「ん、みかんおいしい」
七瀬は味を確かめると軽く喉を鳴らし、口に含んでいた一房を果汁とともに飲み下した。
手の平の上には青い皮をむかれた早生もののみかんが置かれ、部屋には柑橘類の爽やかさと甘酸っぱさの入り混じった匂いが漂っている。
ベッドに横たわる七瀬は淡い緑色の病衣を着ている。上半身は枕とヘッドボードに軽くもたれさせ、普段は結えられている髪も今は流れるままシーツの上に広がっている。
七瀬の表情にいつもの弾けるような勢いはなく、むしろごく普通の少女のようでもあった。
二人は町内唯一である公立病院の一室にいた。優馬は入院している七瀬を見舞いにやってきていた。神社での一件から実に一週間ぶりの再会である。
あれ以来、優馬の感覚を軽く追い越す勢いで時間はあれよあれよと過ぎていった。
警察で話を聞かれようやく解放されたと思ったら次は学校、止めとばかりに生徒会長、と立て続けに呼び出しを食らい続けた優馬はちょっとした浦島太郎気分を味わっていた。
晴れて自由の身となった時には終業式はおろか、夏休みの第一週までもが忙しなく過ぎようとしていたのである。
「なんか、気を遣わせちゃったみたいだね」
七瀬の言葉にはいつものような覇気はなく、代わりにため息を凝縮させたような気だるさだけが色濃く滲んでいる。
視線の先には籠に盛られた色とりどりのフルーツ。
病院へ来る途中、手ぶらで行くのも何だからと買ってきたのだ。ごく普通の高校生にとってはそれなりに痛い出費ではあったのだが、そのことについて互いに触れようとはしなかった。
優馬とほぼ時を同じくして、七瀬もまた一筋縄では行かない状況を辿っていた。意識はすぐに回復したもののその後精神的に不安定な状態がしばらく続いていた。
落ち着いたのはほんのここ数日で、今日の面会にしても七瀬の回復を見計らった上でようやく実現したという状況である。
「活動停止、か」
七瀬は一旦口に入れようと取りかけたみかんの房を元に戻すと、窓の外へと顔を向けた。
ほんの数日前までは鉛色だった空も、今や抜けるようなイノセントブルーへとその色合いを一変させていた。空に君臨する太陽はいっそ凶暴とでも言うべき陽射しで町並みを容赦なく照りつけている。そのため道行く人の姿もまばら、今にも溶けだしそうなアスファルトは路面の空気をしきりに揺らめかせている。
連なる山々の上には入道雲が天高く伸び上がり、ずんぐりとした巨体が見上げる者を威圧するかのごとくその身を白く眩く輝かせていた。
季節はまさに夏の盛りど真ん中である。
結局、生徒会が七瀬に対する聞き取りを行うことはなかった。にも関わらず、オカ研は一ヶ月間の活動停止を言い渡されていた。本来であればせいぜい反省文付きの戒告あたりで済むところを、通報者等からの苦情が続くことを恐れた教員側が厳しい処分を言い渡したのだ。
学校側から伝えられた理由は「宗教施設であるところの神社の、極めて重要な役割を担うべき神域に許可なく踏み入ったことは、本校生徒としてまた本校の部活動として極めてふさわしくない振る舞いであり、これを反省させるに当たり相当の処分が必要であると教員会議において判断されたため」である。
つまり一般人が立ち入れない場所へ断りもなく踏みこんでしまった時点でアウトだった。そういう理屈のため、仮に七瀬がどう答えたところでどうしようもない話ではあった。
もちろん、教員による判断と言うのはあくまで表向きの理由にすぎず、教員側に強く働きかけたのは他でもない生徒会である。
「それで、これからどうなるの?」
「オカルト研究会としての表立った動きは何もできなくなったよ。部室にも入れないし、研究会の備品も一切使わせてもらえない。取材活動も禁止だって。もし活動してるのが見つかったら今度は即廃部っていうおまけまで付いてる」
「一ヶ月か……夏休みのあいだ殆ど何もできないってわけね」
七瀬はふーっと息を吐き出し、以前よりも少しだけ伸びた前髪を指先で弄る。
「そういうことになるね」
七瀬は一旦起こした上半身をヘッドボードに預けると、後ろへだらりと頭を投げ出し天井を見上げた。首筋から顎にかけてのなだらかなラインが、優馬の視界に弧を描く。
「しくじったなぁ」
七瀬は誰に向けてというわけでもなく呟いた。天井を見上げたままの目には何の感情の色もなく、ただただ真っ白な石膏ボードを瞳の中に映している。
七瀬は、まるでボードに開けられた無数の穴から何かを見つけようとするかのように天井から目を逸らさないでいた。
けれども、目にはいつもの溢れ出るような力がまるでなく、単に視線を向けているにすぎない。この瞬間、七瀬の心がどこにあるのか優馬には到底つかめない。
会話が途切れてしまった気まずさから逃れるように、優馬は窓の外へと顔を向けた。
わずかな時間のあいだに、入道雲はその身をさらに一回り大きくさせていた。優馬たちが停滞しているうちにも時間は流れ、物事は移ろいでいく。
ふと優馬が気付くと、七瀬も何を言うわけでもなく窓の外を眺めている。
ただ黙って窓の外を眺める七瀬の姿は、いつぞや優馬が思い描いた窓辺から外を眺める少女のイメージそのものだった。少し面やつれしてはいるものの人目を引く秀麗な顔立ちは以前のまま。むしろしばらく陽に当たっていないせいか肌の色は一層白く透きとおり──
なのだが、優馬が想像していたものからはほど遠かった。
いや、想像通りであることには違いない。なのに目の前にいるのが七瀬であることがまるで信じられない。受け入れられない。いっそ良く似た他人とでも言われた方が、よほどすんなりと腑に落ちる。
と、言うよりも七瀬によく似せた人形くらいにしか今の優馬には映らない。
汚い言葉を撒き散らしつつ顔を真っ赤にして怒る。
口を大きく開けて屈託なく笑う。
地団駄踏んで思い切り悔しがる。
泣いてるところ……は知らないが。
どんな時でも自分の感情を全力でぶつける。手加減なんて一切なし。というよりも多分できない。そんな不器用さが、率直さが、何よりもの七瀬らしさではないのか。
今は、七瀬が外見は変わらないまま中身だけ空っぽになってしまった。優馬は、そう思わずにいられない。
光を浴びたあの日、自分にできることはなかったのか。ずっと優馬の心に棘のように引っかかり続けている。あの場面で何かできる者がいたとしたら、同じ場所にいた自分しかいない。
確かにあの場から逃げ出すことはできた。二人とも五体満足で帰って来ることができた。ヘタレの自分を鼓舞しながら、謎の声に励まされながら。
けれども、結果七瀬は心に傷を負い、今もショックから抜けきれずにいる。原因を作ってしまったのは他でもない自分自身なのだ。
あの時藪の中へ踏み入ることをきっぱりと止めてさえいれば、七瀬はこんな目に遭わずにすんだだろう。今頃悪態を吐きながら、今日も真夏の陽射しにも負けないような勢いでこの町を駆けまわっていたに違いない。
例え龍神を見つけられなくても、七瀬が無事でいてくれることのほうが、よっぽど重要ではないのか。逆に龍神を見つけられるとして、その結果七瀬が犠牲になるようなことがあれば、一体何のための調査なのか。
──誰をも傷つけることなく、人を楽しませるべし
不意に、部室に掲げられていた部訓が優馬の脳裏に蘇る。
けれども、いくら考えたところで「あの日」をやり直すことなどできるはずもない。そんなことはいくら鈍い優馬でも十分すぎるくらいに分かっている。全部分かった上で、なおぐじぐじと同じ思考を繰り返している。
──それにしても。
優馬は改めて思う。
自分はなんてお人よしなのだろうか。
思えば七瀬がオカ研に入部してからというもの、毎日振り回されてばかりいた。龍神の調査が始まって神社での騒ぎ、さらにはオカ研の休部まで一気に駆け抜けた。台風の目たる七瀬が入院しているおかげでようやく一息つける、というのは何とも皮肉な話ではある。
時には不満を漏らしながらも、七瀬の手となり足となりサボることなく調査を続けてきた。おまけに警察では散々疑われ、教師になじられ、挙句生徒会長からはねちねちと絡まれた。なのに七瀬が回復した、と聞けばこうして手土産まで持って見舞いに来ている。
自分でなければ、とっくに愛想を尽かしていたとしてもそうおかしくはない。
一体どこまで振り回されれば気が済むんだろう。考えようによっては、自分はむしろ可哀想な被害者にだって……
と、その時突然鋭い直感が電撃のように全身を撃ち貫いた、ような気がした。
──変わらないよね。
入部の時に七瀬が呟いた一言の真意を、瞬間的に悟った気がした。つまり、今も昔も根っからのお人よし、ということなのだろう。
と言っても、自分がお人よしなことくらいはとうの昔に知っている。知っているどころか骨身に沁みている。これが理由で今までずっと損をしてきたし、きっとこれからも変わらない。日々新たな損をしては、一つ一つ積み重ねていく。
そうやってできたマイナスのピラミッドはもはや優馬の人生そのものと言っていい。
オカルト研究会の活動停止が解けたところでもはやまともに動ける時間などないに等しく、そう言った意味では優馬たちは既に死に体と言ってよかった。あとは部活の廃部と七瀬の退学をただ待つのみ、という状況になったとしても少しもおかしくない。
この期に及んで七瀬に協力したところで、これ以上は何もないのかもしれない。
なのにこれではまるで、七瀬を励ましに来ているみたいではないか。
ただ七瀬が落ち着いたらしいから様子を見に行くことにしただけなのに、だ。
何故わざわざこんなことをしてしまうのか。
答えはまだ見つからない。
「ところで、なんだけど」
優馬は腫れ物に触るような気分でうやうやしく聞いた。
「何?」
「個室、入れたんだね」
「私が不安定だったからね」
七瀬は相変わらず外へ顔を向けたまま、特に喜ぶでもなく淡々と答える。冷めた反応にも、それなりの理由がある。
病院に運ばれた当時も七瀬の体はほんのかすり傷程度しかなかった。その後の検査でも当然のごとく異常は見つからず、本来であれば大部屋で十分なところを他の患者とのトラブルを嫌がった病院側が一方的に個室をあてがったのだ。
それも七瀬の預かり知らぬところで決定されたことであり、目を覚ました時には既に七瀬はこの部屋にいた。ようやく部屋から出てみると、すれ違う者たちは揃いも揃ってろくに目を合わせようともしなかった。
「って、最初は私も思ってたの」
優馬は促すでもなく相づちを打つでもなく、ただ黙って聞いている。
「でも、気持ちが落ち着いたのに、いつまで経っても個室じゃない? それで、何となく分かっちゃったんだよね」
はぁ、と小さくため息。
「こっから先は私の勝手な推測なんだけど」
前置きしてから七瀬は続けた。
「病院は、私を他の患者と接触させたくないのよ。滝上家から睨まれてる私は、さしずめ招かれざる客ってとこだろうし」
七瀬は自嘲するように薄い笑いを浮かべた。
「ただまあ、そのおかげで静かなんだけど」
「退院の目途は立ちそう?」
「分からない。でもそんなにかからないとは思う」
「まあ、病気とはちょっと違うのかもね」
「あっ……うん」
七瀬は体をびくりと震わせたものの、すぐに力を抜いた。結局振り向くことはなく、かと言って元のとおり外を見るでもなく、中途半端に身じろいだ挙句、自らが身を横たえているベッドに視線を落とした。
七瀬は味を確かめると軽く喉を鳴らし、口に含んでいた一房を果汁とともに飲み下した。
手の平の上には青い皮をむかれた早生もののみかんが置かれ、部屋には柑橘類の爽やかさと甘酸っぱさの入り混じった匂いが漂っている。
ベッドに横たわる七瀬は淡い緑色の病衣を着ている。上半身は枕とヘッドボードに軽くもたれさせ、普段は結えられている髪も今は流れるままシーツの上に広がっている。
七瀬の表情にいつもの弾けるような勢いはなく、むしろごく普通の少女のようでもあった。
二人は町内唯一である公立病院の一室にいた。優馬は入院している七瀬を見舞いにやってきていた。神社での一件から実に一週間ぶりの再会である。
あれ以来、優馬の感覚を軽く追い越す勢いで時間はあれよあれよと過ぎていった。
警察で話を聞かれようやく解放されたと思ったら次は学校、止めとばかりに生徒会長、と立て続けに呼び出しを食らい続けた優馬はちょっとした浦島太郎気分を味わっていた。
晴れて自由の身となった時には終業式はおろか、夏休みの第一週までもが忙しなく過ぎようとしていたのである。
「なんか、気を遣わせちゃったみたいだね」
七瀬の言葉にはいつものような覇気はなく、代わりにため息を凝縮させたような気だるさだけが色濃く滲んでいる。
視線の先には籠に盛られた色とりどりのフルーツ。
病院へ来る途中、手ぶらで行くのも何だからと買ってきたのだ。ごく普通の高校生にとってはそれなりに痛い出費ではあったのだが、そのことについて互いに触れようとはしなかった。
優馬とほぼ時を同じくして、七瀬もまた一筋縄では行かない状況を辿っていた。意識はすぐに回復したもののその後精神的に不安定な状態がしばらく続いていた。
落ち着いたのはほんのここ数日で、今日の面会にしても七瀬の回復を見計らった上でようやく実現したという状況である。
「活動停止、か」
七瀬は一旦口に入れようと取りかけたみかんの房を元に戻すと、窓の外へと顔を向けた。
ほんの数日前までは鉛色だった空も、今や抜けるようなイノセントブルーへとその色合いを一変させていた。空に君臨する太陽はいっそ凶暴とでも言うべき陽射しで町並みを容赦なく照りつけている。そのため道行く人の姿もまばら、今にも溶けだしそうなアスファルトは路面の空気をしきりに揺らめかせている。
連なる山々の上には入道雲が天高く伸び上がり、ずんぐりとした巨体が見上げる者を威圧するかのごとくその身を白く眩く輝かせていた。
季節はまさに夏の盛りど真ん中である。
結局、生徒会が七瀬に対する聞き取りを行うことはなかった。にも関わらず、オカ研は一ヶ月間の活動停止を言い渡されていた。本来であればせいぜい反省文付きの戒告あたりで済むところを、通報者等からの苦情が続くことを恐れた教員側が厳しい処分を言い渡したのだ。
学校側から伝えられた理由は「宗教施設であるところの神社の、極めて重要な役割を担うべき神域に許可なく踏み入ったことは、本校生徒としてまた本校の部活動として極めてふさわしくない振る舞いであり、これを反省させるに当たり相当の処分が必要であると教員会議において判断されたため」である。
つまり一般人が立ち入れない場所へ断りもなく踏みこんでしまった時点でアウトだった。そういう理屈のため、仮に七瀬がどう答えたところでどうしようもない話ではあった。
もちろん、教員による判断と言うのはあくまで表向きの理由にすぎず、教員側に強く働きかけたのは他でもない生徒会である。
「それで、これからどうなるの?」
「オカルト研究会としての表立った動きは何もできなくなったよ。部室にも入れないし、研究会の備品も一切使わせてもらえない。取材活動も禁止だって。もし活動してるのが見つかったら今度は即廃部っていうおまけまで付いてる」
「一ヶ月か……夏休みのあいだ殆ど何もできないってわけね」
七瀬はふーっと息を吐き出し、以前よりも少しだけ伸びた前髪を指先で弄る。
「そういうことになるね」
七瀬は一旦起こした上半身をヘッドボードに預けると、後ろへだらりと頭を投げ出し天井を見上げた。首筋から顎にかけてのなだらかなラインが、優馬の視界に弧を描く。
「しくじったなぁ」
七瀬は誰に向けてというわけでもなく呟いた。天井を見上げたままの目には何の感情の色もなく、ただただ真っ白な石膏ボードを瞳の中に映している。
七瀬は、まるでボードに開けられた無数の穴から何かを見つけようとするかのように天井から目を逸らさないでいた。
けれども、目にはいつもの溢れ出るような力がまるでなく、単に視線を向けているにすぎない。この瞬間、七瀬の心がどこにあるのか優馬には到底つかめない。
会話が途切れてしまった気まずさから逃れるように、優馬は窓の外へと顔を向けた。
わずかな時間のあいだに、入道雲はその身をさらに一回り大きくさせていた。優馬たちが停滞しているうちにも時間は流れ、物事は移ろいでいく。
ふと優馬が気付くと、七瀬も何を言うわけでもなく窓の外を眺めている。
ただ黙って窓の外を眺める七瀬の姿は、いつぞや優馬が思い描いた窓辺から外を眺める少女のイメージそのものだった。少し面やつれしてはいるものの人目を引く秀麗な顔立ちは以前のまま。むしろしばらく陽に当たっていないせいか肌の色は一層白く透きとおり──
なのだが、優馬が想像していたものからはほど遠かった。
いや、想像通りであることには違いない。なのに目の前にいるのが七瀬であることがまるで信じられない。受け入れられない。いっそ良く似た他人とでも言われた方が、よほどすんなりと腑に落ちる。
と、言うよりも七瀬によく似せた人形くらいにしか今の優馬には映らない。
汚い言葉を撒き散らしつつ顔を真っ赤にして怒る。
口を大きく開けて屈託なく笑う。
地団駄踏んで思い切り悔しがる。
泣いてるところ……は知らないが。
どんな時でも自分の感情を全力でぶつける。手加減なんて一切なし。というよりも多分できない。そんな不器用さが、率直さが、何よりもの七瀬らしさではないのか。
今は、七瀬が外見は変わらないまま中身だけ空っぽになってしまった。優馬は、そう思わずにいられない。
光を浴びたあの日、自分にできることはなかったのか。ずっと優馬の心に棘のように引っかかり続けている。あの場面で何かできる者がいたとしたら、同じ場所にいた自分しかいない。
確かにあの場から逃げ出すことはできた。二人とも五体満足で帰って来ることができた。ヘタレの自分を鼓舞しながら、謎の声に励まされながら。
けれども、結果七瀬は心に傷を負い、今もショックから抜けきれずにいる。原因を作ってしまったのは他でもない自分自身なのだ。
あの時藪の中へ踏み入ることをきっぱりと止めてさえいれば、七瀬はこんな目に遭わずにすんだだろう。今頃悪態を吐きながら、今日も真夏の陽射しにも負けないような勢いでこの町を駆けまわっていたに違いない。
例え龍神を見つけられなくても、七瀬が無事でいてくれることのほうが、よっぽど重要ではないのか。逆に龍神を見つけられるとして、その結果七瀬が犠牲になるようなことがあれば、一体何のための調査なのか。
──誰をも傷つけることなく、人を楽しませるべし
不意に、部室に掲げられていた部訓が優馬の脳裏に蘇る。
けれども、いくら考えたところで「あの日」をやり直すことなどできるはずもない。そんなことはいくら鈍い優馬でも十分すぎるくらいに分かっている。全部分かった上で、なおぐじぐじと同じ思考を繰り返している。
──それにしても。
優馬は改めて思う。
自分はなんてお人よしなのだろうか。
思えば七瀬がオカ研に入部してからというもの、毎日振り回されてばかりいた。龍神の調査が始まって神社での騒ぎ、さらにはオカ研の休部まで一気に駆け抜けた。台風の目たる七瀬が入院しているおかげでようやく一息つける、というのは何とも皮肉な話ではある。
時には不満を漏らしながらも、七瀬の手となり足となりサボることなく調査を続けてきた。おまけに警察では散々疑われ、教師になじられ、挙句生徒会長からはねちねちと絡まれた。なのに七瀬が回復した、と聞けばこうして手土産まで持って見舞いに来ている。
自分でなければ、とっくに愛想を尽かしていたとしてもそうおかしくはない。
一体どこまで振り回されれば気が済むんだろう。考えようによっては、自分はむしろ可哀想な被害者にだって……
と、その時突然鋭い直感が電撃のように全身を撃ち貫いた、ような気がした。
──変わらないよね。
入部の時に七瀬が呟いた一言の真意を、瞬間的に悟った気がした。つまり、今も昔も根っからのお人よし、ということなのだろう。
と言っても、自分がお人よしなことくらいはとうの昔に知っている。知っているどころか骨身に沁みている。これが理由で今までずっと損をしてきたし、きっとこれからも変わらない。日々新たな損をしては、一つ一つ積み重ねていく。
そうやってできたマイナスのピラミッドはもはや優馬の人生そのものと言っていい。
オカルト研究会の活動停止が解けたところでもはやまともに動ける時間などないに等しく、そう言った意味では優馬たちは既に死に体と言ってよかった。あとは部活の廃部と七瀬の退学をただ待つのみ、という状況になったとしても少しもおかしくない。
この期に及んで七瀬に協力したところで、これ以上は何もないのかもしれない。
なのにこれではまるで、七瀬を励ましに来ているみたいではないか。
ただ七瀬が落ち着いたらしいから様子を見に行くことにしただけなのに、だ。
何故わざわざこんなことをしてしまうのか。
答えはまだ見つからない。
「ところで、なんだけど」
優馬は腫れ物に触るような気分でうやうやしく聞いた。
「何?」
「個室、入れたんだね」
「私が不安定だったからね」
七瀬は相変わらず外へ顔を向けたまま、特に喜ぶでもなく淡々と答える。冷めた反応にも、それなりの理由がある。
病院に運ばれた当時も七瀬の体はほんのかすり傷程度しかなかった。その後の検査でも当然のごとく異常は見つからず、本来であれば大部屋で十分なところを他の患者とのトラブルを嫌がった病院側が一方的に個室をあてがったのだ。
それも七瀬の預かり知らぬところで決定されたことであり、目を覚ました時には既に七瀬はこの部屋にいた。ようやく部屋から出てみると、すれ違う者たちは揃いも揃ってろくに目を合わせようともしなかった。
「って、最初は私も思ってたの」
優馬は促すでもなく相づちを打つでもなく、ただ黙って聞いている。
「でも、気持ちが落ち着いたのに、いつまで経っても個室じゃない? それで、何となく分かっちゃったんだよね」
はぁ、と小さくため息。
「こっから先は私の勝手な推測なんだけど」
前置きしてから七瀬は続けた。
「病院は、私を他の患者と接触させたくないのよ。滝上家から睨まれてる私は、さしずめ招かれざる客ってとこだろうし」
七瀬は自嘲するように薄い笑いを浮かべた。
「ただまあ、そのおかげで静かなんだけど」
「退院の目途は立ちそう?」
「分からない。でもそんなにかからないとは思う」
「まあ、病気とはちょっと違うのかもね」
「あっ……うん」
七瀬は体をびくりと震わせたものの、すぐに力を抜いた。結局振り向くことはなく、かと言って元のとおり外を見るでもなく、中途半端に身じろいだ挙句、自らが身を横たえているベッドに視線を落とした。