「病室に向かう途中、廊下で小さな女の子と仲良くなってね」

「えっ」

 七瀬は、聞いた途端に顔を引きつらせた。

「いや、だから誤解だって」

 優馬だってロリコンなどという不名誉なレッテルはできれば遠慮したい。

「その話、詳しく聞かせて」

「え? ああ、いいけど」

 優馬はやけに真剣な表情を見せる七瀬の意図を測りかねた。また何か言われるだろうか。そんな不安が頭をよぎる。

 が、「そうだねえ」と呟きつつ状況を思い浮かべた。

「病院へ来たら、僕のすぐ横に小さな女の子が来てね。で、いきなり僕の手を握ってきたんだよ。さすがにびっくりしたし、変な人と思われるのも嫌だし困ったなー、と思ったんだけど」

「ひょっとして、誰も気づかなかったんじゃない?」

「そうなんだよ。あ、よく分かったね」

 けれども七瀬は相づちの一つも打たずにじっと優馬を見つめている。瞳の奥にどこか悲愴とでも言うべき何かを漂わせながら。居心地の悪さを感じた優馬は、どうしていいのかも分からず再び天井を見上げていた。

「で、その子が僕の顔を見ながら話しかけてくるんだ。と思ったら、今度は待ち合い室にいる子どもにちょっかいを出し始めたんだ。けど当の子どもたちは全然気付かないんだ。しかもよくよく見ると体がちょっと透けててさ。座ってる椅子なんかが体越しに見えるんだよ」

「その子、ホントに幽霊かも」

 七瀬は、今までにないくらいに真剣な光をその瞳に湛えている。

「出るらしいの。この病院」

 その言葉に優馬はびくりと体を震わせる。が、七瀬は構うことなく自分の話を続けた。

「昔、この病院に入院してた女の子が亡くなったらしいの。それ以来、廊下を走り回る女の子の霊が出るようになったって。霊感が強い人の話だと、自分が死んだことに気づかないまま……おーい聞いてる?」

 優馬は七瀬の話を途中から遮るように、焦点の合わない目を震わせながら口の中で何やら呟いている。

「話最後まで聞いてよ。別に悪さするような幽霊じゃないって」

 ベッドから身を乗り出した七瀬が完全隙だらけの優馬の耳に直接語りかけると、ようやく正気を取り戻した優馬の体がビクッと跳ねた。

「私の話、ちゃんと聞いてた?」

 答えるまでもなく、相変わらずぶつぶつつぶやき続ける優馬の顔には「怖い怖い怖い」と書いてある。

「もしかしてそれ般若心経? よく覚えたわねえ」

 七瀬は呆れてながらも感心している。

「だからー、別に悪さするような幽霊じゃないから安心してって言ったの!」

 けれども優馬は止まらず、一通りで唱えたところでようやく読経を止めた。

「で、優馬はそういうのないの?」

 優馬はあれこれと考えるそぶりを見せた後、何度か深呼吸をした後でぽつぽつと話し始めた。

「実は、僕も見えるようになったみたいなんだ」

「幽霊が?」

「多分、だけど」

「どんな風に?」

「色々だよ。もやがかったみたいにうすらぼんやりして見えることもあるし、さっきの女の子みたいにかなりはっきり見えて、声が聞こえることもある。このあいだも幽霊と気付かずに何となく目が合っちゃってさ。そしたらいきなり僕に向かって近付いて来たんだ。その時はたまたま自転車に乗ってたから、全力で逃げたよ」

「で、逃げ切れたの?」

「何とかね。もう汗だくでさ。なのに背中びっしりに鳥肌立ったよ。しかも全然収まらなくって。真昼間に全力疾走でさ、滅茶苦茶暑いはずなのに寒いんだよ。あれから余計人と顔を合わせるのが嫌になったね。あれから、そいつと出くわしたところには怖くて行けてない。あと、暗がりのあるところとか、夜の外出もダメだね」

「あんまり前と変わらないじゃない」

「まあそうなんだけどさ」

 優馬は頭をかいた。

「私の場合、最初は誰かが悪戯してるとばかり思ってたの。誰かが部屋の扉をノックしたり廊下を走ったりしてるんだよね」

「けど誰もいなかった」

「そう! 廊下を見ても誰もいなかったの。けど同じことが続くからどうしても気になるじゃない? だから看護師さんに聞いたのよ。そしたら、『何で知ってるの?』って」

「他にも幽霊を見た人がいるってこと?」

「その辺は色々あるって。遠巻きに廊下にいるところを見た、とか声だけ、とか。ただ、見聞きしたからって悪いことが起きたりとかはないみたいだから安心していいよ」

 優馬は、七瀬の言葉にようやく肩の力を抜いた。体中の力が抜けていくようだった。
常人に非ざる力は、いざ手に入れてみたところで二人を高揚させるものではなかった。それどころか、望まざる力を手に入れたがためにできた夕立前のような重苦しさが二人に色濃く影を落としていた。

 特に優馬においては、相性の面で最悪と言えた。ただでさえ「鼻血」という厄介なものを抱えているというのにさらに、という話でもある。
 
 目に見えないものが見えるということは、無害なものばかりが見えるとは限らない。調査の進み具合によっては、あの化け物やそれ以上の何かを目の当たりにするかもしれない。優馬は考えるだけでも憂鬱だった。とは言え、落ち込んだ七瀬の手前あれ以外言いようがなかった、という気も少なからずあった。

 図らずも自分は賽を投げてしまった。後戻りなど、できはしない。優馬は、今さらながら自分の発言の重大さに気付かされていた。

「結局、あの光は何だったんだろうね」

「それは僕もずっと気になってる」

 七瀬のほとんど独り言に近い問いかけに、優馬もひとまず同意した。

「龍神は神社の池に棲んでるって言う話だけど、だったら光の原因は何だったんだろう。あの神社には、龍神以外にも強力な力を持つ何かがいるってことなのかな? だいたい、僕たちを襲った化け物は何だったんだろう。龍神伝説ってのは、一体何なんだろう。分からないことだらけだよ」

 お互いがお互いを見合うように、気まずい沈黙が漂い始める。

 と、その時だった。

「あなたたち何してるの!」

 突然浴びせられた棘のある声に二人が顔を上げると、引き戸を開けられた入口に一人の中年女性がいた。雰囲気からして年齢は四十辺りだろうか。けれどもその整った顔立ちは年齢を感じさせず、見ようによってはずっと若く見えないこともない。

 ──誰?

 そんな疑問を口にする猶予すら優馬には与えられず話は一方的に進んでいく。

「七瀬! まさかあの人のことをこの子に」

 七瀬は唇を硬く結び、目を逸らしたまま答えない。

「あの人のことは忘れなさいって何度言ったら分かるの! おまけに関係ない人まで巻き込んで。あなた、自分が何をしてるのか本当に何も分かってないわね」

「お母さん、優馬は悪くないの」

「黙りなさい!」

 一喝で部屋の空気を凍らせると、七瀬の言い分など聞く耳持たない体で七瀬の母は優馬を見やった。地獄の鬼のような目に、優馬の身が竦んだ。

「あなた、今すぐここから出て行きなさい!」

「お母さん、やめて!」

「いいから出ていきなさい!」

 ヒステリックな金切り声に病室の壁が反響し震えた。優馬は声に背中を押されるかのように病室を出ると、なおも背後から自分たちを追いかけてくる言い争う声を聞きながら早足で病室を後にした。