「そう言えば、優馬も警察に呼ばれて大変だったって聞いたんだけど?」
七瀬はそのまま数秒のあいだ黙り込んだところで、ようやく上げた視線を優馬に向ける。
優馬は返事もできずに目をしばたたいた。一体誰から聞いたのか。
「あ、学校の先生から聞いたんだけどね」
優馬の表情がよほど真に迫っていたのか、七瀬は弁明でもするかのように早口で答えた。
「確かにそうなんだけど」
優馬の言葉は歯切れ悪く滞る。
詳しく語ろうとすれば随分長い。とにかく、やってもいないことを勘繰られ、ひたすら忍の一字で耐えていた。すると何故かいきなり聴き取りが打ち切られ、よく分からないまま解放されたのだ。
「まさか神隠しに遭ったことになってるなんて、想像も付かなかったなあ」
「何それ?」
思わず声を上ずらせる優馬に七瀬は大きな瞳をぱちくり。ゆっくりと息を吐き出しながら肩と視線を落とした。
「何も聞かされてないんだ」
「でも、それでようやく分かったよ。何で聴き取りがいきなり打ち切られたのか」
「署内で軽く騒ぎになったって。で、事件性もなさそうだしこれ以上関わらない方がいいって結論になったらしくて。まさに『さわらぬ神に祟りなし』よね」
七瀬は顔に表情というほどのものも浮かべないまま、古文の教科書でも読みあげるような調子で話し続ける。そんな七瀬に対してどんな反応をすればいいのか。優馬は冴えない表情でうなずく。
「私は滝上家がらみ、優馬たちは神隠し。どっちにしろ、ろくな目には遭ってないってことね」
今度こそ七瀬は口をはっきりと歪め、自嘲的な笑みを浮かべる。
──やめてよ。
七瀬の表情を見た優馬は、心ながらそう思わずにはいられなかった。丁寧に磨き上げられたグラスに泥水でも注がれるような、とても残念なものに見えたのだ。
何故七瀬がこんな目に遭わなければならないのか。どうにかすれば防ぐことはできたのではないのか。容易に答えなど出ない。仮に出たところで希望にも何にもならないかもしれない問いを、優馬はなおも頭の中で反芻し続ける。
「そんな目で見ないでよ。私、同情されるようなことなんて何もないって」
いつの間にそうしていたのか、七瀬は優馬をじっと見つめていた。
七瀬と目が合い優馬は危うく後ろに仰け反るところを何とか踏みとどまる。と言っても、視線に押されたのではない。むしろ正反対だった。
七瀬の目にはいつもの射るような力はまるでなかった。何も映してはいないのではないかと思うくらいに七瀬の瞳は色濃く澱み、心の奥底をうかがうことは叶わない。踏み込めば戻れない底なし沼のような不穏さを、暗い瞳孔の向こうに漂わせている。
──同情
優馬は、七瀬が口にした言葉に思いを巡らす。
今抱いている感情、というか感覚は果たして同情なのだろうか。
優馬には分からない。
確かなのは、自分を貶めるような卑屈な表情を七瀬が浮かべていることが嫌だ、ということだけ。そういう思いを抱くことは、抱いてしまうことは、七瀬の言うとおり同情なのだろうか。
「悪いことしちゃったね。ごめん」
七瀬はなおも力のこもらない微笑みを浮かべる。
無理矢理作ったとしか思えない表情が痛々しくて。
気の利いたことも、
冗談めいたことも、
励ましのことも、
優馬は何も言えなかった。
「別に優馬が悩むようなことじゃないよ。だいたいさ」
七瀬は諭すように語りかける。
「この調査だって、私が勝手に言い出したことなんだし。しかも自分だけ一人で張り切っちゃってさ。優馬はさ、無理矢理付き合わされただけなんだから。おまけに失敗したらオカ研なくなっちゃうし。とんだとばっちりよね。それもこれも、みんな私のせい」
七瀬は優馬を庇う代わりに、全面的に自分を責めた。それでも自嘲することなく言い切った目は今度こそ優馬を捉え、声の調子もいつものごとく力強い。けれども、自分でも気付かないうちに頬は硬く強張り、日が当たらない真冬のコンクリート壁のように張りつめている。
何より、そんな自分を前に静かに肩を震わせている者がいることを、七瀬は完全に見落としていた。
「今まで無理矢理連れ回したことは、自分でも反省してるんだよね。けど、そういうのはもうおしまいにするね。これからは、私一人で何とかする。あと一ヶ月とちょっとしかないけど、一人でこっそりやれば、多分大丈夫だと思うし」
そこまで言い終えたところで一旦深呼吸。
「だからさ、気にしないでよ」
七瀬は力を込めて言い放つ。
「……くない」
「え?」
「七瀬は、何も悪くない」
予想外かつ優馬らしからぬその言葉に、七瀬は僅かながらに眉をひそめた。半ば無意識のうちに優馬の口から零れ出たのは、極めて簡潔な一言だった。
「悪いことなんてしてないんだから、謝らなくていいよ」
思いのほか強くなってしまった自分の言葉の勢いに、優馬は目を白黒させた。が、飛び出した一言が呼び水となって次々に言葉が溢れ出る。
「僕はオカ研が好きだし、オカ研の部長をやってることに誇りを持ってる。オカ研の伝統を、引き継げないまでも守りたいと思ってる。確かに押し付けられたかもしれないけど、嫌々やってるわけじゃない。それに」
両手の拳をぎゅ、と握り締める。次から次へと、力に満ちた言葉が溢れてくる。まるで自分の口から出た言葉ではないようだった。
「あの日、七瀬が遊歩道の奥へ行こうと言った時、止めなければいけなかったのは僕だ」
「だからそんなこと思って」
「なのに僕を差し置いて、一方的に謝らないでくれないかな」
遮るように言いきった優馬に、七瀬は驚きの表情で口を開く。が、すぐに視線を泳がせ俯いてしまう。
けれども俯いてしまったのは優馬も同じだった。思わず飛び出た言葉に込められていたのは、ヒーロー的なものからは遠いところにあるものだった。だからこそ、かっこ悪い独白をしてしまった、という思いに苛まれる。
優馬にも当然非はあった。神社で光を浴びたあの日、遊歩道から外れたところに道があること自体、そもそも異常なことだったのだ。恐ろしい何かに追いまくられるまでもなく、予兆はあった。
今になって考えれば、藪の中へ入ったことが既に重大な判断ミスだったのだ。
焦りはあった。
このままではまずい、何とかしなければ。
切羽詰まった感覚で動いていたことは、否定のしようもない。
だからこそ、藪の中へ続く道を見つけた時に深く考えもせずに入り込んでしまった。
しかも七瀬を止めることもできなかった。結局のところ、あの時の自分は冷静さを見失ってしまっていたと言わざるを得ない。
そう結論付けるからこそ、七瀬の謝罪は受け入れがたかった。
後ろめたくもあり、悔しくもあった。何より、腹立たしかった。七瀬を危険に晒してしまった自分自身が。
「何で七瀬がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ!」
吐き捨てた一言は一体誰に向けれた言葉なのか。優馬自身も分からない。が、少なくとも七瀬ではない。次から次へと、体の奥から涸れることなく熱が沸き上がってくる。のべつ幕なくまくしたててしまいそうになるのを、寸でのところでぐっと堪える。
七瀬が何と戦い、何に傷つけられたのか。そんなことはさっぱり分からない。知ったところで、恐らく自分の手に負えるようなものでもない。ただ、少なくとも自分は七瀬を傷つけない、傷つけたくない。気持ちだけでもせめて伝えておきたかった。
とは言え、いくら言葉を重ねたところで無意味かもしれない。一体どれほどのことが伝わるというのか。そういう疑問も少なからずあった。
今回ばかりは、優馬お得意のパターンとは少し事情が違っている。
本当のことを伝えようとすればするほど、言葉は無力になっていく。あれこれ飾りを付けるほど、肝心なことは埋もれてしまう。オカ研新聞を作る中で、優馬はそのことを痛感していた。入部して以来一年と少しの経験が、埋まりもしない何かを言葉で埋めるのを留めさせていた。
「七瀬は何も悪くない。間違ってない」
だったら。
代わりにできることと言ったら七瀬の言葉を、自責を、力一杯否定することくらいしかない。
「だから七瀬は謝らなくていいんだ」
七瀬は何も悪くない。ただそう信じている、と。
七瀬は始めのうちただ茫然と優馬を眺めていた。が、次第に呆れ顔となり、挙句眉毛の両端を鋭く吊り上げかけたところで、ふっと表情を和らげる。
「あーあ、ほんとバカなんだから」
圧力鍋から噴き出る蒸気のように、七瀬の体から力が抜けていく。
そこにはもはや優馬を嘲るような刺々しさはなく、むしろ出来の悪い弟を慈しむ姉の言葉のようでもあった。
「じゃあバカついでに、言っとかないとね」
七瀬は上半身をゆっくり起こし、「んーっ」と伸びをする。
「ホントは言わないでおこうと思ってたんだけど」
──あんたはもう部外者じゃないから。
言外にそう匂わせていた。
七瀬はそのまま数秒のあいだ黙り込んだところで、ようやく上げた視線を優馬に向ける。
優馬は返事もできずに目をしばたたいた。一体誰から聞いたのか。
「あ、学校の先生から聞いたんだけどね」
優馬の表情がよほど真に迫っていたのか、七瀬は弁明でもするかのように早口で答えた。
「確かにそうなんだけど」
優馬の言葉は歯切れ悪く滞る。
詳しく語ろうとすれば随分長い。とにかく、やってもいないことを勘繰られ、ひたすら忍の一字で耐えていた。すると何故かいきなり聴き取りが打ち切られ、よく分からないまま解放されたのだ。
「まさか神隠しに遭ったことになってるなんて、想像も付かなかったなあ」
「何それ?」
思わず声を上ずらせる優馬に七瀬は大きな瞳をぱちくり。ゆっくりと息を吐き出しながら肩と視線を落とした。
「何も聞かされてないんだ」
「でも、それでようやく分かったよ。何で聴き取りがいきなり打ち切られたのか」
「署内で軽く騒ぎになったって。で、事件性もなさそうだしこれ以上関わらない方がいいって結論になったらしくて。まさに『さわらぬ神に祟りなし』よね」
七瀬は顔に表情というほどのものも浮かべないまま、古文の教科書でも読みあげるような調子で話し続ける。そんな七瀬に対してどんな反応をすればいいのか。優馬は冴えない表情でうなずく。
「私は滝上家がらみ、優馬たちは神隠し。どっちにしろ、ろくな目には遭ってないってことね」
今度こそ七瀬は口をはっきりと歪め、自嘲的な笑みを浮かべる。
──やめてよ。
七瀬の表情を見た優馬は、心ながらそう思わずにはいられなかった。丁寧に磨き上げられたグラスに泥水でも注がれるような、とても残念なものに見えたのだ。
何故七瀬がこんな目に遭わなければならないのか。どうにかすれば防ぐことはできたのではないのか。容易に答えなど出ない。仮に出たところで希望にも何にもならないかもしれない問いを、優馬はなおも頭の中で反芻し続ける。
「そんな目で見ないでよ。私、同情されるようなことなんて何もないって」
いつの間にそうしていたのか、七瀬は優馬をじっと見つめていた。
七瀬と目が合い優馬は危うく後ろに仰け反るところを何とか踏みとどまる。と言っても、視線に押されたのではない。むしろ正反対だった。
七瀬の目にはいつもの射るような力はまるでなかった。何も映してはいないのではないかと思うくらいに七瀬の瞳は色濃く澱み、心の奥底をうかがうことは叶わない。踏み込めば戻れない底なし沼のような不穏さを、暗い瞳孔の向こうに漂わせている。
──同情
優馬は、七瀬が口にした言葉に思いを巡らす。
今抱いている感情、というか感覚は果たして同情なのだろうか。
優馬には分からない。
確かなのは、自分を貶めるような卑屈な表情を七瀬が浮かべていることが嫌だ、ということだけ。そういう思いを抱くことは、抱いてしまうことは、七瀬の言うとおり同情なのだろうか。
「悪いことしちゃったね。ごめん」
七瀬はなおも力のこもらない微笑みを浮かべる。
無理矢理作ったとしか思えない表情が痛々しくて。
気の利いたことも、
冗談めいたことも、
励ましのことも、
優馬は何も言えなかった。
「別に優馬が悩むようなことじゃないよ。だいたいさ」
七瀬は諭すように語りかける。
「この調査だって、私が勝手に言い出したことなんだし。しかも自分だけ一人で張り切っちゃってさ。優馬はさ、無理矢理付き合わされただけなんだから。おまけに失敗したらオカ研なくなっちゃうし。とんだとばっちりよね。それもこれも、みんな私のせい」
七瀬は優馬を庇う代わりに、全面的に自分を責めた。それでも自嘲することなく言い切った目は今度こそ優馬を捉え、声の調子もいつものごとく力強い。けれども、自分でも気付かないうちに頬は硬く強張り、日が当たらない真冬のコンクリート壁のように張りつめている。
何より、そんな自分を前に静かに肩を震わせている者がいることを、七瀬は完全に見落としていた。
「今まで無理矢理連れ回したことは、自分でも反省してるんだよね。けど、そういうのはもうおしまいにするね。これからは、私一人で何とかする。あと一ヶ月とちょっとしかないけど、一人でこっそりやれば、多分大丈夫だと思うし」
そこまで言い終えたところで一旦深呼吸。
「だからさ、気にしないでよ」
七瀬は力を込めて言い放つ。
「……くない」
「え?」
「七瀬は、何も悪くない」
予想外かつ優馬らしからぬその言葉に、七瀬は僅かながらに眉をひそめた。半ば無意識のうちに優馬の口から零れ出たのは、極めて簡潔な一言だった。
「悪いことなんてしてないんだから、謝らなくていいよ」
思いのほか強くなってしまった自分の言葉の勢いに、優馬は目を白黒させた。が、飛び出した一言が呼び水となって次々に言葉が溢れ出る。
「僕はオカ研が好きだし、オカ研の部長をやってることに誇りを持ってる。オカ研の伝統を、引き継げないまでも守りたいと思ってる。確かに押し付けられたかもしれないけど、嫌々やってるわけじゃない。それに」
両手の拳をぎゅ、と握り締める。次から次へと、力に満ちた言葉が溢れてくる。まるで自分の口から出た言葉ではないようだった。
「あの日、七瀬が遊歩道の奥へ行こうと言った時、止めなければいけなかったのは僕だ」
「だからそんなこと思って」
「なのに僕を差し置いて、一方的に謝らないでくれないかな」
遮るように言いきった優馬に、七瀬は驚きの表情で口を開く。が、すぐに視線を泳がせ俯いてしまう。
けれども俯いてしまったのは優馬も同じだった。思わず飛び出た言葉に込められていたのは、ヒーロー的なものからは遠いところにあるものだった。だからこそ、かっこ悪い独白をしてしまった、という思いに苛まれる。
優馬にも当然非はあった。神社で光を浴びたあの日、遊歩道から外れたところに道があること自体、そもそも異常なことだったのだ。恐ろしい何かに追いまくられるまでもなく、予兆はあった。
今になって考えれば、藪の中へ入ったことが既に重大な判断ミスだったのだ。
焦りはあった。
このままではまずい、何とかしなければ。
切羽詰まった感覚で動いていたことは、否定のしようもない。
だからこそ、藪の中へ続く道を見つけた時に深く考えもせずに入り込んでしまった。
しかも七瀬を止めることもできなかった。結局のところ、あの時の自分は冷静さを見失ってしまっていたと言わざるを得ない。
そう結論付けるからこそ、七瀬の謝罪は受け入れがたかった。
後ろめたくもあり、悔しくもあった。何より、腹立たしかった。七瀬を危険に晒してしまった自分自身が。
「何で七瀬がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ!」
吐き捨てた一言は一体誰に向けれた言葉なのか。優馬自身も分からない。が、少なくとも七瀬ではない。次から次へと、体の奥から涸れることなく熱が沸き上がってくる。のべつ幕なくまくしたててしまいそうになるのを、寸でのところでぐっと堪える。
七瀬が何と戦い、何に傷つけられたのか。そんなことはさっぱり分からない。知ったところで、恐らく自分の手に負えるようなものでもない。ただ、少なくとも自分は七瀬を傷つけない、傷つけたくない。気持ちだけでもせめて伝えておきたかった。
とは言え、いくら言葉を重ねたところで無意味かもしれない。一体どれほどのことが伝わるというのか。そういう疑問も少なからずあった。
今回ばかりは、優馬お得意のパターンとは少し事情が違っている。
本当のことを伝えようとすればするほど、言葉は無力になっていく。あれこれ飾りを付けるほど、肝心なことは埋もれてしまう。オカ研新聞を作る中で、優馬はそのことを痛感していた。入部して以来一年と少しの経験が、埋まりもしない何かを言葉で埋めるのを留めさせていた。
「七瀬は何も悪くない。間違ってない」
だったら。
代わりにできることと言ったら七瀬の言葉を、自責を、力一杯否定することくらいしかない。
「だから七瀬は謝らなくていいんだ」
七瀬は何も悪くない。ただそう信じている、と。
七瀬は始めのうちただ茫然と優馬を眺めていた。が、次第に呆れ顔となり、挙句眉毛の両端を鋭く吊り上げかけたところで、ふっと表情を和らげる。
「あーあ、ほんとバカなんだから」
圧力鍋から噴き出る蒸気のように、七瀬の体から力が抜けていく。
そこにはもはや優馬を嘲るような刺々しさはなく、むしろ出来の悪い弟を慈しむ姉の言葉のようでもあった。
「じゃあバカついでに、言っとかないとね」
七瀬は上半身をゆっくり起こし、「んーっ」と伸びをする。
「ホントは言わないでおこうと思ってたんだけど」
──あんたはもう部外者じゃないから。
言外にそう匂わせていた。