えば、「せっかくの夏休みだから遊びたい」という主張と行き先をこの淵にすることとを七瀬が頑として譲らなかったためである。
とはいうものの、淵に全くと言っていいほどいい思い出のない優馬としてはどうにも気が乗らず、水着もシャツも乾いたまま。かと言って危険省みず勝手好き放題のじゃじゃ馬七瀬から目を離すわけにもいかず、視線だけは淵へと向けざるを得ない。のだが、その表情は後ろ向きな気持ちを裏付けるように冴えなかった。
そんな優馬とは対照的に、七瀬は淵の脇にある岩場から大きく手を振りながらはしゃいだ声を響かせる。つい先ほど飛び込んだばかりというのに早くも崖の上にいる姿は、優馬の目には入院前の七瀬そのものに映って見える。
七瀬は十メートル以上あろうかと言う高さをものともせずに助走を付けて勢いよく飛び降りると、両手を前に揃えた飛び込み姿勢のまま水中へと消えていく。それからほんの一瞬遅れ、淵に豪快な水音が響き渡った。
優馬の表情が冴えないのも当然と言えば当然のことだった。淵は鼻血を出しながら失神した挙げ句ヘタレ呼ばわりされることとなったトラウマの元凶であり、できれば関わりたくないというのが優馬の偽らざる本音である。
優馬は湧き出る汗を鬱陶しげに拭いながら、器用な平泳ぎでこちらへと戻ってくる七瀬を気のない顔で眺めた。
「もう何なのよ、こんなところでぐだぐだして。今がどんな時か分かってるの?」
「そう言われても」
全身から文字通り滝のように水を垂らしながら淵から上がってきた七瀬の言葉に、優馬は苦い表情で答えた。七瀬は濃い紺色の半そでシャツに体育の授業で使うハーフパンツ、という見栄えのない格好をしている。
「だって夏休みだよ? 二度と来ない高校二年生の夏休みだよ? 今は今しかないんだから、夏らしいことしたいじゃない」
七瀬の背中まである長い黒髪は、普段とは違い後頭部で結わえられポニーテールになっている。髪を両手で絞り、ぽたぽたと水気を落としている七瀬の声は期待感を滲ませていつもより少し高かった。
「まあ言いたいことは分かるけどさ」
「取り合えず今は身動き取れないわけだし、だったら他のことするしなかないと思うの。気分転換することだって大事だと思わない?」
「七瀬はそうやって言うけど、僕がここに来て楽しいと思う?」
優馬は相変わらず気乗りのしない顔を七瀬に向けた。優馬の頭には鼻血事件のことがちらちらと浮かんでいる。
「なに? せっかく女の子と遊びに来てるってのに、不満でもあるわけ? 龍神の調査が上手くいかないから、こうやって気晴らしに来てるんじゃない」
「気晴らしって言うけど、七瀬が一人で全部決めたんじゃないか。だいたい、七瀬だって別に水着とか着てるわけじゃないだろ。いつもとどう違うんだよ」
七瀬のいでたちを確認するように、優馬は視線を上から下へ流した。
「水着? ああ、下に着てるんだよね」
七瀬はシャツの裾を掴み、ジャージのウエスト部分をぐいと押し下げた。優馬の目に飛び込んでくるのは、ビキニタイプの水着をキャンバスにした混じり気のない青色。服の地味な色合いとのコントラストが、まだ晴れきらない雨上がりの空のように目に眩しい。
完全な不意打ちだった。
「な、何かいいなさいよ」
が、やはり優馬はうまく対応することができない。
「あ、もしかして見惚れちゃった?」
「べ、別に」
優馬は慌てて視線を逸らす。けれども、そのせいで赤く染まりきった耳が七瀬にまる見えになってしまっている。
「ふぅーん? 怒らないからー。正直に言ってごらーん?」
七瀬は頬を緩ませながら目尻を下げ、そんな優馬の反応を楽しむかのように声色を弾ませた。優馬はなおも顔を逸らせたままだんまりを決め込んでいる。
「黙ってても分かんないんだけどぉー」
「う、うるさいな。しょうがないだろ、七瀬がいきなりそんなの見せるのが悪いんだろ」
再び膝に顔を隠しながら、優馬は挑発を止めようとしない七瀬にやっとのことで答える。
「そんなの……そんなのって言い方ないでしょ! じゃあ着てこなければよかったとでも言うわけ?」
「そうは言ってない」
「じゃあ何なの? はっきり言いなさいよ」
七瀬は握りしめた拳を腰に当て、優馬に向けて挑戦的な視線を向けている。圧倒的な剣幕に圧されてしまい、優馬は見返すことができない。
七瀬は肩で息をしたまま優馬を睨みつけていたが、鋭さを保ったままの視線をぷいと逸らしてしまった。
七瀬は優馬と顔を逸らしてからもなお口がへの字になるくらいに強く唇を引き結んでいたが、拳を軽く外へ向けるようにすると、くるり百八十度の方向転換。数歩前へ進み出て淵を見つめた。見る者の心を吸い込んでしまいそうなくらいに澄んだエメラルドグリーンが、奥底深くまで続いている。
「私、泳ぐ」
叩きつけるように宣言すると七瀬はシャツの裾に手をかけた。水を重く吸い込んだシャツが頑なに引っ掛かるのを力任せにめくりあげ、続けざま脱いだジャージと一まとめにして岩の上へと放り投げた。
いじけた気分を抱えるように体操座りで一部始終を見ていた優馬は、身じろぎはおろか呼吸することすら忘れ完全に固まってしまっていた。
ほんの目と鼻の先で繰り広げられる光景に完全に目を奪われ、けれどもそのことにすら気づけないまま突如露わになった七瀬の水着姿をただ茫然と見上げていた。
退院直後のためか七瀬の肌は白く透き通り、雫滴る姿は朝露に濡れる新芽のような瑞々しさに溢れている。ポニーテールに束ねられた髪から滴る水滴は木陰の光を受けて輝く珠となり、しなやかな起伏を撫でるように滑り落ちていく。
さらには背中と首筋、腰の両サイドを留める結び紐は大き目の蝶々結びに結えられ、場所が場所であれば人目を引くに違いない水着姿に一層の彩りを添えていた。
七瀬が立つ岸辺には幾重にも重なりあった木漏れ日が光のカーテンとなって降り注ぎ、風のさえずりに合わせ歌うように揺れていた。穏やかな光は七瀬の全身を優しく包み、どこまでも柔らかな輪郭を、淡く眩くにじませていた。
耳どころかもはや顔一面を紅潮させた優馬は、凝視してしまっていたことに気付いて顔を逸らした。光を浴びたあの日、気を失った七瀬を背負った時背中に感じた感触、手の平に触れた太ももの柔らかさ、頬にかかった髪の甘い香り。そういったものが生々しく蘇ってくるのを優馬は今更ながらに感じていた。
遅れてやってきた感覚は、ここで初めて得たかのように生々しい。
優馬はすっかり取り乱してしまっていた。
性格ががさつ。
言葉づかいが荒い。
気分屋でよく怒る。
優馬の扱いが酷い。
必死に並べてきたはずの言い訳は、全て跡形もなく吹き飛んでしまっていた。数年ぶりに見る七瀬の水着姿は優馬の記憶から余りにもかけ離れていた。いっそ別人とでも思ってしまう方が、まだ収まりがいい気がした。
漫画雑誌の表紙から、本物のグラビアアイドルが飛び出してきたかのようだった。
優馬は現実ではないような感覚に何度も瞼を擦り、頬を叩いた。けれども、目の前にいるのは紛れもなく七瀬だった。どれだけ目を逸らそうとしたところで、疑いようのない事実が優馬を静かに圧倒していた。誤魔化せる余地などどこにも残ってはいなかった。
──私、女の子だから。
七瀬自身から、そう言われた気がした。
優馬は胸のざわつきを押さえることができなかった。
この感覚に名前というものがあるとしたら、もしあるとしたら、何なのだろうか。
自覚がなかった。今まで生きてきた中では、知り得なかったものだったから。
ただ、なんとなくの予感はあった。
一つの言葉が頭の中に浮かび上がってくる。
けれども、優馬は頭に浮かびかけたものを全力で振り払った。余りにも自分には縁遠いように感じられ、気が引けていた。
仮に自分の予感が正しいとしても、自分が七瀬に向けてそういった気持ちを持つということは、非常に滑稽なことではないのか。随分と身分違いで、かつ痛々しい勘違いでしかないのではないか。ヘタレの自分には、分をわきまえない過ぎた夢なのではないのか、と。
優馬が伸ばしかけた手は、けれどもつつかれた蝸牛の触覚よろしく素早く引っ込んでしまっていた。誰かに突かれるまでもなく、自分で引っ込めてしまっていた。
七瀬ははしゃいだ声を上げると、空中で一回転しながら水中へ飛び込んだ。
豪快な水音とともに派手な水しぶきが上がるのを眺める優馬は、真夏の日差しを避けるべく木陰に敷かれたブルーシートに腰かけている。
七瀬の退院から数日後、優馬と七瀬は神社の下流にある滝へやってきていた。
辺りをぐるりと取り囲むようにそびえる崖の上から豪快に流れ落ちる滝は二十メートル程の落差を誇り、豊かな水の流れがその直下にある直径三十メートルほどの丸い淵へと注いでいる。
淵は夏休みともなれば近所の子どもたちにとって格好の遊び場ではあったが、小学校の登校日を選んだこともあって優馬たち以外に訪れる者の姿はない。辺りに響くのは岩場を叩くいかにも涼しげな水音と、隙間を縫うように聞こえてくる蝉しぐれである。
優馬はトランクスタイプの黒い水着とTシャツという格好で、体操座りのまま動こうとはしない。一方の七瀬はというと、全くおかまいなしで岩場からの飛び込みに興じている。
なぜこんなことになっているかと言えば、「せっかくの夏休みだから遊びたい」という主張と行き先をこの淵にすることとを七瀬が頑として譲らなかったためである。
とはいうものの、淵に全くと言っていいほどいい思い出のない優馬としてはどうにも気が乗らず、水着もシャツも乾いたまま。かと言って危険省みず勝手好き放題のじゃじゃ馬七瀬から目を離すわけにもいかず、視線だけは淵へと向けざるを得ない。のだが、その表情は後ろ向きな気持ちを裏付けるように冴えなかった。
そんな優馬とは対照的に、七瀬は淵の脇にある岩場から大きく手を振りながらはしゃいだ声を響かせる。つい先ほど飛び込んだばかりというのに早くも崖の上にいる姿は、優馬の目には入院前の七瀬そのものに映って見える。
七瀬は十メートル以上あろうかと言う高さをものともせずに助走を付けて勢いよく飛び降りると、両手を前に揃えた飛び込み姿勢のまま水中へと消えていく。それからほんの一瞬遅れ、淵に豪快な水音が響き渡った。
優馬の表情が冴えないのも当然と言えば当然のことだった。淵は鼻血を出しながら失神した挙げ句ヘタレ呼ばわりされることとなったトラウマの元凶であり、できれば関わりたくないというのが優馬の偽らざる本音である。
優馬は湧き出る汗を鬱陶しげに拭いながら、器用な平泳ぎでこちらへと戻ってくる七瀬を気のない顔で眺めた。
「もう何なのよ、こんなところでぐだぐだして。今がどんな時か分かってるの?」
「そう言われても」
全身から文字通り滝のように水を垂らしながら淵から上がってきた七瀬の言葉に、優馬は苦い表情で答えた。七瀬は濃い紺色の半そでシャツに体育の授業で使うハーフパンツ、という見栄えのない格好をしている。
「だって夏休みだよ? 二度と来ない高校二年生の夏休みだよ? 今は今しかないんだから、夏らしいことしたいじゃない」
七瀬の背中まである長い黒髪は、普段とは違い後頭部で結わえられポニーテールになっている。髪を両手で絞り、ぽたぽたと水気を落としている七瀬の声は期待感を滲ませていつもより少し高かった。
「まあ言いたいことは分かるけどさ」
「取り合えず今は身動き取れないわけだし、だったら他のことするしなかないと思うの。気分転換することだって大事だと思わない?」
「七瀬はそうやって言うけど、僕がここに来て楽しいと思う?」
優馬は相変わらず気乗りのしない顔を七瀬に向けた。優馬の頭には鼻血事件のことがちらちらと浮かんでいる。
「なに? せっかく女の子と遊びに来てるってのに、不満でもあるわけ? 龍神の調査が上手くいかないから、こうやって気晴らしに来てるんじゃない」
「気晴らしって言うけど、七瀬が一人で全部決めたんじゃないか。だいたい、七瀬だって別に水着とか着てるわけじゃないだろ。いつもとどう違うんだよ」
七瀬のいでたちを確認するように、優馬は視線を上から下へ流した。
「水着? ああ、下に着てるんだよね」
七瀬はシャツの裾を掴み、ジャージのウエスト部分をぐいと押し下げた。優馬の目に飛び込んでくるのは、ビキニタイプの水着をキャンバスにした混じり気のない青色。服の地味な色合いとのコントラストが、まだ晴れきらない雨上がりの空のように目に眩しい。
完全な不意打ちだった。
「な、何かいいなさいよ」
が、やはり優馬はうまく対応することができない。
「あ、もしかして見惚れちゃった?」
「べ、別に」
優馬は慌てて視線を逸らす。けれども、そのせいで赤く染まりきった耳が七瀬にまる見えになってしまっている。
「ふぅーん? 怒らないからー。正直に言ってごらーん?」
七瀬は頬を緩ませながら目尻を下げ、そんな優馬の反応を楽しむかのように声色を弾ませた。優馬はなおも顔を逸らせたままだんまりを決め込んでいる。
「黙ってても分かんないんだけどぉー」
「う、うるさいな。しょうがないだろ、七瀬がいきなりそんなの見せるのが悪いんだろ」
再び膝に顔を隠しながら、優馬は挑発を止めようとしない七瀬にやっとのことで答える。
「そんなの……そんなのって言い方ないでしょ! じゃあ着てこなければよかったとでも言うわけ?」
「そうは言ってない」
「じゃあ何なの? はっきり言いなさいよ」
七瀬は握りしめた拳を腰に当て、優馬に向けて挑戦的な視線を向けている。圧倒的な剣幕に圧されてしまい、優馬は見返すことができない。
七瀬は肩で息をしたまま優馬を睨みつけていたが、鋭さを保ったままの視線をぷいと逸らしてしまった。
七瀬は優馬と顔を逸らしてからもなお口がへの字になるくらいに強く唇を引き結んでいたが、拳を軽く外へ向けるようにすると、くるり百八十度の方向転換。数歩前へ進み出て淵を見つめた。見る者の心を吸い込んでしまいそうなくらいに澄んだエメラルドグリーンが、奥底深くまで続いている。
「私、泳ぐ」
叩きつけるように宣言すると七瀬はシャツの裾に手をかけた。水を重く吸い込んだシャツが頑なに引っ掛かるのを力任せにめくりあげ、続けざま脱いだジャージと一まとめにして岩の上へと放り投げた。
いじけた気分を抱えるように体操座りで一部始終を見ていた優馬は、身じろぎはおろか呼吸することすら忘れ完全に固まってしまっていた。
ほんの目と鼻の先で繰り広げられる光景に完全に目を奪われ、けれどもそのことにすら気づけないまま突如露わになった七瀬の水着姿をただ茫然と見上げていた。
退院直後のためか七瀬の肌は白く透き通り、雫滴る姿は朝露に濡れる新芽のような瑞々しさに溢れている。ポニーテールに束ねられた髪から滴る水滴は木陰の光を受けて輝く珠となり、しなやかな起伏を撫でるように滑り落ちていく。
さらには背中と首筋、腰の両サイドを留める結び紐は大き目の蝶々結びに結えられ、場所が場所であれば人目を引くに違いない水着姿に一層の彩りを添えていた。
七瀬が立つ岸辺には幾重にも重なりあった木漏れ日が光のカーテンとなって降り注ぎ、風のさえずりに合わせ歌うように揺れていた。穏やかな光は七瀬の全身を優しく包み、どこまでも柔らかな輪郭を、淡く眩くにじませていた。
耳どころかもはや顔一面を紅潮させた優馬は、凝視してしまっていたことに気付いて顔を逸らした。光を浴びたあの日、気を失った七瀬を背負った時背中に感じた感触、手の平に触れた太ももの柔らかさ、頬にかかった髪の甘い香り。そういったものが生々しく蘇ってくるのを優馬は今更ながらに感じていた。
遅れてやってきた感覚は、ここで初めて得たかのように生々しい。
優馬はすっかり取り乱してしまっていた。
性格ががさつ。
言葉づかいが荒い。
気分屋でよく怒る。
優馬の扱いが酷い。
必死に並べてきたはずの言い訳は、全て跡形もなく吹き飛んでしまっていた。数年ぶりに見る七瀬の水着姿は優馬の記憶から余りにもかけ離れていた。いっそ別人とでも思ってしまう方が、まだ収まりがいい気がした。
漫画雑誌の表紙から、本物のグラビアアイドルが飛び出してきたかのようだった。
優馬は現実ではないような感覚に何度も瞼を擦り、頬を叩いた。けれども、目の前にいるのは紛れもなく七瀬だった。どれだけ目を逸らそうとしたところで、疑いようのない事実が優馬を静かに圧倒していた。誤魔化せる余地などどこにも残ってはいなかった。
──私、女の子だから。
七瀬自身から、そう言われた気がした。
優馬は胸のざわつきを押さえることができなかった。
この感覚に名前というものがあるとしたら、もしあるとしたら、何なのだろうか。
自覚がなかった。今まで生きてきた中では、知り得なかったものだったから。
ただ、なんとなくの予感はあった。
一つの言葉が頭の中に浮かび上がってくる。
けれども、優馬は頭に浮かびかけたものを全力で振り払った。余りにも自分には縁遠いように感じられ、気が引けていた。
仮に自分の予感が正しいとしても、自分が七瀬に向けてそういった気持ちを持つということは、非常に滑稽なことではないのか。随分と身分違いで、かつ痛々しい勘違いでしかないのではないか。ヘタレの自分には、分をわきまえない過ぎた夢なのではないのか、と。
優馬が伸ばしかけた手は、けれどもつつかれた蝸牛の触覚よろしく素早く引っ込んでしまっていた。誰かに突かれるまでもなく、自分で引っ込めてしまっていた。